表現の自由と不自由(Ⅱ)

表現の自由と不自由(Ⅱ)

 香港で若者たちが自由を求めて戦っている。中でも日本語を流ちょうに話すため、我々にも親しみ深い周庭さんは1996年生まれの24歳だ。小学6年生の頃から日本のポップカルチャーとアニメを愛好し、日本語を独学で習得したそうだ。香港名はアグネスで、同名の香港出身の歌手がいるが、彼女と同じ名前で呼ばれることを潔しとしていないとも言われている。本人はオタクだそうだ。日本の若者たちと同じ「サブカル」が大好きな普通の青年であり、彼女のSNSでの日本語による発信も、別に政治やイデオロギーに染まっているとは思えない、正に典型的な女子大生である。

 その周庭さんが今、彼女の表現してきたことを、これからも表現できる自由を保障するよう求めたことによって、中国政府の弾圧に怯え、生命の危険さえ感じている。それでも彼女は若い仲間たちと共に、香港の自由を求める声を上げ続けているのだが。

1949年の中華人民共和国の建国以降、同国の国内では経済政策の失敗や内乱、迫害が相次ぎ、1950年代の大躍進政策の失敗による餓死者数千万人、1960年代から1970年代にかけての文化大革命でも、武力衝突や迫害などでの数千万人の死者が出たと言われている。その惨禍から逃れるため1955年から1980年代にかけて約100万人の中国人が、当時イギリス領だった香港に逃げ込み、その人々を香港では「逃港者」と呼んでいた。現在、香港で民主化運動をやっている若者たちは、その逃港者の子孫ということになる。その歴史を思う時、香港の民主化運動は、数千万人、もしかすると一億人にも達していたかもしれない累々たる犠牲者への、レクイエムではないかと感じるのはわたしひとりだけだろうか。

 先年亡くなったノーベル文学賞作家・詩人の劉暁波氏もまた、反体制派の政治運動家ではなかった。彼の詩集「牢屋の鼠」を読んでも、ノーベル賞受賞の際に寄せられ、代読された「私には敵はいない」というメッセージにしても、反政府、反体制運動家という印象は湧いてこない。それでも劉氏は彼が表現し続けた「文学作品」が原因となって、獄につながれ死期を早めることになった。

 逆の希望的変化として、テニスの大阪なおみが、警官によって命を奪われた黒人の犠牲者の名前をマスクに書いて試合を勝ち抜き優勝したことがある。少なくともスポーツ界では何かが変わろうとしている。昔々、メキシコオリンピックの時優勝した黒人選手が片手を握って高く挙げるポーズをとったことで、メダルも、その後の出場権も剥奪されている。その時代からすると、少なくともスポーツ界でのプロテストに対する姿勢は変わりつつあるのだろう。

 表現することに少なくとも政治的な弾圧を受けることを心配しなくて済む国に住まう我々は、表現することのリスクに対する感受性は乏しい。しかし、実はネット社会の到来とともに、政治的ではない社会的な危険性が生じ、増大し始めている。

 危険という言葉を英語に訳すとdangerとriskである。デインジャーは単に「安心できない状態」を表す言葉でしかないが、リスクという言葉は、日常生活に対して何らかの影響を与える可能性がある不確実な要素という意味があり、高い低いなどと、その要素を定量的に表現することが出来る。ビジネスの世界でいう「リスク・マネージメント」では、リスクは必ず「マイナス」影響を与える不確実な要素ということになっており、不確実と言いながら確実にマイナスとなる度合いとしているようだ。

 では「不条理」という言葉はどうだろうか。辞書によると「道理に反すること。筋道が通らないこと」であり、「人生に意義を見出す望みがない状態、絶望的な状況・限界状況」を指す言葉でもある。「物事の道理に従って、人間が行うべき正しい状況」ではないということであり、不条理が支配する世界では、リスクでさえ定量的に評価することなどできなくなる。100年間と限って統治していた英国から中国に返還されたとたん、それまでの100年間、東洋の真珠とまで言われた香港が、あっという間に不条理の支配する地となってしまい、そこでは自由に声を上げることさえ命を奪われかねないリスクを覚悟しなくてはならなくなっている。

 新型コロナウイルス・パンデミックが、世界を震撼させているが、人類はこれまでも何度もパンデミックを経験してきたし、そのたびに「不条理」の状況を経験し乗り越えてきた。十字軍遠征時代のペスト、大航海時代の新大陸で起こった天然痘の流行、第一次世界大戦中の新型インフルエンザ(スペイン風邪)があり、今世紀に入ってからは、中国の経済成長と中国を核としたグローバリズムによって引き起こされたSAARZとCOPID19という新型コロナパンデミックが、世界をパンデミックという不条理に陥れてしまった。そして、その中で香港の「逃港者」の子孫である若者たちが、不条理な状況の中で何か物言い、表現することさえ生命そのもののリスクを覚悟しなければならなくなっているのだ。

 ネットによる無責任な情報炎上によって、いわれのない中傷にあった若い女子プロレスラーの死を思うと、また、SNS上で安易に「リツイート」や「いいね」を押してしまった行為に、損害賠償請求の訴訟を掛けられる事案が多発していることを思うと、日本でも別の意味で表現することのリスクが高まっているのではないかと心配になるが、それでも少なくとも政治的に抹殺されるという実感はまだない。

 ところが最近、小中高校の教科書から石川啄木が抹殺されようとしている事実を知った。反戦詩を書く人々にいわれのない中傷情報を浴びせる輩も現れているという。香港の周庭さんのおかれている不条理を対岸の火事と放置しておくと、我々が詩として表現することさえも、いつの間にかリスクまみれにならないとも限らないと、わたしは危惧している。

                                  心象224号

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