抑止力という虚構

プロローグ

「安全保障」というとすぐに「抑止力」というように、まるで定型句のように叫ばれるのだが、わたしはそれが納得できない。「「抑止力」ということが軍拡を推し進めようとする輩の「方便」や「レトリック」どころか、まったくの虚構でしかないと、わたしは考えている。安全保障と抑止力がイコールであってはいけないとも考えている。

国であれ郷土であれ、そこを守るということが安全保障ということなのだが、国や郷土を守るのは軍事力だけではないはずだ。国際親善、善隣外交はもちろん、国土保全のための防災や食料安全保障も安全保障の必須アイテムであるはずだ。

抑止力ということになると具体的に敵や仮想敵を意識した上でなくては発想すらできないのだが、では日本にとっての敵や仮想敵は誰なの奈道。国民の福利厚生や生活安全のためのインフラストラクチャ-には財源問題を声高に言い、軍拡のための防衛予算は天井知らずに増額している現下の日本の政治家たちは、その理由として「抑止力」を持ち出すが、彼らに「では敵はどこの国なのか」と聞いてみたい。保守系とか自民党の補完勢力とか言われる野党議員からは「核を持つことが安上がりな抑止力になる」などという根拠もなければ、荒唐無稽としか言えない発言さえ聞こえているのだ。

そもそも「抑止力」というのは「はったり」と「虚勢」の張り合いのことであり、「これだけ脅せば相手はビビッて攻めてこないだろう」と期待することだ。「何かやったら、ただじゃすまないぞ」と脅すことでもある。また、相手より多くの兵器を持つことで恐怖心を抑え込もうとする病的なほどの恐怖心の現れでもある。

その一方で、抑止力の前提となる安全保障を脅かす相手は「正義の通じない悪の枢軸」であり、「何を仕出かすか分からない狂人」と決めつけているのである。少しでも「相手はどう思っているだろうか」ということに思いを馳せることが出来れば、相手もまた自分たちを「悪の枢軸」とも「狂人」だと決めつけて恐怖しているということ気付くはずだ。あるいは気付いているのかも知れないが、いったん動き出した武器生産システムを止めることが出来ず、軍産複合体を形成して武器を生産し続け、自分たちの大事な国を人殺しのための道具で溢れさせているのかもしれない。

マッドマンの系譜と眷属について考えると、それがあまりにも21世紀の今日の世界情勢や登場人物に通じているため怖くなってきた。そこでマッドマンについての人物論考を少し休んでも、「抑止力」という軍産複合体とそのしもべとなり下がった政治家たちの「合言葉」について考えてみたい。

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