滋賀県東近江市「石堂寺」にて

 20年以上も前から行きたかった石堂寺にようやく行くことができた。公共交通機関で訪れるには、この寺は実に遠い。京都からJRで近江八幡まで行き、そこから近江鉄道を乗り継いで八日市まで行き、さらにそこから一度乗り換えて桜川まで行く。わたしは乗り継ぎ時間の都合で、今回は湖東バスという路線バスに30分以上も揺られて桜川駅まで行った。桜川という名前はしゃれているが、桜の時期の終わった頃だったし、しかも雨模様の天気のせいか、ただの田園地帯のど真ん中の無人駅にたどり着いた。しかし、南近江特有の何となく明るい光の中で、それはそれで風情のある駅だった。石堂寺はさらにそこから広々とした麦畑のど真ん中の農道を歩いて、2.5キロほどのところにあった。

 司馬遼太郎の「歴史を紀行する」に登場する「石塔寺」を読んで、どうしてもこの目で確かめたかった。司馬遼太郎は1968年にここを訪れているのだが、それから実に56年後、ようやくわたしのその願いが叶ったのだ。小高い丘のふもとにある「阿育王山石堂寺」はなんの変哲もない佇まいの天台宗の一末寺にしか見えないのだが、拝観料500円を払うと目の前には158段の急な石段が聳え立っている。今は、参詣客のために手すりが設置されていて、それにすがって登ることができるが、司馬遼太郎が個々を訪れた時には、まだ手すりもなく竹の杖にすがって休み休み上ったそうだ。

 その石段を登り切ったとたん目を見張ることになる。そこに漂う空気は到底日本国のものではない。まるで百済や新羅の時代にワープして、わたしは折からの松籟の音を聞きながら、朝鮮半島の只中に立っているという錯覚に眩暈がするほどである。無数の小さな石塔や石仏、石板に彫られた仏のレリーフに囲まれて立っている日本国内最大の石塔は まさに韓国の父老が伝統の高く尖った帽子を被り、白い麻の儀礼服を風に靡かせてすっくと立っている風情なのだ。

 石造りの三重塔は少し小さなものなら京都の清水寺でも見ることができる。しかし、ここの石塔は丘の上に屹立している上に、国内最大の高さ7.5メートルもある。周りはその数合わせて8万4千基と言われる、小さな五輪塔、石仏や石板に彫られた道祖神のようなレリーフである。石造りの五輪塔は朝鮮半島には存在しないそうだし、日本で普及し始めたのは平安時代末期からだそうだ。そう考えると三重の石塔が醸し出している雰囲気に相違して、日本独自のものというところが些か気になる。しかし、それも例えば京都の松尾神社が渡来人を祖としているにもかかわらず神道で祀られていることを合わせて考えれば納得がいきそうである。むしろ、渡来人たちが故郷の風景を偲んで、この地に自分たちの国のそれに似せて、石塔を建立することを思い立ち、それが千年の時を経て、この地に土着する過程で、はじめは帰化人の聖地だったものが、土地の守り本尊としてあがめられるようになり、塔の威容を慕って多くの民草が競ってこの塔の周りに葬られることを望んだり、それが叶わぬならせめて五輪塔や石仏を奉納したりしたのではないかと想像できる。そう思いなおして改めて無数の石仏群の只中に立つ石塔を眺めると、さらにこの石塔が流浪の民の哀惜の象徴であるとの思いが深くなった。

 石堂寺の縁起によれば、ここに安置されているこの石塔にまつわる伝説はインドの阿育王にまで遡る。「阿育王(アショーカ王又はアショカ王)が仏舎利を納めた塔八万四千基を作り世界中に撒いた。その内の二基が日本に来ていて、その一基がこの石塔」だというのだ。阿育王は古代インドにあって仏教を守護したというが、彼が実在したとしても紀元前3世紀の人である。その時代、日本はまだ古墳時代にもなっていない。紀元1世紀になってようやく魏志倭人伝に奴国が登場しようというくらいで、統一王朝などまだまだ先の話であった頃である。

 時代は大きく下るが、聖徳太子が近江の国に48箇寺の伽藍を整備した内の本願成就寺がこの地であるとする方がまだしも腑に落ちる。しかし、ぞれにしても、ではなぜ聖徳太子は当時の明日香や斑鳩から遠く離れたこの地にたくさんの仏教寺院を立てようとしたのかという疑問が生じる。そこにこの丘の上の石塔の佇まいと、この一帯が半島からの帰化人の一大聚落であったということの符号が、思い浮かんでくるのである。

 日本書記には7世紀「白村江の戦に敗れた百済から、百済の高官鬼室集斯という人が一族とともに日本へ亡命し、天智天皇により小錦下の位に叙せられた」とある。その日本書記には「百済の男女400余人が近江国神前郡に住まわされ田が与えられた」という記述も見られる。さらに「その後、鬼室集斯に率いられた百済からの渡来人が男女700余人が近江国蒲生郡に土地を与えられている」とある。神前郡も蒲郡郡も大部分が現在の近江八幡市や東近江市、八日市市だし、特に八日市という地名はそこが帰化人によって立てられた「市」であることから来ているそうだ。

 「近江商人」という喩えがある。司馬遼太郎はその市を開いた帰化人たちに近江商人気質の源流を想定しているが、わたしはそれには些かい疑問を感じている。一般に商売人と呼ばわる時、洋の東西を問わず、そこには毀誉褒貶のうちでも毀と貶の分量が多い。しかし近江商人という場合、そこには誉と褒しかない。司馬遼太郎はその近江商人気質が帰化人に由来すると言うのである。確かに三井財閥の祖も、高島屋の祖飯田新七の才覚にほれ込んで婿養子に迎えたという儀兵衛も近江の出身である。

 商売とは謂わば知らぬもの同士をウイン・ウインの関係に結びつける行為であり、だからこそ最も大切なのは信用であるという。わたしは半島からの渡来人たちは、その信を重んじる商人気質より、創作意欲や根気強いことが求められる職人気質の方を多く持ち込んだであろうし、時の権力者たちもそれを多く望んだと思っている。同じ近江の西南部には戦国期から織豊期にかけて石積み技術で活躍した「穴太衆」がいた。彼らは古墳時代には既に近江を中心に石積み技術を中心とした土木技術を発揮していたとされている。石堂寺に隣接する竜王町には渡来人による「須恵器」の生産地があったとされており、それが今日の信楽焼への系譜に繋がっている。同じく日本書紀に登場する酒造りの始祖秦酒公(はたのさけのきみ)は山背一帯に住んでいた渡来人秦一族だし、秦氏と言えば養蚕技術、その糸を使った絹織物、さらには砂鉄や銅等の鉱物採鉱・精錬、冶金技術、薬草についての知識なども伝えている。八日市に市を開き、平安時代には比叡山と結んで商業を発達させたとしても、それは彼ら渡来人が持っていた豊かな技術によって得た生産品、加工品が元となっているからこそであって、単に異なる地域の商品を別の地域の消費者に繋いで利を得るということではなかったと思うのである。

 一方、近江、特に南近江はのちに織田信長が本拠地にしたことからもうかがい知れる。交通の要衝であり、また琵琶湖が水運の大動脈であったことから、帰化人ならずとも商業が発展する素地は十分にあっただろう。むしろ、近江からは近江源氏の流れである佐々木(六角)氏、蒲生氏など、「傾奇者」と呼ばれるほど文化芸術に秀でた武家集団の方に、渡来人の血脈を感じるのはわたしだけだろうか。武士と言えば石田三成も近江出身だったことも思い出させる。彼は戦のバックアップとして重要な兵站に能力を発揮し、さらには今日の簿記と同じものを独自に考案していた。近江商人気質の源流というのなら、この時代の石田三成あたりがそれにあたるのではないかと思うのだが。

 飛鳥時代から平安遷都前後くらいまで、半島から多くの帰化人が渡来して時の天皇から南近江、東近江の地を与えられたとある。その帰化人の子孫がそのまま千数百年、この地に住み続け境目もないほど同化してきた中で、初来の帰化人たちの持ち込んだ生活習慣や集団規範が日本風土と化学変化を起こして、現在の我々日本人の気質の源流となっていたのではないだろうか。そう考えながら改めてこの南近江の田園風景を眺めていると、遠く朝鮮半島南部の優美な丘陵の点在する明るく伸びやかな農村風景と重ね合わせて、つい、悠久の時の流れに呆然と立ち尽くしてしまった。

 ところで司馬遼太郎の記述を読んでいるうちに頭から離れなくなった疑問がある。その一つは半島からの帰化人の気質がどうして滋賀県人、旧国名で言えば近江国の人々の気性の中に、今に至るまで多く残っているのかということであり、石堂寺参詣の目的でもあったのだが、もう一つは「では日本人の半島人に対する畏敬・尊敬の念が、いつから差別・軽蔑の念に180度変わったのか」ということである。しかし、そのことは今回の旅のテーマではない。 いつか改めて、日本の近代史を彷徨いながら思いを馳せてみたいと思っている。

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