表現の自由と不自由(Ⅰ)

表現の自由と不自由

 コロナ騒ぎで忘れていたが、愛知県知事と名古屋市長の間で訴訟にまで至っている争いがある。昨年愛知県で開かれた「表現の不自由展・その後」をめぐる争いでが、その顛末は色々と考えさせられる。同展は「情の時代」をテーマに昨年まで開催された「あいちトリエンナーレ2019」の100以上ある企画展の一つだった。開催三日で中止に追い込まれ、その後、メディアやネットの批判を浴びたことで、トリエンナーレ閉幕間際に再開されている。

 2012年に中止に追い込まれた「従軍慰安婦」をテーマにした安世鴻の写真展があった。その後それが形を変えて開催されてきた「表現の不自由展」の続篇として、件の企画展は計画されたそうだ。

 この企画展のテーマは「慰安婦問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設でタブーとされがちなテーマの作品が、当時いかにして排除されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示する」というものであった。

 美術批評家の黒瀬陽平はこの企画展の開催前に「公立美術館では、ほとんど前例がない美術展だが、全てを表現の自由でくくるのは危険な面もある。規制された作品を集めただけでは、スキャンダリズムと変わらない。公金を投じた事業である以上、市民の疑問やクレームに答える義務が発生する。作者や主催者が美術としての論理や価値をしっかり示すことができるのであれば、成功したと言えるだろう」と危惧していたが、まさにそれが的中したことになる。

 では、わたしたちは「表現の不自由」そのものに対して、どんな感受性を持っているのだろうか。少なくとも自分の書く詩の作品がある日突然、社会からの非難の的になったり、さらには権力によって弾圧を受けたりすることを想像することはあるだろうか。

 「だから自分は政治には関わらない」「だから自分は社会的な作品は好きではない」と思っている詩人も多いことは容易に想像がつく。しかし、確信犯的に反権力、反政府の立場からの作品を発表する者の方がむしろ、それなりの理論武装やネットワークによるシンパシーの確保など、自己を守る手立てはしているだろう。

 「自分は政治にも反権力勢力にも何の関りも持っていない。発表する詩も社会的な普遍性があるものではない。だから、自分は権力からも一部のネットクレーマーたちからも目を付けられることはない」と、わたしを含めて多くの詩人はそう思っている。だが、本当にそれで安心していていいのだろうか。

 シンギュラリティという言葉が語られるようになった。人工知能が人知を超えることを言う言葉であり、そのターニングポイントが2045年だとする学者もいる。正しく手塚治虫の「火の鳥」に登場するスーパーコンピュウターに支配されている時代、そのコンピュウターが変調をきたして、世界を破滅に導くということが現実になりつつあるのかもしれない。

 そんな時詩人の「素朴な感受性に基づく直観力」こそが武器になりうる。しかし、権力者の方がいち早く、その「素朴な感受性に基づく」こそ自分たちを脅かすものだと判断するかもしれない。「裸の王様」は素直に自分が裸だったことを認めたけれど、現実の権力者たちは、声を挙げた子どもの存在を抹殺しかねないということを、詩を書く者もまた、肝に銘じておくべきと、わたしは考えている。

                                   心象223号

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