歴史に特筆されることになった第26回参議院選挙

(2)国葬について

(承前)安倍晋三元首相が凶弾に倒れて2週間後、岸田首相は国葬を挙行することを閣議決定した。何より岸田政権にとって権力の維持のために必要なのである。あるからこそ、自党内の一部が声高に国葬、国葬と言い始める前に、自らの意志であることを示すために閣議にかけ決定したのだろう。

 しかし、安倍晋三元首相を国葬に付すことの問題は大きいと言わざるを得ない。その問題とは①法的根拠の有無についての説明②国葬決定までのプロセスの不透明さ③国葬に見合う衆目の一致する功績があったかどうか④初めから国民全員の賛意は求めないという発言⑤天皇陛下の扱い等々である。

法的根拠の有無については、わたしは法律家でも法学者でもないが、それでも大いに疑問を持たざるを得ない。日本の国葬についてのルールは国葬令(勅令)として大正15年(1926年)10月21日に制定され、敗戦後の1947年12月31日、日本国憲法施行の際に失効している。戦後1967年の吉田茂の国葬の際、当時の水田三喜男大蔵大臣が国葬に予備費を支出したことに対し、翌1968年5月の衆院決算委員会で、「国葬儀につきましては、御承知のように法令の根拠はございません。(略)私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています。(略)将来としてはそういうことが望ましいと考えています」と答弁している。つまり この時、水田大臣は「国葬儀については法令の根拠はない」「作ることが望ましい」と明確に答えている。しかしながら、その後60年以上も経過した今日に足るまで、国葬の法的根拠と挙行のための基準を作ったという話も、作ろうという論議もなかった。

1967年当時の国葬の決定者である佐藤栄作元首相の死去の際、国葬にすべきではという意見が起こったそうだ。しかし、この時は内閣法制局が「法的根拠がない」として待ったをかけている。今回、安倍元首相の国葬について、内閣法制局は岸田首相の決定に異論をはさんでいないことと対照的だ。

1967年当時の国会は自由民主党の安定過半数(486議席中277議席・1967年1月総選挙)に支えられて、佐藤栄作が長期政権を維持していた時だ。佐藤栄作が亡くなった1975年当時も1972年に行われた総選挙の結果、衆議院の議席数491議席に対して自民党は271議席を有していたものの、田中角栄首相のロッキード問題などで支持率が低迷し始めた時だ。現に三木首相に代わった第34回総選挙では総議席数511に対して249議席と過半数を割っている。2022年の現在、国会の勢力図は圧倒的に与党優位にある。

本来、内閣法制局は法の番人であり、その矜持を持っているべきである。誰のための番人かと言えば、それは国民のためであることは論を待たない。しかしながら、与野党の勢力が与党優位である場合と拮抗している場合とで、その肝心の番人が居眠りしていたり、はっきりと意見を言ったりするというのでは話にならない。もっとも、国会議員は誰が選んでいるかと言えば、我々国民なのだから、その当然の帰趨だと嘯かれれば何をか言いわんやということではあるが。

大体が国葬について考えようにも、法的根拠がない以上できようもない。戦前の明治憲法下における国葬令に基づいて論議することも時代錯誤も甚だしいということになろう。ただ、これだけは言えるのは、閣議決定しただけで果たして国の事業都言えるのかということである。内閣には執行権があるが、国家予算を伴う事務事業の全てが国会の承認がいるはずだろう。今の政権与党の数からすれば、国会審議をしてどんなごり押しも通るはずなのに、それすらせずに「国葬」ということにしてしまった。それが何を意味するのか、考えれば考えるほど空恐ろしい。

 国葬決定までのプロセスの不透明さについては、もともと法的根拠がないのであるから、あとは時の為政者の決断と後押しする勢力の圧力次第ということだろう。戦後の国葬の前例となる吉田茂の場合、10月20日に死去して、国葬は同じ月の31日に行われている。やるやらないの最終決断は佐藤栄作の日記によると22日だったようなので、事務事業としてのプロセスはなかったも同然だった。佐藤栄作は側近の幾人かに意向を確認していると書き留めているが、その通りだったとしても佐藤栄作が独断で決めたことに相違はあるまい。ただ、病死した吉田の場合、あらかじめ容態の進行について認識を共有する中で、国葬という儀式が浮上したことも否めないだろう。

 今回も色々取りざたされてはいるが、いろいろあったとしても岸田首相自身が決断したことに変わりはあるまい。閣議決定までに2週間を要しているが、それが長いか短いかはともかく、岸田首相の党内での位置関係と力の度合いを物語っているのかもしれないし、自民党内部が一枚岩ではないことを検証する際のエビデンスにもなるだろう。また、吉田茂の国葬の時は外国から特使の派遣はあったが、元首クラスの誰彼が来たという記事が見当たらない。少なくとも吉田茂の国葬を決定した佐藤栄作には、元首相の死を利用して弔問外交の成果を期待するというさもしい動機はなかったことになる。

 そもそも、葬儀を大々的にやろうというのは、送られる側ではなく、やる側、特に権力の継承者側の勢力誇示のためである。古くは織田信長の葬儀を取り仕切った羽柴秀吉の例もそうだし、近くは吉田茂の国葬を取り仕切った佐藤栄作もそうだった。岸田首相の場合、外国の元首クラスの要人との会見までもセットしなくては、その権力誇示すらおぼつかないというのだろうか。

 さらに言うなら、仮に安倍晋三という人物が今でなく、もっと先に彼の持病が悪化して亡くなっていたとしたら、彼は果たして国葬に付されていたであろうか。彼の遭難死が将来特筆される令和史のトピックであることは間違いはないだろう。しかしそれは政治家としての彼自身に対する評価、彼の政治実績に対する評価、そして彼を国葬に付すると決断した岸田首相の判断への評価の結果ではなく、ただ単に選挙遊説中に凶弾に倒れたというエキセントリックな事件として、歴史に残るだけではないだろうか。

 国葬に見合うだけの政治的実績をどう評価したのということについては、これから9月27日の当日に向けて、賛否双方の陣営から、あと付で出てくるだろうが、今のところ「8年8カ月の長期政権を担ったこと」「国内外から幅広い弔意が寄せられていること」という、いかにもとってつけたような理由付けだけが語られている。国際的な評価が高いというならノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作でさえ国葬にはなっていない。「東日本大震災からの復興」の功績も挙げられているが、こちらに至っては功罪、毀誉褒貶相半ばするどころか、批判されるべきことの方が多いのではないか。

 「初めから国民全員の賛意は求めない」という発言を聞いた時、わたしは耳を疑った。一見、「そりゃぁそうだろう」と頷きたくなるような言葉だが、事は国葬である。民主主義によって成り立っている国であれば、国民の総意によって葬送される人物のみが国葬に値するのではないか。もちろん、価値観の多様化している現代社会において、全員が賛意を示すというのも空恐ろしい話ではあるが、少なくとも時の権力者が口にしていい言葉ではない。「説明を尽くして理解を求めていく」と付け加えても許されることではない。つまり「国民が何と言おうと、わたしがやると言ったらやるんだ」と言っていることに代わらないのだ。

⑤ その国民の総意の一つの証左として、天皇陛下のご臨席がある。平和憲法によって天皇は国民統合の象徴ということになっている。天皇がご臨席されるかどうかは、つまり国民の総意がそこにあるかどうかということである。天皇がご臨席になるためには、国事行為としてそれなりのプロセスを踏んだものにならなくてはならないが、今回はどうなるのか。法的根拠が何もなく、時の内閣の閣議決定だけで、国会を開くこともなく予備費を使って行われる場所に、我々国民統合の象徴である天皇陛下はご臨席できようもあるまい。

 現に吉田茂の国葬の場合も、昭和天皇はお使いを派遣しただけでご臨席になっていない。当時の皇太子夫妻(現上皇陛下夫妻)はご出席になっているが、憲法上、天皇と天皇のお使い、皇太子では全く意味が違う。昭和天皇は太平洋戦争への深い悔悟のお気持ちから、憲法と法を守ることを非常に厳密に優先されていた。そのこともあって、昭和天皇は吉田茂の葬儀にご臨席ならなかったし、ついでに言うならばA級戦犯が合祀されて以降、それまで欠かさなかった靖国神社参拝に、ついにお亡くなりになるまで一度も行幸されなかった。(続く)

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