わたしの政策談義

4.「人民」と「秩序」の国中国

 もうずいぶん前のことですが、大分市農業委員会の中国新疆ウイグル農業視察団に同行させてもらいました。わたしは中国の想像を絶するような人口密度に恐れをなして、それまで中国大陸へ行くことはありませんでした。大分市と武漢が友好都市ということで、何度か節目の年に誘われましたが、それでも行く気にはなれませんでした。しかし、一方で漢詩の世界には憧れのようなものを抱いていましたし、とりわけ王維の七言絶句「送元二使安西」の一節「西出陽關無故人(西のかた陽関をいずれば故人なからん)」の「陽関」が長年の行きたい地の一つだったのです。

 その旅での目的はウルムチ地方のカーレーズと呼ばれる農業用水システムとそれを利用した農業生産地を視察することではありましたが、目的地のウルムチ市とトゥルファン市に行く前に、まず敦煌市に行きその郊外の念願の陽関を訪ねましたし、ウルムチの博物館では楼蘭の美女の木乃伊も見ました。しかし、その旅で最も印象に残ったのはウルムチの高級ホテルで開かれた歓迎レセプションでした。それまでもトゥルファンの農家では少女たちがウイグル族の踊りを見せてくれ、同行した大分市の農業委員の方たちはその可愛さにチップをはずんでいました。農業視察団とはいえ、まさかホテルの広い会場でウルムチ市の公式の歓迎レセプションを開いてくれるとは思いもしていませんでした。

 ここでもウイグル族の踊りや音楽などのプログラムの後、ウルムチ市の幹部らしい方のご挨拶も頂きました。その内容は通訳の日本語が分かりにくかったこともあって、ほとんど覚えていませんが、それでも強く印象に残ったのには訳があります。その一つはわたし達のような市レベルの農業委員会の視察団に対しても公式の歓迎レセプションを開いてくれたという中国のホスピタリティーの高さです。まるで遣唐使時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を抱いました。しかしそれ以上に心に深く残ったのは、歓迎のプログラムは新疆ウイグルの地元民であるウイグル族らしい彫の深い美男美女で構成されていましたが、挨拶になった市の幹部はわたしたちがよく見る中国人、つまり漢族の人だったということです。

 新疆ウイグルは自治区です。自治区の人口はわたしが訪問した当時でも2000万人(現在は約2500万人)を超えていたのですが、その時の人口比もウイグル族45%、漢民族 41%であり、ウルムチ市は人口300万を超す自治区首都です。自治区である以上、わたしは自治区の高級幹部もウイグル族から選ばれているものと思っていました。その後、この地で起こっていることを報道で知るたびに、あの時の歓迎レセプションを思い出してしまいます。

 中国は人民の国です。文明が発祥するためにはいろいろな要因が必要となりますが、人口も必須の条件です。中国に文明が発祥した時から人口は相当な数だったことになりますし、世界中に文明と呼ばれる場所がありますが、中国を除く他の文明と中国文明が大きく違うのは、その人口の推移です。過去の文明の地はそれなりの人口を今でも抱えてはいますが、中国以外の文明が発祥した地もそれなりに人口は増えているようです。しかし、それに比べて中国は正確な人口統計が出来ずに推計するしかなかった殷や秦の時代の人口、1000万人から2000万人から、今日の13億に至るまで、時代時代の事情によっていくらかの増減を繰り返しながらも、増加の一途を辿ったわけです。一歩で人口が多いということ自体が、中国に宿命的な問題を包含させることにもつながっています。

 少なくとも約3000年にわたって人口が増え続けたということは、為政者が人民を大切にしてきた証拠です。ロシアのように権力者の暴力的な苛斂誅求によって人口が抑制され続けてきた国と正反対なのです。その人口の食を支えること、つまり人民に食べさせることに歴代の王朝、政権は腐心していました。それを忘れた為政者は滅ぶというのが中国の歴史上の必然でした。だからこそ、わたしは中国を人民の国であると考えるのです。

殷・秦の時代から為政者たるもの人民の生活を保障するということを忘れてしまえば、あっという間に滅びてきたのです。

 但し、為政者が人民として意識しているのは漢民族だけでした。文明発祥の時はともかく時代が下がるにつけて形成されていった所謂中華思想はある意味すさまじいものです。中国の中心部中原に住む漢民族の支配する地域を除く、四方八方全ての地域に住んでいる人間を人間とは考えていなかったのです。つまり人民とはイコール漢民族であり、それ以外はたとえかたちは人間でも人とは見ていなかったのです。今では死語になっていると信じたいのですが東夷・西戎・南蛮・北狄という言葉が中国にありました。東西南北の周りを全て人のかたちをした獣や、朝貢してくる獣よりはいくらかましな野蛮人に囲まれていると考えていたのです。

 一方で中国の為政者は本質的には膨張主義者、領土拡大主義者ではありませんでした。西方や北方の地平線の彼方から突如馬に乗ってやってくる野蛮人から、自分たちの大切な農地を守ることだけに心血を注ぎ、ついに万里の長城まで築くほどでしたが、少なくとも始皇帝の時代から毛沢東の時代まで、彼らの安全保障の眼目は如何に自国民の食の基本である農地を守るかにあったと言えます。

 最後の王朝である清が辛亥革命によって滅ぶことになった後、しばらくはまるで春秋戦国時代のような混乱期もありましたが、国共内戦に現在の新中国が勝利した後、毛沢東が打ち出した「下放政策」も行ってみれば当時の食糧難の可決策としての色合いの濃いものだったし、さらに実は特に西側と北側の国境線が中国にとって脅威だったこともありました。国境の向うには当時のソ連の戦車群がいたのです。そう言うと今では意外な感じもするでしょうが、当時は実際国境線をめぐって紛争さえ起こしているほどです。その頃のやっと内戦を制したばかりの中国は、ソ連の戦車群が国境に張り付いているという事実に、匈奴やモンゴルが責めてきた頃の時代に匹敵するほどの恐怖心を持っていたはずで、それからすれば今日の状況は異次元ともいえるでしょう。そのためにも多くの人民を北方に張り付ける必要もありましたし、所謂辺境の異民族・少数民族を融和的にとりこむことも安全保障上重要な政治課題になっていたはずです。しかし、それもまた中国にしてみれば「人民の海」を守るための「人民」による防波堤だったのかも知れません。

 中国は「秩序」の国です。漢民族と言いますが、実は漢という純粋な意味で独立した民族が存在するわけではありません。「華」を奉じる部族は皆漢民族に迎え入れてきたのです。中国国内に暮らすそれ以外の中国人はそれぞれの固有の伝統文化を有し、場合によっては共産主義とは相いれない宗教を信じている所謂少数民族で、その数は現在56部族だそうです。

 統一王朝の出現以来、漢民族は近隣の別の部族を吸収して強大化していくことになりました。その時、漢民族として迎え入れるか、晦渋しただけの少数民族のままでいるか、さらには朝貢してくる冊封国かの判断は、所謂「中華思想」への傾倒度によっていたと言われ、その傾倒度は儒教・礼教をどの程度奉じているかによって判断されていたようです。新中国は儒教・礼教を否定しましたので、儒教的秩序の代わりに共産主義的ヒエラルキーが秩序の骨の部分として採用されました。そしてそれもその後の改革開放によって少しずつ変化して今日に至っているのですが、では今日の中国の秩序とは何なのか専門家でないわたしには想像もつきません。

 いずれにせよ中国の権力者が大人口に食べさせることと国内の秩序を保つことを念頭に政治を行う以上、本来的に国土を拡大させようという野望など抱いている暇はなかったはずです。そこが、ウラル山脈を越えて東へ東へと膨張することで国力を増大させてきた前近代のロシアと違うところなのですが。

 繰り返しますが中国は少なくとも秦王朝の成立以来も、安定期と混乱期を繰り返してきました。安定期の末期を混乱期に含めても混乱期より安定期の方がずっと長かったのですが、安定期の為政者は常に人民の口を糊することに配慮していたとともに、人民に秩序付けを怠りませんでした。優秀な為政者であれば、腹を減らした人民が政権を揺るがす最も大きな脅威になることは勿論ですが、生活にゆとりのできた人民に自由と奔放な暮らしを許せば、それもまた権力者にとっての大きな脅威になることを知っていたからです。

 漢の劉邦が項羽に負け続けていたにもかかわらず、最終的に価値を得たのも彼が貧しく飢えを知っている人民の海の中から登場したため常に人民のための食を確保することに留意していたからであり、項羽が初めから食の豊かな地域の、しかも高貴の出であったため、人民の生活感とはいささかかけ離れていたことにある、つまりどちらが人民により多く飯を喰わせることが出来たかの違いだったのではないかとわたしは考えています。

 その劉邦ですら統一王朝を作るや否や、今度は人民を秩序付け統制することに腐心し始め、その方法の一つとして「儒教」を採用しています。それ以来、為政者による儒教の政治利用は清王朝の末期まで2000年以上も続くことになるのです。

 辛亥革命後の混乱を制したのは毛沢東でした。かれを劉邦、国民党軍の蒋介石を項羽に喩えれば、その後の新中国誕生の経緯も少しは紐解ける気がします。そしてその毛沢東が政権奪取後、人民の秩序を構築するために採用したのは「儒教」ではなく「民族主義的社会主義」でした。ただ、それまで2000年以上も体にしみこませてきた「儒教」的秩序間隔をそう簡単に変えることはむずかしかったようで、自らプロレタリア文化大革命を始め、孔子の論語の代わりに毛語録を人民に持たせ、人民の食を満たす努力をして見せるため「下放政策」を推し進めたのです。

 毛沢東や周恩来の時代が過ぎ、改革開放政策が始まって以来、中国は豊かな国になりました。13億人の人民が飢えに苦しむ心配は無くなりました。しかし、一方で「秩序」の方は「新秩序」が生まれ育つというところまでには至っていないようです。中国の歴史上、飢えと貧困が無秩序を産むことはあっても、富裕が故の無秩序はなかったようです。そのことの末恐ろしさのようなものを最も強く感じているのは、当の習近平だとわたしは考えています。彼の毛沢東への回帰性も、その反面で儒教・礼教、道教へのタガをつるめるようになったのも、その恐怖心からではないでしょうか。

 ついでに考えると、台湾について習近平が考えていることは太平洋への出入り口を確保することでも、ましてや領土を拡大することでもなく、とにかく統一すること、つまり同じ漢民族がふたつの価値観に分かれていることへの恐怖にも似た嫌悪感を解消したいということだけのような気がします。ちょうどプーチンがウクライナに対して抱いている感情と一方的な政治的・社会的決めつけも同じように、プーチンが手前勝手に同一視している民族の一方が自由主義・民主主義、一方が社会主義・権威主義を信奉することに対する、が許せないということに似ています。

 であればこそ、米国はじめ西側諸国が台湾に肩入れすればするほど、習近平の危機感は高まることになります。中国が大きく変わって現代にあっても、中国の為政者の人民・秩序優先施策の本質は当分変わらないでしょう。そのことを日本としても日本人としても忘れてはならないのではないでしょうか。

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