レクイエム「八月の空・2022」

レクイエム「8月の空・2022」

 新型コロナウイルス感染症パンデミック下の今年もまた8月が来た。今年は東京五輪の開催もあり、毎日コロナの新規感染者の数が大きく取り上げられる中、しめやかな日々とは縁遠い毎日となった。

 沖縄県戦没者慰霊祭の6月23日から8月6日、9日を経て敗戦記念日の15日までを、わたしは毎年、戦争とその犠牲となった多くの若者に思いを馳せ、この日本という国の過去と未来について考えるために、戦争中に青春期を過ごした先人たちの軌跡をたどり、戦争をテーマにした作品を読むことにしている。

 今年は阿川弘之の「雲の墓標」、茨木のり子の詩集「見えない配達夫」三浦一衛の遺稿集「流れ星」、山下昭のノンフィクション「特攻・さくら弾機で逝った男たち」を読んだ。

 「雲の墓標」は「学徒出陣」で海軍に入団した阿川自身とおぼしき文系の学生の日記として書かれている。若い頃読んだ時は、年齢的に同じ世代だったのに、何か透明なガラスの壁を隔てているような隔世感を感じていた。今回は主人公「吉野」の悲しい諦観が、読後も長くわたしの胸に留まっている。あのわたしが二十代前半だった頃、わたしは無意識のうちに永遠に「明日」は来るものと信じていた。抗うことのできない、どうしようもない抑圧で、「明日」を断ち切られた同世代の若者の気持ちなど判ろうはずもなかったのだろう。

 今、齢古希となって「明日」が永遠に来るものではないということを実感しているからこそ、無駄死にと分かっていて、尚、表面上は無理やりに莞爾として、自ら「明日」を捨てて逝った若者たちの気持ちが、何万分の一かは、判るようになったのかも知れない。

 阿川のこの作品はとてもフィクションとは思えないほどディテールが鮮明である。万葉集という古典文学の学問の道を絶たれた文系の男子学生が、青春の真只中から突如として死地へと駆りたたれて行くことへの理不尽さ、飛行能力ありと判断されたばかりに思いもかけぬ操縦士になることを強制される身の、運命の前での非力さに対する焦燥感とやりきれなさが、しかも、軍隊に身を置いているからこそ、ほぼ正確に戦況情報に接し、自分たちの死に対して、その意味に疑問を覚えずにはいられないという状況の中で、もだえ苦しむ若者の魂の叫びのようなものが、時を超えてじわじわと心に沁み込んでくる。

 茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」は中学校の教科書にも載ったそうだし、テレビドラマの「3年B組金八先生」にも登場したそうだから、多くの人に知られているだろう。この詩の3連目の「わたしが一番きれいだったとき/だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった/男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」というくだりは、阿川の「雲の墓標」に登場する水俣の女学生「深井蕗子」の面影と重なる。こんなにからりとした明るい反戦詩もあるのかと思うほど、彼女の屈託のない感覚で書かれてはいる。しかし、だからこそかえって、そこにはこの人のどうしようもないやりきれなさが込められていると感じてしまう。5連目の4行目、彼女が「ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた」のは、敗戦後のまだ余燼燻るころだったのだろうか。二十歳を過ぎたばかりの美しい女性が白いブラウスの袖をまくって勇ましく歩いている姿を思い浮かべて、わたしはここでも、彼女のこの屈託のないからりとした表現に含まれている深い深い悲しみに共感する。というよりむしろ打ちのめされてしまった。

 三浦一衛はわたしたちの「心象」にとって「一粒の麦」である。「心象」は首藤三郎らによって昭和23年に創刊した同人誌である。創刊に当たって、首藤は無二の親友だった三浦一衛から受けた強い影響について書いているが、三浦はその時、もうその場にはいなかった。首藤に詩作品の書かれた大学ノートを託した三浦は、学徒出陣で南方に送られ、昭和20年5月16日マニラ東方の山中で戦死している。詩作品を託された首藤は、戦後の紙を手に入れることすらままならない時期に、三浦を想い、三浦の無念を込めて「心象」を立ち上げた。まさに親友の首藤によって三浦は聖書(ヨハネによる福音書)の「一粒の麦」として、今日までわたしたちの心にある。

 首藤をはじめ、多くの友人たちの手で1989年(平成元年)に刊行された三浦の詩集「流れ星」は、現代に生きるわたしたちに太平洋戦争に散った若き詩人の血潮の匂いを直に感じさせ、無念の叫びを聞く思いにさせてくれる。

 三浦は昭和19年に応召した。大分駅頭に彼の出征を見送った首藤三郎に一冊の大学ノートを手渡した。その大学ノートが無かったら「心象」は生まれなかったであろう。また、遺稿詩集の題名となった「流れ星」はその5年前に中央詩壇に掲載された「流星」と昭和19年3月の遺稿「流れ星」に因むのだが、この二つの詩が首藤たちの心を掴んで長年はなさかったというエピソードこそが「心象」の底に連綿と流れる心象風景の原点でもある。いつかこの二つの詩を読み比べて一文を書きたい。

 昭和15年、初対面の首藤は一つ年下の三浦に「きみ」と呼ばれたそうだ。阿川の「雲の墓標」では昭和19年末海軍に入団した主人公吉野たちが「きみ」「ぼく」という人称を使うことを禁じられる。「きみ」という単純な人称だからこそ、そこに戦争下の青春群像の悲哀を象徴的に感じる。首藤の聞いた「きみ」と吉野が使うことを禁じられた「きみ」を並べると、逝った三浦、逝った吉野の無念と残された首藤、阿川の憾みを痛感せざるを得ない。

 茨木のり子の晩年の写真は美しい。ブラウスの腕をめくって勇ましく歩いていた頃ならばなおの事、人目をそばだたせる美しさであったろう。戦時中とはいえ、その美しさに遠目ながらにも魅かれた若者もいたに違いない。戦争中に青春期を過ごしたそのきれいな眼差しをした若者たちと、牡丹の花が開いたばかりのように美しい娘たちが皆、やさしい贈り物を捧げもせず捧げられもせずに、二度とまみえることのないほどの距離に引き離されて行ったのである。

 三浦の遺稿集「流れ星」に玉那覇直(旧姓山入端)氏の一文が寄せられている。三浦の学出陣前の東京での学生生活で出会った、大学の同級生の妹さんである。若く輝いていた頃の三浦の近辺にうら若い女性が存在していたことに、わたしは自分事のように喜びと寂寥感を感じる。首藤は出征前の三浦に託された三浦の詩の書かれた大学ノートを一度は、この一度も会ったことのない東京の女性に送っている。首藤はそうしようと思っただけのことを三浦から聞いていたのだろう。結局、大学ノートは直さんから戦後の昭和22年になって首藤のもとに返され、それが「心象」のもとになったことを想うと、わたしたちの「心象」が美しくも悲しい青春の息吹を秘めているということが出来そうである。

 「桜爆弾」、この美しいイメージを抱かせる名前のゆえに、かえって戦争末期のこの国の狂気が鬼気として迫ってくる。「雲の墓標」のも登場するが、大分県宇佐市にあった海軍の基地からは、「桜花」という特攻兵器が出撃していったのだが、米軍ではそれを「BAKA」と呼んでいたそうだ。その「BAKA」さ加減においては、この桜爆弾も引けを取らない。

桜爆弾は戦争末期に登場した陸軍の特攻兵器である。直径1.6メートル、重量2900キログラム、炸薬量1600キログラムあり、その破壊力は前方3千メートル、後方3百メートルに及ぶとされていた。この大きな爆弾を積むためだけに、自衛のための銃器類や帰路の分の燃料タンク、さらには副操縦士席や各種計器なども取り外すなどして軽量化し、機体上部を膨らませた陸軍の重爆撃機「飛龍」は正しく特攻兵器でしかなかった。制空権のない空に、ただでさえ鈍重な爆撃機が胴体を膨らませてまで重たい爆弾を背負って、護衛してくれる友軍機もなく飛んでいればどうなるかは熟練のパイロットなら想像できたであろう。それは海軍の桜花も同じことで、一式陸攻という爆撃機がロケットを腹にぶら下げて、グラマンの待ち構える戦場に突入すれば、どうなるか明白である。

 その想像というより確信の上で、それでもわが命を無駄に散華させると知りつつ飛び立つしかなかった若者たちの心を、敵軍ならばこそ「BAKA」と呼んでいれば済むが、そう呼ばれながら撃ち落されていったのは、間違いなくわたしたちのかけがえのない同胞であり、先人たちであったのだ。

「 雲の墓標」の主人公「吉野」は戦死したが、阿川自身は生還し、戦後家庭を築くことができた。彼は学徒出陣の前の繰にり上げ卒業のために書いた論文「志賀直哉」の縁で、志賀直哉に師事し小説家となり、94歳の天寿を全うした。茨木のり子は余燼燻る廃墟の街を闊歩したのち、幸せな結婚をしたが、「ルオー爺さん」のように長生きすると自ら宣言したほどは長寿を全うできなかった。それでも彼女の屈託のない透明な悲しみは晩年まで持続し続け、彼女の詩を特徴づけている。玉那覇直さんも姓が変わっている。幸せな結婚をされていることだろう。

 わたしはサンフランシスコ講和条約が締結され、日本が連合軍の占領下から解放された年に生まれた。戦争を直には知らないわたしたちが安易に戦争を語ることは慎まなければならない。わたしは永い間、そう自分を戒めてきた。しかし、今はその考えを変えた。戦争を直に体験した生き証人たちが、次々に亡くなっている。その次の世代であるわたしたちが、わたしたちに見えるものがあるうちに、感じることが出来るものがあるうちに、それを直視し自分の感性で感じなくてはなるまい。そして直視した以上、その感じたことを感じた者の義務として、感じた通りに語るべきである。そう思うようになった。

 わたしが何を感じ、何を思っているか。この国が経験した狂気の暴風の中に何を見出したのか。犠牲となった多くの人々のそれぞれの青春に、どんな思いを馳せているか。それはわたしの拙い文章では正確には伝えることはできないかも知れない。経験していないのだから正確なルポルタージュにもなるはずもない。

 それでもこの夏のひと時、この国の悲しい過去と先人たちへのわたしからのレクイエムとして、何かを書き残そうとして本を読みながら静かに過ごし、この拙文をしたためることにした。

                                     8月26日

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