レクイエム「流星」から「流れ星」まで 三浦一衛について

 三浦一衛、この人の名前はわたしの頭から離れたことがない。またこれからも離れることはないと思う。以下は10月1日発行の詩誌「心象」に寄せたわたしの三浦一衛に対するレクイエムである。

レクイエム「流星」から「流れ星」まで 三浦一衛について

 わたしたちの集う同人誌「心象」は、三浦一衛という一粒の種が地に落ちて死ななかったら生まれていなかっただろう。もちろん、それは三浦の遺稿集によせた追想の中で、首藤三郎自身が書いているとおり誰にも分らない。三浦が自身の作品を書き溜めた大学ノートを首藤に託して出征し、フィリピンで戦死したということだけがはっきりした事実である。それでもわたしたちは会ったこともない三浦に心惹かれる。きっと「心象」を立ち上げ育てた首藤の、三浦への思いがわたしたちに乗り移っているからに他ならないとわたしは確信している。

 三浦一衛は大正13年6月、東京都巣鴨に生まれる。幼少期は病弱で喘息の持病もあったようだ。家の事情で北海道(小樽)、東京(杉並)を経て、大分県別府市の小学校に編入し、昭和12年に大分県立大分中学校(現上野丘高校)に入学している。その頃には喘息も完治していたのであろうか、中学生(現高校生)でタバコを吸う早熟な一面ものぞかせる。大分中学を4年で修了して早稲田大学第一高等学院に入学のため上京、19年春に中退して大分に帰るまで、東京で詩を通しての多くの友人を得ている。帰郷後応召までの数カ月は詩作に没頭して過ごしたそうだ。

 昭和19年9月3日応召のため大分駅を出発、その時、首藤三郎に作品を書き留めた大学ノートを託した。昭和20年5月フィリピン、マニラ東方の山中で砲弾を顔面に受けて戦死し、首藤が託された大学ノートは、三浦の詩の仲間たちの間を転々した末、再び首藤のもとに帰ってきた。この大学ノートの存在こそが「心象」のプレ・ヒストリーである。

 三浦一衛とはどんな詩人だったのであろう。ここに彼が17歳の時に書いた詩がある。

流星

快適な 原子(アトム)の廻轉よ――

虚しい距離に

カリカリと 饗宴は 散華する

氷結する 血液

氷結する 視界

宇宙は 大きく弧を描き

瞬間――

エスプリの燃焼は 血管を逆流する

(昭和15年8月「日本詩壇」)

 この詩は昭和15年に17歳、中学生(現高校生)の時に書かれている。平成元年に刊行された三浦の遺稿集「流れ星」に寄せられた追想文に「三浦は天才詩人」と評価されていたとあるが、まさに使われている詩語のレベルの高さ、時をも超える普遍性には改めて驚かされる。その遺稿集の表題ともなっている「流れ星」は、複数の友人たちが追想文の中でも取り上げている。

流れ星

あヽ、照らすとてよしもなき自らの光よ。

唯ひとり自らをめぐりくるひたつ。

いやましの原子(アトム)廻転(めぐり)――かのリトム、

めくるめく光をけずり、琴を截ち、

たんらんの蝕はてひなき深渕よ――、

カリカリと散り果てむかな 饗宴は、

しろがねの北斗ゆむなしオリオンへ

通ひ路やせめての血しほぞくれなひに。

見よ、光の血しほは凝(こご)りたり!

見よ、眼の血しほは凝りたり!

穹よりも高く宇宙は矢をつがひ

はっしと――

かくてまたかぐろき屍のことぎれたる

あヽ、誰ならぬ、そは、何時かありなむ――。

(昭和19年3月 東京時代の最後の作品初出「心象」3号)

 昭和18年、戦況悪化を打開する兵力補給のため、高等教育機関に在籍する文科系学制の繰り上げ卒業と徴兵猶予を停止するため「在学徴集延期臨時特例」が発せられた。所謂、学徒動員である。たった足掛け5年の時の流れと言うなかれ。この17歳の時の作品と22歳の時の作品が、同じモティーフでありながら、少なくとも明暗という視点から見てみれば、こんなにも詩の醸し出す雰囲気が違う。同じ宇宙を見上げても、精神が熱く血管を逆流していたものが、血潮を凝らせ、かぐろき屍と化すのである。その足かけ5年の間に、学徒動員令によって繰り上げ卒業があり、徴兵猶予の停止があった。当時の学生たちにとって、いや青年たち一般にとって、それは突如として空から降り注いだ大隕石にも匹敵する衝撃であったろう。今を生きる、平和を生きるわたしたちには、想像の域を超えた絶望感に苛まれていたことだけは、この二つの詩を読み比べることでひしひしと感じられる。 

 実を言うと三浦は決してまじめな学生ではなかった。授業にもあまり熱心には出ていなかったようだし、結局、早稲田も中退している。それでもその頃の多くの学生たちと同じく、三浦もまた戦争に駆り出されれば九死に一生もないことや、敗戦の色が濃い中に、生に対してはもちろん死に対しても何ら意義を見出せないままに、その宿命からは逃れられないことだけは、ひしひしと実感していたのではないか。だからこそ、帰郷してから出征までの間に憑かれたように詩作に没頭し、その詩を書きためた大学ノートを親友に託して行ったのではないか。

 わたしが進学のために上京した1970年という年は、東大安田講堂攻防戦の直後であり、学生運動に陰りが見え始めていた頃である。やがて三菱工業ビルの爆破テロや連合赤軍の凄惨な事件をもって、学生運動そのものが自滅した。その中にあっても、わたしを含めて世の多くの学生は未だ未来を信じ、自分の将来に対して青雲の志を抱いていた。その同じ年代の若者が謂われなく、しかも何の意義も見いだせないままに、突如、自分の未来を閉じることを強いられたのだ。「お国のため」「郷土と家族を守るため」という言葉が、少しでも戦争の舞台裏の真実を知る者にとって、いかに空疎で詭弁だったか。多くの学徒たちは知っていたのだ。せめて、この二つの詩「流星」と「流れ星」を並べて書き留めることが、親子以上に年の離れた、しかも戦争を知らぬ世代を代表してのわたしの、三浦一衛という若者に対する精一杯のレクイエムである。

 ところで青春に恋は付き物である。遺稿集「流れ星」にはその気配が感じられて、わたしはいくらかでも心を休めることが出来た。22歳で戦争に駆り出されて、あっという間に戦死した文学青年にも恋を意識したであろう異性がいたことに安堵する。

 三浦が出征の直前、彼の東京時代の友人(彼はすでに出征している)の妹に手紙を出し、彼女はそれを受け取ると当時の交通事情をものともせずに単身大分に来た。ほんの一足違いで、三浦は出発してしまって、結局会えずじまいであった。そんなドラマのような出来事を、当の三浦は知らなかったであろう。しかし、あの忌まわしい戦争末期にも若者たちの命は輝いていたのだ。女性は戦後、故郷沖縄に戻った。彼女の兄も無事生還し、ふたりは三浦の遺稿集に文章を寄せている。

 今年は特にコロナのせいで、うつうつとした日々だったが、わたしに取って8月は常にどこか哀しい。その哀しみの根源は何であるかを、わたしはことさらに探るつもりはない。ただ、あのあっけらかんと明るい沖縄の空の下の、少しも暗さを感じさせない護国神社の境内に立ってさえ、8月になるとわたしはいつも言いようのない寂しさと哀しみを感じる。わたしたちの詩的活動の拠点である「心象」が、時を超えてあの8月のどこまでも青く澄み切った、それでいて物悲しい涙色たたえた空につながっていることを、わたしはいつも噛みしめている。

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