わたしの政策談義

3.「憧れ」と「開拓」の国ロシア

 ロシアについて調べれば調べるほど、ロシアというかロシア国民(特にウラル山脈以西の)が、いかに可哀そうな人々であるかを切実に感じてしまいます。彼の地に人が住み始めてから今日に至るまでずっと、ロシアの人々は梅雨の晴れ間のようなごく短い期間を除いて、侵略・略奪・圧政・独裁に、耐えに耐えてきたのです。表題に挙げているようにロシアは「憧れ」と「開拓」の国です。しかしその「憧れ」にはルサンチマンが、「開拓」には侵略と略奪が明に対する暗の部分として不可分だと、わたしは考えています。それもまた、ロシアの長い長い苦難いうにはあまりにも悲惨な歴史に由来するものだと考えています。

 ルサンチマンとは単なる劣等感や羨望ではなく、そこには望んで敵わない者が抱く怒りを伴う憎悪、復讐心を伴う怨嗟が含まれています。ロシアが何に対してルサンチマンを抱いているかと言えば、それはもちろんルネサンス以降のヨーロッパ、第一次産業革命以降の西ヨーロッパですが、それだけでなくどうもパクス・ロマーナ時代のローマ帝国にまで遡る様です。イワン4世(雷帝)以来のロシアの皇帝は「ツァーリ」と呼ばれていますが、それはローマ帝国皇帝の称号である「カエサル」のスラブ訛りなのです。この紀元前から使われていた称号を自らに冠することにしたロシアの王が見ていたのは、遥か千五百年も前のローマの帝政だったのです。

 ロシアの支配者はその15~16世紀を境にして、それまでは「汗(カン)」であり、その後は「ツァーリ」になりました。しかし、称号は変わったものの支配体制そのものは何も変わらずに、最後のツァーリがロシア革命によって斃れるまで至っています。「汗」の時代は「タタールの軛(くびき)」と呼ばれていたのですが、タタールとは当時の征服者であるモンゴル人のことです。くびきとは馬車や牛車の先に取り付けられた横棒のことですが、馬や牛の自由を奪うという意味で、モンゴル人によるロシア支配の実態を表す言葉なのです。「タタールの軛」の時代はモンゴル帝国の西方拡大時期の13世紀から14世紀の間のことなのですが、それ以前のロシアもまだほとんど原始的な農業の営んでいたころから、西方からやってくる遊牧民に繰り返し破壊的な侵略を受けていたのです。

 今日、世界の正義、世界の常識は4つあります。それは日本を含む「西欧の正義・常識」、その対極としての「イスラム圏の正義・常識」、「中国の正義・常識」、そして「ロシアの」というより「プーチンの正義・常識」です。もちろん、国や地域の数で言えば世界(国連加盟国・地域)の大多数は曲がりなりにも「西欧の正義・常識」を規範としています。国連でよく言われる国際法についても、それは欧州全土を巻き込んだ二つの大戦という悲しくも辛い経験を通して形成されてきたもので、当然「西欧の正義・常識」に基づいています。プーチンもウクライナを侵略し始めて以来、「国際法」をよく口にしますが、彼の国際法は彼個人の凡そ他者には理解できない正義と常識というバイアスがかかっているため、彼以外の人々にとっては強弁や居直りにしか聞こえて来ません。

 ロシアという国は誰もが知っている通り、世界最大の版図を持つ国です。しかし、その国土の大半はシベリアであり、永久凍土地帯です。そして、その広大ではあるが厳しい自然環境の土地を手に入れた経緯が、ロシアという国の生きていく上での処世術のようなものを形作って来たのではないかとわたしは考えています。

 高校の時の世界史の授業で習う歴史上の大きな出来事の一つに民族の大移動というのがありました。その大移動にはいくつかのタイプと主導的な民族がいますが、実態は遊牧民族でした。遊牧というと今日、モンゴルの一部ぐらいしか思い浮かべることは出来ません。遊牧とは人間が自分たちを支える動物たちと共に移動して暮らすことです。放牧を含めた牧畜は家畜にエサを与えながら(それが牧草地を柵で囲って家畜に勝手にエサを食べさせていたとしても)人間が一ヶ所に定住して生活しています。遊牧と牧畜は根本的に違う生産手段であると同時に、生活形態そのものもちがうのです。しかも、遊牧が確立したのは農耕や牧畜に比べて比較的新しいのだそうです。

 遊牧という生産手段はある意味、ユーラシアほどの大陸でなくては成り立たなかったものなのかも知れません。季節によって移動する家畜(と言えるほど飼いならされているのかどうかは別として)と共に移動するのが遊牧民族だとすると、国境などは概念として育つはずもありません。折角、自然に生えている動物の食糧となる草を掘り起こして農地に変えようとする農耕民族は、自分たちの生活圏そのものを脅かす存在でしかなかったのです。

 なぜ、遊牧民族の話をしているかと言えば、ウラル山脈を境にしてその西側の所謂ヨーロッパロシアが、頻繁に起こった民族の大移動にどれだけ虐げられてきたかを思うからです。有史以降、西側から少しずつ進出してきた農業と牧畜の民族によって、ウクライナやベラルーシを含むヨーロッパロシアには次第に農地が広がっていきました。しかしそれはウラル山脈のより東側で動物と共に移動して暮らす遊牧民族から見れば、自分たちの生存そのものを脅かす事態でした。久しぶりに来てみれば、馬やヒツジの好む草が残らず掘り取られ、代わりに麦や蕎麦が植えられていて、しかも、その農地の持ち主たちは武器を持って追い払おうとします。当然ながら、遊牧民は力で追い払おうとしたでしょう。

 西洋史は西側で創られました。つまり、農業民族側から見た歴史です。突然のように現れ、折角開墾した農地を踏み荒らそうとし、自分の家財産を奪い、人命を奪う異民族は脅威であり災厄だったでしょう。しかし、遊牧民族の側から見れば、農耕民族は自分たちの生存権を脅かす悪であり、脅威だったわけです。それが現在のモンゴルからほぼ古代のシルクロードの道筋に沿って攻防を繰り返した遊牧民たちの部族や国家であり、その最も強大だったのがチンギスハーンのモンゴル帝国です。

 モンゴルに攻め込まれる前の9世紀末、ロシアに初めてわたしたちの考える国という概念での国家が誕生したのは、今のウクライナ国の首都キエフを中心にしたキエフ大公国ということになっています。それまでももちろん、その一帯で農業と牧畜を展開していた所謂スラブの人々は、東から絶えずやって殺戮と破壊を繰り返す黄色人種(モンゴロイド)に虐げられていたのです。しかも、その侵略者たちは国家という概念からは程遠い、指導者とその家族や血縁者など少数の貴族と、それに付き従う部族の構成員で成り立つだけの集団でした。「タタールの軛」の軛は本来は動物の自由を制限してコントロールし易くするための道具ですが、侵略され征服され収奪される側にとっては、遊牧の民の存在はそれだけで軛どころか悪魔そのものだったのでしょう。

ようやく対抗するだけの十分な国家としてキエフ大公国が生まれた時、その建国を成し遂げたのは、実はスカンジナビアからバルト海を渡り、南下してきたバイキングでした。バイキングもまた、農業民族ではありませんでした。狩猟や漁業を中心として、あとは南下して裕福な先進農業地帯を襲う侵略者でした。つまり遊牧民から海賊に支配者が変わっただけです。国が成立したというよりは独裁者が交代しただけで、人々が虐げられるということには変わりはありませんでした。その後にロシアに生まれたロシア人による政権もまた国家としての統治機構を、それまでの遊牧民国家やバイキングによる国家と同じく、基本的に征服者とその仲間(貴族)と、農民(奴隷と同じなので農奴と呼ばれています)だけの構造としていました。そして、そのような社会構造は19世紀になって共産革命によってロマノフ王朝が倒れるまで続いたのです。

 遊牧民は馬に乗って高速移動でき、かつ馬で高速移動しつつ強く正確な弓を射ることが出来ました。それが彼らが一時は世界征服した力の源だったのですが、やがて、西側世界で鉄砲が考案されたことで、遊牧民は優勢を失うことになり、東方に押し返されます。なんだか日本の戦国時代の長篠の闘いの顛末のようです。ともあれ、ロシアが鉄砲という新兵器によって力を得ると、ウラル山脈を越えて逆に東側に攻め込むことになるのですが、この時、ロシアの皇帝(王)は金持ちの一人に貴族の地位と権益を条件に東征させます。その貴族(ストロガノフ家)は貴族ですから自分の軍隊など持っていません。それで傭兵を使いました。その傭兵はイェルマークというリーダーに率いられたコサックです。イェルマークは当時ウラル山脈の東側にかろうじて存在していたシビル・ハン国という遊牧民国家を滅ぼした余勢をかって、シベリアを東へ東へ進むことになり、時代が下がるとロシアの領域はベーリング海を越えてアラスカに及びましたが、さすがにそこまでは管轄することが出来なかったのか、1867年3月、720万USドル(2016年現在の貨幣価値に換算すると1億2300万ドル)で米国に売却しています。

 冒頭、ロシアは「憧れ」と書きました。特にイワン雷帝からロマノフ王朝にいたる帝政時代において、憧れの対象はローマ帝国であり、その後継である東ローマ帝国(ビザンチン)だったと、わたしは考えています。但し、その政治体制は皇帝と少数の貴族階級による独裁という単純なもので、元老院制度や護民官制度などは取り入れていません。18ごろからのロシアはウラル山脈を東に越えて、ロシアは領土を拡大し、そこに砦を兼ねた都市を建設していきます。それらの都市はわたしは訪れたことはありませんが、ロシアとは思えないほど緻密で機能的だそうです。それはローマ帝国が版図を広がて行った時、新たに手に入れた領土に軍事拠点と入植者のための居住値を兼ねた都市を建設していったことと重なります。それもまたわたしがロシアの憧れがローマに通じているとわたしが考える理由の一つなのです。

 ロシアは少なくとも人が住み始めた時からずっと農業国でありながら、遊牧民族による彼らから見れば過激で支離滅裂な攻撃と略奪に晒されました。その恐怖から抜け出すことが出来たのは鉄砲という新兵器でした。長い長い略奪と被征服の時代を経て、スラブ民族の国を立ち上げてからも、最後の王朝ロマノフ王朝が革命によって倒されるまで、絶対権力者である王と少数の貴族、聖職者、名誉市民以外は、必要最低限の商人と職人、兵力としてのカザーク(コサック=傭兵)そして大多数の農民(実質は奴隷=農奴)しかいないというような単純な統治機構しか持っていませんでした。そしてロシア革命を迎えソヴィエト連邦を建国しました。やがて、その瓦解と共に元のロシアになったということがそれがあの国の歴史のあらすじです。そこから現在の西側諸国の国際感覚や国際社会常識との乖離が生まれるべくして生まれたと考えることは出来ないものでしょうか。

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