ステイホームウイークス-1

ステイ・ホーム・ウイークス

HPとブログを更新することを怠け始めて、かれこれ2年が経ってしまいました。心を入れ替えて更新しようと思ったんですが、あれからパソコンを買い替えたのでHPの方は、やり方もログイン用のパスワードも皆目わからなくなってしまいました。ブログの方は何とかなりそうなので、ブログはこれから心を入れ替えて毎週更新しようと思っています。本当は昨年、福井県、新潟県、福島県を旅した時の感想を書くつもりでいましたが、新型コロナ感染症が跋扈する今、地質時代から明治維新直前までという過去の話という訳にも行きませんので、先の楽しみにとっておきます。これからしばらくは徒然な時間をうっちゃるために、コロナ感染症パンデミックの現在と未来について考えてみようと思います。

1. カナリア考

 もう何年も前になりますが、ある詩人の詩集出版記念パーティーで、その詩人のご主人でわたしの高校の大先輩が突然わたしに「世の中が乱れた時こそ詩人が一歩前に出なくてはならない。まして君は政治の世界にいる、その責任は大きい」と声を掛けてくれました。それ以来、彼の言葉がわたしの耳から離れたことはありません。その大先輩は残念ながら、それから間もなく闘病生活に入られ亡くなられてしまいました。だからこそ、わたしにとって、その言葉は彼の遺言となったのです。

 詩人という社会的存在はいわばイソップ童話のキリギリスのように、アリが汗水たらして働いている時に、我が世の春を謳っているだけの存在のように思われているようです。確かに霜詩人も社会にとって、特に恐慌や戦争下の社会にとって直接何かの役に立つものではないかもしれません。それでもわたしは少なくともカナリアにはなれるかもしれないし、ならなくてはいけないと思っています。

わたしたちが子どもの頃、石炭が産業の基本的なエネルギー源でした。三井の労働争議や三池炭鉱の事故なども小学校の頃の新聞記事やニュース映画の中で大きく扱われていました。その映像の中でも記憶に鮮明に残っているのが、鉱夫が坑道に入って行く時にカナリアを籠に入れて連れて行く姿でした。今のように空気中の酸素量や致死性のガスを常時分析し監視する計器のなかった時代、切羽と呼ばれる坑道の先端で働く人々の安全確認のため、カナリアが使われていたのです。酸欠や有毒ガスに弱いカナリアが死ぬことで、鉱夫たちに危険をしらせ退避を促していたというわけです。

 大先輩がおっしゃった「社会が混乱した時こそ詩人が一歩前に出でよ」という言葉と、炭鉱のカナリアがオーバーラップしています。明治以降の日本の現代詩の歴史の中でも社会にカナリアとしての役割を果たした詩人も多くいましたし、現代でも社会のカナリアたろうとして、それに準じた先人たちを語り継ごうと長崎県の岡耕秋氏や東京の柳生じゅん子氏など多くの詩人たちが活動しています。

 逆に太平洋戦争中、わたしたちが現在知っているほとんどの詩人たちが戦意高揚の詩を書いていますし、高村光太郎などは戦時中「大政翼賛会」の文芸部門「日本文学報国会」の「詩部会」の会長となり、副会長西城八十や理事佐藤春夫と共に戦意高揚のための詩を多数発表しました。わたしはその高村光太郎について同人誌「心象」の221号に次のような文章を寄せました。

歴史の中の詩、詩の中の歴史

わたしたちは今に生き、過去に学び、未来に希望をつないでいる。詩人もまた、その日常の中であるいは心象風景を写実し、あるいは情念を懐深く醸し上げて詩にしている。その意味で我々の詩は我々の生きている時代の中から抜け出すことはできまい。

また、詩人がいかに懐古的であれ、または未来志向型であれ、現に生きている時代の影響されずに済むということはない。その意味で我々の書き、発表する詩はその時代そのものを包含していることになろう。

記憶せよ、十二月八日

記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史改まる

アングロサクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは我等ジャパン、

眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治めしたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

東亜を東亜にかへせというのみ。

彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を砕かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

老若男女、みな兵なり。

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

世界の歴史を両断する。

十二月八日を記憶せよ。

 この詩を書いた詩人はまた十二月八日の日記に日米開戦を知らせる「宣戦の詔勅」を聞いて受けた感動を『聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終わると、みな目がさめたようにして急に歩き始めた。…頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。…ハワイ真珠湾攻撃の戦火が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、息をはずませたアナウンサーの声によって響き渡ると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した』「十二月八日の記」と書いた。

 詩も日記も高村光太郎のものである。1941年12月の真珠湾攻撃とその直後の宣戦布告の報に接して書かれたものである。彼は翌1942年5月に「大政翼賛会」によって設立された「日本文学報国会」の「詩部会」の会長となり、太平洋戦争中、戦意高揚のための詩を驚くほど精力的に多数発表し続けた。もちろん、戦意を鼓舞する詩を発表したのは彼一人ではない。詩部会の副会長西城八十、理事佐藤春夫はもとより、北原白秋、草野新平、三好達治、室生犀星をはじめ、おおよそ我々が知る近代詩の先達たちの殆ど全員が、名を連ね、温度差こそあれ大政翼賛会の意図に沿った詩を発表している。さらには、大政翼賛会宣伝部が1942年に発行した「詩歌翼賛運動」第二輯には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」さえ掲載されている。宮沢は1933年に死去しているから、もちろん賢治のあずかり知らぬものである。

 高村光太郎は戦後、岩手県花巻市郊外に粗末な小屋を建ててそこで自らを流謫の刑に処したと言われている。しかしながら、彼は1945年8月15日時点の思いを詩にしている。その詩は国と共に家も地位も名誉も失った人とは思えないほど意気軒昂で、正しく日本文学報国会詩部会会長の面目を保っている。

一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

鳥屋崎神社社務所の畳に両手をつきて

天井はるかに流れ来る

玉音の低きとどろきに五体をうたる

五体わななきてとどめあえず

玉音ひびき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく

宸局に向かってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのづから強からんとす

真と美と至らざるなき我らが未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

 同じく8月19日に旧い詩仲間で、同い年の友人水野葉舟に宛てた葉書にも

「八月十日ひるの花巻町空襲で宮沢氏邸全焼。小生又々罹災。目下小生だけ元中学校長宅に避難、絶景一望の一室に起居してゐますが、そのうち太田村という山寄の地方に丸太小屋を建てるつもり。追追そこに日本最高文化の部落を建設します。十年計画でやります。昭和の鷹ヶ峯という抱負です。戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。」

としたためている。

 ところが翌年の1946年になると、心境は大きく変わる。同年に発表された「報告」という作品群はのちに「暗愚小伝」と改名されているが、その中に先立たれた最愛の亡妻智恵子への「 炉辺 報告(智恵子に)」という一篇がある。

炉辺

           報告(智恵子に)

日本はすっかり変わりました。

あなたの身ぶるいする程いやがっていた

あの傍若無人のがさつな階級が

とにかく存在しないことになりました。

すっかり変わったといっても

それは他力による変革で、

(日本の再教育と人はいひます)

内からの爆発であなたのやうに、

あんないきいきした新しい世界を

命にかけてしんから望んだ

さういふ自力で得たのでないことが

あなたの前では恥しい。

あなたこそまことの自由を求めました。

求められない鉄の囲の中にゐて

あなたがあんなに求めたものは、

結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、

あなたの頭をこはしました

あなたの苦しみを今こそ思ふ。

日本の形は変りましたが、

あの苦しみを持たないわれわれの変革を

あなたに報告するにはつらいことです。

また、同じ「暗愚小伝」の中にある「山林」では

山林

… 前略 …

おのれの暗愚をいやというほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても感受しよう。

… 後略 …

と書いた。彼の建てた丸太小屋が、日本最高文化の部落の中心から、自らを幽閉する独房へと変貌した時期であったといえるだろう。

 高村は同年に次のような詩も書いている。

わが詩を読みて人死に就けり

爆弾はわたしの内の前後左右に落ちた。

電線に女の太腿がぶらさがった。

死はいつでもそこにあった。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になって私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷に書き送った

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

(不定稿)

彼はそれから7年間独居自炊の生活を送り、既に罹患を自覚していた肺結核を重篤化させた。1952年に有名な十和田湖畔の「乙女の像」を製作するために東京に移ったものの、1956年、亡き妻智恵子と同じ病で亡くなっている。7年間の寒村での逼塞を考えれば、緩慢なる自裁であったと言えるかもしれない。

高村のように慚愧の念から自らを罰したといえる詩人は少ない。大半が口を拭って知らぬ顔を決め込み、出版社も全集などの編者も、戦争中の文学報国会に発表された作品を、消しゴムで消すように無かったものにしてしまった。もちろん、昭和30年代にはそれを批判する動きもあるにはあったのだが、結局、詩人だけでなく「汚れていないものが果たして、その頃の日本の文学者の中にいるのか」ということになり、そんな論議はいつのまにか、霞の彼方に消えてしまったらしい。

わたしも高村を責めようというのではない。もちろん、高村と同時代の詩人たちに対しても糾弾しようとは思わない。むしろ、哀しみの目で彼らの肩を抱いて「辛かったなぁ」と声をかけたい。そのつもりで当時の詩人たちの作品に接している。70年以上もたった今日、戦争を知らぬ我々に当時の詩人を責めることなどできるはずもないのだから。

 思えば近代詩発祥の時から、日本は常に戦争の時代にあった。明治大正を経て、第二次世界大戦、そして敗戦から戦後復興期を経て今日に至るまで。戦争では幾十万、幾百万の老若男女の命が失われている。その命を失った人々,死者の声も詩のモチーフになりえたはずでる。

しかし、我々が今目に触れることのできる詩からは、死者やその人間を死に至らしめた加害者の声は聞こえてこない。それは、その時代時代に、詩人たちが自らが確かに生きた証として詩を書き、且つ発表してきたものだという証左であろう。日清・日露、第一次大戦、軍部の暴走によって始まった昭和初年の大陸侵略、詩人たちは皆、その中に生きていたのだということを、今更ながら思う。

 わたしはあの戦争の時代を憎む。当時の政治家や軍人の戦争責任を糾弾し、厚顔無恥にも戦後口を拭って生きた彼らを憎む。だが、そこに生き、詩を書き続けた詩人たちを、戦意高揚の詩を書いたからと言って憎むことはできない。詩の中にある歴史を恨み、その時代に生まれた詩を、憐れみと共に弔うのみである。

 歴史とは所詮過去の事実の積み重ねであり、事実を選択し積み重ねてきたのは、我々である。歴史観というものも、事実を評価する価値観によって変わる。歴史も決して真実ではない。歴史は人間によって形作られ、人間によって振り返られ語られるものでしかないのだであればこそ、歴史は、我々にとっての生きた歴史は、詩によってこそ語られるべきであると、わたしは確信している。

 人間は弱い。まして我々日本人の大多数は、自分の生きているコミュニティーから村八分になることを恐れつつ生きている。それでも、現代のわたしたちは、純粋に自己責任において、自己の良心に従って、自由に詩を書くことを許されている。その幸運をしみじみと味わいながら、高村光太郎の孤独に想いを馳せ、同時に、この国の未来に対する漠然とした危惧と、微かな憤りを感じている日々である。

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