想い出の歴史紀行(一乗谷から会津若松まで)-3

3.哀しみのヒーローたち「長岡市」

 8月15日は戦争について深く考える日です。旅日記を少し先にめくって長岡市で、河井継之助と山本五十六というふたりの哀しみのヒーローたちのことを考えます。

河井継之助

コロナ禍の中でも、今年も8月15日がやってきました。そこで、わたしの旅日記を少し端折って、先に長岡市に向かうことにします。

 長岡市は「米百俵の精神」で有名ですが、二度も戦火の焼け野原になった不幸な歴史を持つまちでもあります。焼け野原の原因を作ったのはふたりの悲劇のヒーローです。ひとりは越後長岡藩の家老職河井敬之助であり、彼が開戦を決意して引き起こした北越戦争の前半戦の戦場が長岡城下だったため、市街は焼き払われてしまったのです。もうひとりは山本五十六、彼の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争の末期、1945年8月1日にテニアン島から飛来した爆撃機(B29)125機によって千トン近くの焼夷弾攻撃を受け、市街地の約8割を焼失しています。

 河井継之助については司馬遼太郎の「峠」 が有名ですが、それ以外にもたくさんの評伝 や小説が出ています。それほどに有名な人で あり、明治維新の際に徳川家への忠義に殉じ るために武士の意地を通して散った「ラスト サムライ」のモデルとなったほど人気が高い 人でもあります。

山本五十六(昭和17年頃)

 山本五十六は誰もが知っている真珠湾攻 撃の立案者であり、連合艦隊司令長官だった 人です。旧長岡藩士の家に生まれ、大人にな ってから旧藩主の命によって旧家老職の山本 家を再興して山本姓となっています。河井も 生まれは中堅どころの武士の家だったのが、 藩主に用いられて家老職になっていますから ふたりにはそんな共通点もあるようです。

 河井は戊辰戦争という内戦を、山本は太平 洋戦争という世界戦争の開戦を決意し、ヒーローとして名を残すものの、故郷を(山本の 場合は祖国を)焦土にし、本人たちも戦いの中に死んでいます。  ふたりには多くの縁があります。河井は長岡藩士の中では中くらいの家格の出でありな がら、その才能を藩主にかわれて家老職にまで上り詰めています。その河井を支援したのが家老職山本帯刀という人でした。維新後、その山本家を再興するためにそれまで高野姓だった五十六が山本姓を名乗るようになっています。

  山本が日独伊三国同盟にも日米開戦にも強く反対していたことは有名です。実は河井も京都政権と奥羽諸藩との仲介役を買って出て、戦わずにことを収めようとしたと言われています。ふたりとも戦う事にはむしろ反対だったし、戦いを避けるための努力をしていたことになります。それでも河井は武士であり、山本も武士の流れをくむ軍人でした。河井にとっては藩、山本にとっては国ということにはなりますが、いずれにせよ戦うことを命じられれば戦わざるを得ない立場であったと同時に、正義とか恩義とか言うものに殉じて武人としての名を残すという謂わば武士の美学の様なものに突き動かされ、最終的には「窮鼠猫を噛む」あるいは「蟷螂の斧」的な絶望的な抵抗の戦争を決意するに至っています。わたしは河井も山本も好きだし、その先見の明を尊敬もしています。しかしながら、結局は何をどう言いつくろっても、無謀な戦争を開始し多くの無辜の民を塗炭の苦しみに陥れた挙句に、死に追いやり故郷を灰燼に帰させてしまった罪のそしりは免れません。

  現在長岡市には河井継之助記念館、山本五十六記念館があります。双方の記念館はどちらも 長岡市が開設したもので、それぞれの主人公の生家跡地に建てられているとはいえ、その間は200メートルほどしか離れていません。余所者はわたしに限らず、観光資源として考えるなら、ふたつの記念館を一つにした方が来館者は増えるのではないかと考えるところですが、そこには一緒にして欲しくないという長岡市民の深い情念があることが、今回の訪問で少しだけわかった気がしています。  実は長岡市民の河井継之助に対する思いと、山本五 十六に対する思いが大きく違っているのです。河井は 地元での人気は毀誉褒貶相半ばするという感じで、あ の司馬遼太郎さんでさえ、「峠」の執筆のために現地 を取材訪れた際、長岡の人々の心の襞に触れ戸惑った という事を、どこかで書いておられます。北越戦争中 に領内で起った一揆を鎮圧し、多くの領民を処罰して ることも不人気の一因でしょうが、やはり何といって も住む家や商売のための店を焼き払われた城下の人々 のその後の塗炭の苦しみを考えれば頷ける気もします。

 一方、山本五十六の方は戦争史の専門家などでは個 人的な魅力は別として、純粋に軍人として、あるいは 海軍次官も経験している山本の政治家としての最終決断について、やはり評価の分かれるところなのですが、長岡では山本の人気は非常に高いと言えます。河井が武士の意地で潰した故郷に「米百俵の精神」でできた学校に学び、そこから巣立って連合艦隊司令長官にまでなった山本五十六はやはり郷土の英雄なのでしょうか。

 真珠湾攻撃は山本の「短期決戦で講話に持ち込む」という思惑とは全く別の結果を生みました。日本側は日露戦争の連合艦隊の大勝利と真珠湾攻撃の一応の成功を重ね合わせて、国民の主戦論を沸騰させ、米国では「この恨み晴らすさでおくものか」と言う報復論が世論を突き動かし、対日戦争に踏み切らせただけでなく、日本人や日系人移民に対する差別や排撃、さらには強制収用にまで突き進めてしまいました。その後の日本の敗戦までの戦いの経過はわたしたちの知るところですが。山本自身が自戒のために執務室に掲げていた「百戦百勝不如一忍(百回戦って百回勝っても耐え忍ぶことには及ばない)」という言葉は、河井継之助が残した書の「一忍可以支百勇 一静可以制百動(一忍以って百勇を支うべく 一静以って百動を制すべし)」とともに、戦争が体験から歴史へと変貌していく今こそ、もう一度かみしめる必要があると、わたしは考えています。  ではこれから福井まで戻って、1千万年単位の地質時代にタイムトラベルし、その後、合掌造りの里や熱水隧道の舞台となった峡谷をめぐってから、もう一度長岡に戻って、ふたりについてゆっくりと考えてみたいと思います。

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