私的安倍晋三論ー3

私的安倍晋三論(3)

「一地方議員の政策提言-1(総論)」

 政治家を批判し、現状を嘆くばかりでは前進はない。これから日本を立て直すために何が必要なのかを我々一人ひとりが考えなくてはならないはずである。片田舎のこれまで一度も政党員になったことのない屋根裏部屋の一市議会議員でしかないお前が何を大それたことを言うのかとの誹りを覚悟しつつ、はなはだ不遜であると自覚しながら、それでもこの国に対するわたしの気持ちは、黙っていることを許さない。わたしがこの国の中枢にいたとしたらという夢のような仮定に立って、わたしなりの提言をまとめたい。広く友人知人のご意見ご批判をお待ちする。

 まず総論的提案をさせてもらう。ここでは批判や非難を展開するのではない。わたし自身のとして、わたしなら現状をどうとらえ、それをどう打破するつもりかということを考えてみたい。

①日本独自の政治手法への回帰

 日本は少なくとも明治維新を迎えるまで、蓄積された独自の文化を誇る国であった。ヨーロッパ諸国もその意味で文化創造の国であった。産業革命以降もその急激な社会変化の負の部分を植民地支配や人種差別という形に変えて、世界中に害毒を垂れ流し続けてきたし、今回のエリザベス女王の厳かな中にもきらびやかな国葬でも、その裏側に英国によって搾取されてきた国々の怨嗟の声は聞こえていた。中国も20世紀以降の混迷はともかくとして文化大革命以前は文化創造の国であった。

 ところが米国は文化創造の国だっただろうか。わたしは米国を人工の国であると考えている。文化もまた人が造ったものには違いはないが、文化は創造と蓄積によって、さらにそれが発酵して幾分の酒精を含むようになって初めて成立するが、単に人工という場合、それは力の創造というところに収束するし、その力の創造とは結局のところ経済の力というところに収束している。

 19世紀後半、米国はすさまじい成長を遂げつつあったが、それでもまだ欧州列強の後塵を拝する地位に甘んじていた。その頃の米国は所謂西部開拓史時代であり、やがて南北戦争を経てやっと近代国家としての形を成し始めるという頃である。その頃、銀行強盗であれ、逆にそのアジトを急襲する保安官であれ、入り口のドアを蹴破って扉を開けるという乱暴さを、わたしたちは西部劇の映画の中で痛快に感じながら見てきた。江戸末期の日本という太平の国は、ペリーという一軍人のドア蹴破り型の接触を受け、熊に襲われた蜂の巣のような大混乱を引き起こしてしまったのだが。

 その時から、日本は文化創造の国から文化模倣の国になってしまい、その後の変遷はわたしたちは教科書で習ってきた。技術や法体系を模倣するだけなら良かったのだが、文化的・伝統的思考をも模倣しようとしたことに問題があった。しかも、模倣は模倣でしかなかったことで問題はさらに深刻化してきたのだ。特に敗戦によって第二の開国を占領国による支配という特殊な環境下で、その模倣を迫られてしまったため、日本の伝統的美徳である「行間を読む」「惻隠の情」などという言葉が、その意義を失い「行間を読む」は「勝手に解釈する」に変わり「惻隠の情」は「忖度」に変わってしまった。

 米国では建国以来、力こそが善であり正義であるというポリシーのもとに政治が行われてきたが、日本もそれに倣うように政治の世界では「数の力」、社会では「金の力」が善である正義であるということになってしまった。それによって、日本の政治に最も求められてきたはずのマイノリティーや弱者への惻隠と配慮に基づく政治は、少なくともこの政治の論議の場からはしばしば切り捨てらることになってしまった。あまつさえ株価の高止まりを保障するためには国民の年金基金を株式市場につぎ込んで良しとする風潮を生んでしまった。

 今更ながらの感はするが、それでも今からでもやらなくてはいけないのは、わたしたち日本人がもう一度きちんと「惻隠の情」を取り戻すことであると、わたしは強く思っている。岸田首相の「耳を傾ける」とか「丁寧な説明」というのが如何に空疎な言葉かを実感するたびに、そんなことをしなくても、わたしたちは言葉や文字にならない心情をくみ取り、少数者や弱者の思いを惻隠する心を持っていたはずであり、誰より政治家にそのことを望みたい。

②コミュニティー意識の醸成

 近年、特に労働組合運動の退潮傾向が激しくなっている。連合が結成された1987年には既に27.6%まで落ち込んでいた組織率は、昨年(2021年)にはとうとう16.9%まで落ち込んだ。労働者の労働組合活動への期待度や信頼性はまだまだ低下傾向にある。

 労働組合の組織率が低下する要因は専門家の分析に任せるとして、わたしはこの傾向を嘆き、日本の将来に暗雲の立ち込めるのを感じさえしている。労働組合は賃上げによって労働そのものの価値を高めること共に、雇用環境や職場環境の保障を求め、家族を含めた社会全体の生活環境の改善を図ろうとするために、同じ職場で働くものが連帯して活動するための組織である。労働組合はそれぞれの会社や団体に共に働く者同士の共同体=コミュニティーである。

 コミュニティーと言えば、地域においては自治会・町内会の存続が困難になっているというし、学校ではPTAへの加入者が減るとともに活動ができなくなっているという話も聞く。いじめや不登校の要因の一つに、学校というコミュニティーの求心力の低下が有るのではないかと専門家は声をそろえていっているが、いずれもその背景に同根の問題がある。さらに言えばコミュニティーの最小単位である家庭、家族さえも絆が薄れ、そのためマタニティーブルーや産後鬱が社会問題化している。

 人間は社会的動物であると再確認するまでもないが、小さな単位から国単位の大きなものまで、わたしたちはコミュニティー社会に属して生活している。であればこそ、そのコミュニティーを健全な結束力・求心力で維持していくことは、わたしたちが生きて行くためだけでなく、わたしたちの子々孫々の暮らしを保障するためにも必須である。そのためにそのコミュニティーの構成員である我々一人ひとりが、それぞれの役割分担をこなしつつ、相互に信頼し合い、相互扶助の精神で協働していかなくてはなるまい。

③政治家への意識改革

 各級選挙のたびに、投票率の低下が問題になる。その一番の要因は政治家自身が有権者に期待を裏切り、失望させてきたことにある。「どうせ、自分のことしか考えない政治家だ。誰がやっても同じじゃないか」「自分が一票投じようと投じまいと、世の中には何の影響もない」という気持ちにさせてしまったのは、当の政治家たちである。一地方議員であるわたし自身を含めて、政治に志をおく強く全ての人間は、そのことを深く自省しなくてはならない。

 しかし、政治家の出来不出来を嘆くだけでは、わたしたちの生活が良くなり、未来が開けることにはつながらないことも明白である。しかも、安倍晋三と統一教会の野合で明らかになったように、国民が政治不信をかこっている間に権力は国民を無視して自己を肥大化させ国をあらぬ方向へ導こうとする。昭和初年の日本が軍部の自己肥大を許したばかりにその後、国民がどんな境遇に立ち至ったかを考えなくてはなるまい。

 よく言われるように「政治家は有権者の鑑」である。としたら、まずは我々が政治家を見る目を養い、私心を捨てた評価をする力をつける必要がある。さらに言えば、わたしたち自身が政治家を育てようとしなくてはなるまい。まずは手始めに現政権与党があぐらをかいてよしとしている権力の裏付けを見直すことが必要である。そのためには300議席という衆議院での議席を、少なくとも与野党拮抗するところまで減らさなくてはならない。「自由民主党員でなくては政治家にあらず人にあらず」という風潮を「自由民主党員だけには投票しない」というくらいの意気込みをもって、これからの各級選挙に当たらなくてはならない。「そうは言っても、地域の義理がある」とか「ほかにふさわしい政党がない」などと考えず、とにかく法的根拠もないままに「閣議決定すれば何でもできる」という状況を是正するための投票行動を起こすべきということである。

 「閣議決定すればなんでもまかり通る」が如何に怖いことであるか、それは閣議決定とはいえ結局首相にすべての閣僚の任免権がある以上、閣議決定はイコール首相の政治判断ということである。「閣議決定万能論」を許せば、次に来るのは一党独裁への道であり、一国自滅への暴走でしかないことを、わたしたちはいやというほど思い知らされて、まだ100年もたっていない。

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