トランプの不満を日米安保体制見直しの好機にしようー1
トランプが日米安保条約に不満を漏らしていることを日本政府が不安視しているという。大方のメディアの見方も、思いやり予算の増額を要求されるのではないかとの警戒感ばかりが目立っている。
米国の大統領が安保条約に不満を持ったことは、大いに結構。遅まきながらとはいえ今こそ、在日米軍が誰のために何のためにあるのかを、日米両政府と両国民が考える好機だろう。むしろトランプの意向を歓迎して、この機会に日本国民は安保条約と日米地位協定が如何に不平等で、なおかつ在日米軍基地が日本にとって如何に危険極まりないものかを知って、少なくとも不平等条約の破棄もしくは改正の声を上げていかなくてはなるまい。
もともと安保条約は敗戦後連合国の占領下にあった日本の独立を前に、朝鮮半島の情勢を睨みながら米国とその取り巻き国が、日本における軍事上の権益を守るために交わされた条約であり、日米安全保障ではなく、「米国権益保障条約」ともいうべきあからさまな不平等条約から出発している。その安保条約を1960年に岸内閣が、本質を何も変えないまま継続を断行した後は、米国はなし崩し的に日本を戦争のできる国に向かわせてしまった。
トランプが「米国は日本を守る義務があるのに、日本には米国を守る義務はないじゃないか」と言うが、安保条約はもともと「日本に二度と軍事力を持たせてはならない。そのために米国が日本国内に軍隊を置いて、きちんと見張ってやる」という趣旨だった。それを日本政府は日本国内向けに「米軍基地を日本国内に置くことで米国が日本を守ってくる」という説目に終始してきた。しかも、両国はそれぞれの立場から表向きはそう言いながら、米国の本音は、米本土からは離れている極東(当時は朝鮮半島)における軍事プレゼンスを手放さない事にあった。
日本の敗戦後、朝鮮戦争、東西冷戦、ベトナム戦争での北爆、数次に渡る中東での戦乱、今世紀に入ってからの同時多発テロなどなど時代を経るごとに、米国は日本を戦争に引き摺り込んできた。湾岸戦争では「ショウ・ザ・フラッグ」、イラク侵攻では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と声を荒げて、日本政府を脅し、ついには「思いやり予算」なるみかじめ料まで掠め取っているのだ。日本政府はその都度、憲法の政府解釈で違憲論争を乗り切ってきた。しかし、少なくとも沖縄をはじめ基地周辺の日本国民は塗炭の苦しみと屈辱感を感じながら生きてきた事を、基地のない地域の日本人ももう少し我が事として考えるべきだろう。自衛隊もいつのまにか自他共に陸海空軍と認め、そrを公然と口にするようになっている。憲法改正論者はそれを追認して、日本に公然と軍隊を置けるようにしようとしているのだ。
多くの日本人は「米国が日本を守ってくれる」「米軍基地があるから、日本は他国から攻められることはない」と考えているかも知れない。今こそもう一度、それが本当にそうなのか考えて見ようではないか。日本を守るのは日本人だし、守ると言うことは単に軍備によって矛と盾の拡大競争に参加することではない。戦争は常に「国を守るため」と言って始まることも忘れてはならない。(続く)