一地方議員の米国大使への反論

長崎市長の決断に強く賛同し敬意を表します。純粋に犠牲者の慰霊の日を平穏に、しめやかに過ごしたいという気持ちから出た決断だと理解します。これを機会に、今後は特に核保有国の全てには声明文を送るだけにして、慰霊祭への出席については、各国の判断に委ねるようにして、出席した国と代表者の肩書だけを新聞などで公表するようにしてはどうかと広島と長崎の市長に提案します。我々が全ての核保有の代表がそろって献花する姿を見たいのは、犠牲者への慰霊と同時に、広島・長崎の被った人類未曽有の惨劇を、核保有国が少しで思い浮かべて、人の道に外れる手段を戦争遂行の手段にしないという決意を求めてのことであり、国際的な政治パフォーマンスのショーを見たいからではないのですから。

 繰り返しになりますが、両市で開催される慰霊祭は純粋に犠牲者の慰霊のためであって、政治的な外交パフォーマンスの場であってはならないのです。もちろん、核兵器の非人間性を世界に訴えることは、被爆者共通の願いであり、それは政治的なアッピールであることは間違いありません。しかし、だからと言って広島、長崎の惨劇の加害者であると同時に現在でも世界最大の核保有国である米国の大使が、長崎市長が「式の安全で平穏な開催のために」と言っているにもかかわらず、声高にそれを政治的な判断だと抗議声明を出して欠席するというのは、自分たち自身がこれまで政治的パフォーマンスを目的として出席してきたことを自ら露呈したにすぎません。イスラエルに招待状が出なかったことが気に入らないから出席しないというのは鎮魂されるべき犠牲者への冒涜です。米国が未だに長崎の市民への贖罪の念を持っていないことの表れでもあるとわたしは考えます。

 一地方自治体の長とはいえ確かに長崎市長も政治家です。その鈴木市長の決断である以上、確かにそれは政治的判断という側面を持っています。しかし、彼は長崎に落とされた原子爆弾によって無差別に殺された無辜の市民の遺族を代表していると同時に、犠牲者のご冥福を祈り、遺族を慰めようとする全ての長崎市民を代表しているのです。その彼が現今の国際情勢に影響されることなく、真に平和を祈念しつつ、しめやかに鎮魂の式典を開催するために決断しているのです。米国ならずともそれを最大限尊重するのが人の道ではないでしょうか。ガザの惨状を黙認して、軍事援助を続けている国の大使に人の道を期待すること自体、無駄なのかもしれませんが。

 鈴木市長がイスラエル大使に招待状を出さないという決断をしたことをあげつらって、イスラエルを呼ばないのなら自分たちも出席しないというのは、米国が長崎で行ったジェノサイドの犠牲者に対して新たに行った冒涜なのです。米国政府は日本国には礼を尽くしていると表明しましたが、長崎市民と長崎で自分たちが殺した日本人に対しては礼を尽くしていないのです。同じ日、長崎の式典への欠席の代わりに、米国大使館とは目と鼻の先にある芝増上寺で開かれていた長崎原爆慰霊祭にイスラエル大使、英国大使を同伴して参拝し、参列させてくれた増上寺に感謝すると表明しましたが、これこそ日本国民を愚弄するアリバイ作りでしかないと、わたしはさらに怒りを感じています。米国大使の抜け駆けに対する、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ大使とEU大使の動向はまだ確認できませんが、自分たちが浴びせた慰霊の場への冷や水について、ドイツ、イタリアの動きを注視したいものです。むしろ、わたしはイスラエルが100基近い核兵器を保有しながら、NTPにも参画していないことを思い出してしまいました。米国に限らず、西欧諸国の考えはロシアや中国、北朝鮮、イランなどが保有する核兵器は忌むべきだが、イスラエルの核兵器は問題ではないとしているのです。そのダブルスタンダードを今回の米国大使の行為に改めて想起せざるを得ませんでした。

 それにしても日本政府も外務省も、この件についてコメントすら発しなかったことにも大いに不満を表明するところです。一地方自治体の話だからということで無視しているのですが、一地方自治体の決断であっても、それに抗議しているのは一国の大使であり、大使の発言は国と国の関係についての、当事国同士の考えを具現するものです。ガザの惨状、米国の大統領選挙の混乱ぶりなどの状況下で、外交問題にしたくないという配慮と火に油を注ぐことを恐れてのことということは分からないでもありませんが、黙秘するというのは外交姿勢として疑問が残るところです。日本外交がこれまで常にとってきた「長いものには巻かれろ」式の姿勢がここでもまた露呈したのではないでしょうか。今回、日本の政府が何もコメントしなかったことは本当に情けないと思っています。

 沖縄で今も起こる米軍人による沖縄県民に対する理不尽な行為と、それに対する日米両国政府の姿勢も同根でだとわたしは考えています。沖縄で起こった米軍人の暴行事件を日本政府が隠ぺいしようとしたことも、県議会選挙への影響を恐れてと言われても仕方がないことなのです。

米国大使はじめ日本を除くG7参加国の国々の大使は共同声明で、ロシアやベラルーシとイスラエルを同列に扱うなと言いましたが、それは米国をはじめとする核保有国大国が、イスラエルの掲げる人質の解放という目的のためにはジェノサイドも厭わないという姿勢を肯定し支持しているということに繋がります。そこに生活する無辜の市民の存在と地獄の苦しみをしりながら、一つの都市を完全に破壊するという核兵器を使ったことのある米国にとって、それが本音であり、核保有国に共通する本音でもあると考えられます。そしてその本音が、核軍拡競争をますます煽り続け、互いに相手が悪いから核兵器を拡充せざるを得ないという悪魔の論理として、我々が目の当たりにしていることの背景なのです。

長崎市長が投じた一石が、長崎という小さな池に起こした小さな波紋を新たな契機にして、わたしたちはこの混乱している国際情勢を、まずは少なくともオバマ氏が大統領時代に行った核兵器削減宣言の時点まで引き戻さなくてはならないと考えています。

2024.8.11

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