エッセー集「佐藤徠さんのこと」

佐藤徠さんのこと()

  大分という土地は詩的には荒蕪の地と言われている。それでもその荒蕪の地にかつて、しっかりと根を下ろしていた大樹があった。佐藤徠というのがその大樹の名前である。わたしはつい最近までそのことを知らなかった。徠さんのご子息佐藤省象さんが刊行された徠さんの短歌集、詩集、散文集についても、その存在を知ってからまだ数年しかたっていない。省象さんたちの詩文集「む」27号・28号(最新号)に徠さんについてのエッセーが連載されているが、詩を書く者のひとりとして、わたしはわたしなりに郷土の大先輩の存在について書き残しておきたい。

 大分県にゆかりの詩歌人として最も有名な柳原白蓮は明治18年(1885年)に東京で生まれている。大分県出身の詩人としては丸山薫が明治32年(1899年)に大分市の荷揚町で生まれているが、生まれたというだけで、中央政府の官僚だった父親の転勤で翌年、長崎に移り、その後一度も大分では暮らしていない。

 滝口武士さんは明治37年(1904年)に国東で生まれ、大分師範で学んでいる。満州で教鞭をとっている時に詩作品を多く発表しているが、大分の地で疾風怒涛の青春期を過ごしている。戦後は郷里に戻り、教鞭をとりながら詩を書き、多くの後進を育てていることは周知のとおりである。

 わたしたちの心象の創立者である首藤三郎さんは大正12年(1923年)に生まれである。ちなみに昭和初年から戦後にかけて大分市の芸術の砦となったキムラヤの画廊が翌大正13年、おなじく喫茶部が14年に開店している。

 佐藤徠さんは明治42年に日出町は大神に生まれる。その年、津軽に津島修治(のちの太宰治)が生まれている。詩人では「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」で有名なまどみちおが同い年である。滝口武士さんは明治37年生まれであるが、この5つの年の差のふたりに親交があったことはないようだ。

 徠さんは戦争で2度出征した時を除いて終生、日出の地に生きた。有島武郎の「生まれ出ずる悩み」に出てくる、画家としての才能に恵まれながら漁夫として生きることを選んだ「君」にはニシンの脂の匂いが染みているが、大分の片田舎の地にあって、文学に目覚めながら農夫として生きた「佐藤徠」という大樹は土の匂いを纏っている。 徠さん自身はその土の匂いを拭い捨てたかったのかも知れないのだが。

 まずは佐藤徠さんの作品である。彼の没後、息子さんたちの発意で昭和60年(1985年)に遺稿集が3冊出ている。歌集「埋れ火」エッセー集「桐の木のある畑」、そして詩集「酒瓶を抱えて眠ろう」である。その中の「皈郷の詩」がわたしは好きである。この作品には書かれた時期は書かれていないが、徠さんは昭和5年1月に応召し、翌年末に除隊し帰郷している。兵役以外に故郷を離れたことのない徠さんだから、帰郷の感慨を詩にするとしたら、この時の心象風景であったろうと勝手に想像している。

「皈郷の詩」

1.H・町風物

古い町に宵の光りが流れ

弛い勾配の坂路を下りてゆけば

ひっそりと店先に古道具が眠り

赤いメリンスの端布が吊り下がってゐる

人はぼそぼそと語り乍ら

陰うつな闇を逃れてゆく

濁った川の向ふに灯がともり

菜の花の匂いが麻薬のように流れてくる

古ぼけた田舎の町に

遠く夜霧がかかったとても

もう幌馬車は皈っては来ない

あゝ お濠の石がけふも一つ落ちた

どこかに鳳仙花の実がはぢけるやうな

かすかな情緒が漂ふて

遠く遠く追憶の夢に

うら悲しくも眠ってゐる町

(1とナンバーを振ってあるが1しか掲載されていない)

 農業の現場の悲哀はとにかく「照って心配、降って心配、吹いて心配、何もなければ、こんなはずはない今に何か起こると心配」することである。徠さんの悲しみはさらに深かった。人には二つのタイプがある。例えば生まれ育った家から山が見えるとすると、その山の四季の移ろいを見る事に満足するタイプと、その山の向こうには何があるのかと想像を膨らますタイプである。佐藤徠さんは後者であった。後者でありながら山を越えて、その向こうの広い地平線を見ることは許されなかった。彼の悲しみは芸術的には荒蕪の地に縛り付けられたところにある。

 徠さんは小学校の時、一二を争うほど成績が良かった。が、卒業後、中学へは進まず高等小学校2年を経て、14歳で家業の農業に就いた。佐藤徠さんは当時の農村部においては最も常識的な親によって、農家の惣領として都会的な匂いのするものは勿論、中・高等教育を受けることさえ許してもらえなかった。江戸期を通じて出来上がった農村部の生活信条からすれば、都会的なものは全て平穏な日常を突き崩す害敵であるとして排除される。その都会的なものの中には当然ながら高等教育も入っていたのだ。

  当時の専業農家の長男に生まれれば、学校の成績がどうであれ、また家に経済力があるかどうかに関わらず、進学させてもらえないことが多かった。親が公務員や会社員など、あるいは教員や商人であれば、成績さえ良ければ進学したであろうが、専業農家の子弟に学問はいらないというのが、当時の親の愛情であった。

  そう、愛情なのである。明治維新とともに、日本の社会環境はそれまでのゆるやかなものから、ヒステリックとさえ言えるような情報と競争心の氾濫に襲われた。しかし、それは少なくとも昭和初年頃までは都会の話、都会の給料取りの生活環境の話でしかなく、日本の大部分を占めていた田舎の、それも農家にはその氾濫はまだまだ押し寄せてきてはいなかった。当時の、そこそこに豊かな農家の主にとって、生物的な、あるいは本能的な危険回避感覚から、そのような氾濫に自分を投ずる勇気は持ち合わせていなかったし、まして自分の子ら、特に跡取りである長男には自分さえ恐れる文明なるものには近づけたくないと思っていた。そのことの是非について、現代に生きる我々に論じることはできない。今日のヒステリックな受験競争や過重労働を強いられた挙句のうつ病や自死というニュースに触れれば、あながち徠さんのご両親の判断を誹ることはできない。

 作られた時期の分かる作品として、次に昭和7年(1932年)の「満州に行く兵士を送る」を読んで欲しい。ご自身も経験のある戦場に向かう同郷の後輩を送る詩である。

満州に行く兵士を送る

しんしんと音もなく霜のふる

あかつきは深くして山の端に月はかへった

大空に星は凍てつき

木立の影は黒く大きく物を云はない

広場の隅にもえ揚がる焚火の焔は

とり囲む人の面を瞬間闇に明滅させ

火の粉は高く夜空へとびちる

満州の守備につくわれわれは最大の努力を払ふ覚悟です

もえ揚がった焚火のあかりにS の顔が紅くうつろう

荒涼たる平原

冬枯れの黍畑

匪賊の跋扈

そこへ防寒衣に身を固め

祖国のために 同胞のために

銃剣をとって警備に当たる自分の姿を想像する時

われらの責まことに重大といはなければなりません

Sの言葉に嘘はない

感激の高潮に人はいつはりを吐くものではない

焚火は落ちた 明星はやがて明けゆく空にしばたき

猥摯の壺からどろどろと

疲れた憂鬱の縄をはへてゆくから

埃のたまった机の上を撫でまわすのもやめて

僕は椿の落ちるのを数へよう

彼の悲しみはもう一つあった。彼の疾風怒涛の青春期に、この文字芸術の荒蕪の地大分県で、唯一芸術の光を点していた「キムラヤ」からさえ遠く離れた場所に住んでいたことである。「キムラヤ」は当時の大分にとってムーラン・ルージュであり梁山泊でもあった。昭和初年から営業を始め、戦争で焼け野原になっていた大分市中心地に戦後早いうちから店を開けていた「キムラヤ」は、造形芸術家、音楽芸術家だけでなく、詩人を含めた多くの文字芸術家のたまり場でもあったそうだ。 そこで日常的に繰り広げられた悲喜こもごもの出会いは、大分市内に暮らすか、当時の交通機関に乗って1時間かせいぜい2時間で往復できる青年たちの特権であったろう。「キムラヤ」は戦前から戦後の復興期にかけて、大分の文化人のサロンであった。高度成長期に入ってからは、ネオ・ダダの芸術家集団や多くの画家たち詩歌人たちがここから、或いは郷土の先駆者として後進のために道を拓き、或いは広く世界に羽ばたいていった。昭和26年生まれのわたしには想像することしかできないが、確かにそこは漆黒の宵闇に燦然と浮かんでいたムーランルージュであったろう。長谷目源太さんも戦後の「キムラヤ」の雰囲気を良く知っていて、折に触れ話してくれる。

 徠さんは忙しい農作業の合間を見計らい、両親の厳しい眼差しを掻いくぐって、自宅から日出駅まで6キロの道を歩き、そこから列車で約1時間かけて大分に出て「キムラヤ」の空気を吸いに出かけていたという。家に帰りつくのは夜も遅く真っ暗な夜道を辿ってのことだったし、次の日はまた暗いうちから起きて野良仕事に励まなくてはならなかったはずである。

 徠さんのキムラヤ通いは戦前に始まっている。短歌の作品を携えていったそうだが、彼にとって「キムラヤ」のひと時がどんなにきらびやかなものだったか、現代の我々には想像すらできない。

 もう一つ、晩年となる昭和53年(1978年)の詩「母死に給ふ」も読んでほしい。

母死に給ふ

如月の光の中に

髪しろがねの青さにも似て

母死にたまふ

夏たけてすすき揺るる日に

おみなえし沢に供えて

静かなる夜に魂まつりする

燈籠の灯り流れて

いみじくも命を思う

霜月の空すみわたり

ひたすらに物思う日々

吾子人となり

うるわしき乙女と結ばる

いと永き道程を思えば

足跡をかへり見すれば

いづこゆか

熱きもの湧き

一と条の泪流るる

雨降らば家にこもりて

書を読まむ 詩を思はむ

かく在りて何を求めむ

かく在りて何を究めむ

真とは形なき空しきものか

今宵また

ひとりめざめて

かそけくも足音をきく

絶え間なく流るる時の

最後にエッセー集のあとがきにある詩である。病床の大学ノートにあった「交病録」の46番目の話なのであるが、佐藤徠さんはこれを書いて約1月後に逝去されている。未完成の絶筆として、ご家族は敢えて遺稿集から外した上で、あとがきに書き添えている。

日本ーー

地面をきれいにはらって

よこに一本大きな線を引く

その線の上にお餅をのせた様な平べったいまるをかいて、

こんどはその上に、僕が大きな旗をもって立ち

右手を高く上げてばんざーーいをしている。

僕は日本ーーなんだ

(病床の大学ノート「交病録」より)

 徠さんの人生は決して暗くもなく、単調なものでもなかった。むしろ、多くの笑顔に囲まれ、人生の路傍を飾る多くの花々に彩られていた。そして、明治生まれの漢として、天寿を全うしたと言ってもいいだろう。

 歌集「埋れ火」の巻末に、徠さんのご子息佐藤省象氏が書いている。徠さんが・・・若い頃「俺は百姓で終わりたくない」との潜在意識があったが、六十歳を過ぎてようやく「俺は百姓の子に生まれ、百姓として一生を終えることに悔いはない」との境地に辿りついた・・・と。

 大分県は詩の荒蕪の地である。多くの先人がそう言い、わたしもそれを直に聞き、感じてきた。しかし、その荒蕪の地にしっかりと生きて鍬を打ち込んで詩的な人生を送った大樹があったということが、わたしの時として倦む心を高揚してくれている。

                               心象218号

参考文献

「む」二十七号・二十八号(2018年)

詩集「酒瓶を抱えて眠ろう」(1985年)

歌集「埋れ火」 (1985年)

随筆集「桐のある畑」(1985年)

キムラヤ創業50周年記念誌「燃える半世紀」(1976年)

キムラヤ創業70周年記念誌「文化と愛の軌跡」(1995年)

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