抑止力という虚構

③抑止力とは何だ?

 抑止力という言葉はよく使われる割に、その本来の意味についてはあまり語られることがない。改めて抑止力(deterrence)という言葉そのものが持つ意味について考えてみたい。

抑止力は辞書的には「何かをしようと思っている者に、それを思いとどまらせるための力」ということになる。さらに「相手に当方にとって有害な行動を思いとどまらせる力やそれを期待することができる何らかの作用」のことである。

 これを国家間の安全保障分野に当てはめると「ある国が他の国に軍事力を行使することを思いとどまらせる力」ということである。軍事的攻撃を受けた被攻撃国が攻撃国に対して直ちに報復攻撃を行うことができると見せつけることで、攻撃もしくは侵略しようとする国が、自らの攻撃または侵略という行為に見合う利得は得られない、あるいは反撃によってかえって自国に多大な損害を与えられるかもしれないと認識させて、攻撃を思いとどまらせるということである。

 従って、一方の国が単に「いつ攻めてこられるかわからない」という恐怖心から軍備を拡大すれば、もう一方の国もまた「いつ攻めてこられるかわからない」という恐怖心を募らせて更に軍事力強化をすることになる。そうやって、お互いに果てしのない軍拡競争を行うことで、実は双方ともに軍需産業以外の産業の成長を阻害し、国全体としての力「国力」を減退もしくは弱体化させることになりかねないということでもある。

 この辞書的な理解による(ということは古典的な抑止力ということだが)抑止力が成立するためにはまず、お互いが冷静であることが必要である。精神病的な恐怖心ではなく、冷静で論理的な恐怖心があって(そんなものが存在するとしての話だが)はじめて相手にとって受け入れ難い報復をする能力と意志を持っていることを明確に、信憑性を持って伝達し理解させることで、相手に攻撃させないという抑止力の目的を達成することになる。

 要するに抑止力とは「お互いに相手に恐怖心を与え」ながら、「お互いに報復の脅しをかける」ということである。従って安全保障を軍事に頼るということは、その軍拡競争は常に相手より強く、あるいは兵力・武器を相手より多くという無限奈落に落ちるようなものになる。そうならないためには、どちらかが冷静に「我に帰リ」「お互いの立場を理解」することが必要であり、それこそが最も有効で恒常的・持続的な抑止力になるはずである。

 もちろん「そうなっては困る」という輩が存在するからこそ、古代ギリシャのポリス同士の戦争以来、人間の歴史は「軍事的抑止力の構築」と「その破綻」の繰り返しであったのだ。その輩とは⑴派遣国に肩を並べようとする新興国家⑵国民を押さえつけておかなくは安心ができないという独裁者⑶軍産複合体の恩恵を受ける立場にある一部の軍人や企業などであり、多くの場合この三つを同時に体現するとわたしは考えている。

 ⑴の覇権国と覇権国に肩を並べようとする新興国家の関係は、古代ギリシャのアテネとスパルタと、現代の米国と中国の関係に似ている。⑵の独裁者の場合、国民を抑え込むために外に敵を作り、その敵の悪だくみを抑止する、あるいは撃破するためにと言って国民に我慢を強いる。⑶は戦争景気という言葉があるように、兵器産業、軍需産業も産業として一時的には間違いなく国のGDPに貢献する。

 ところで日本の軍事費は2024年ではGDP(国内総生産)の1.4%でした。日本の防衛費は長らくGDP比1%を上限としてきたが、極東地域の国際情勢に対する抑止力向上を理由に2023年度予算でこの枠が撤廃され、同時に政府(岸田政権)は2027年度までに防衛費と関連経費を合わせた額をGDP比2%まで増額すると表明している。2025年度の防衛費は総額9兆9千億円、対GDP比1.8%まで増加の一途をたどっている。ちなみに国防費のGDPに占める割合の世界平均は2.2%、NATO加盟国の平均も2.0%で、トランプは日本を含む同盟諸国に対し、GDP比5%まで引き上げるよう要求している。

 2023年度の米国の軍事費は9160億ドルでGDP比は3.4%である。それがトランプの同盟各国に対する国防費の対GDP比3%~4%という要求の根拠になっている。 しかし一方、同年の世界の軍事に関する総支出に占める米国の割合は37%である。中国でさえ同年の軍事費は(推計)2960億ドル(GⅮP比1.7%)、世界の軍事に関する総支出に占める割合は12%である。冷戦時代の東側の盟主であったロシアの場合でも、ウクライナに侵攻した2023年、正に戦時中の軍事費は1090億ドル(GDP比5.9%)世界の軍事に関する総支出に占める割合は4.5%である。如何に米国の軍事産業が突出して巨大であるか実感できる。

 米国の軍需産業が巨大化した歴史的経緯は専門家の解説に委ねるとして、GDPに占める割合がわずか3.4%とは言え、米国の主要産業としての印象が強い農林水産業のGDPに占める割合約1.1%(2025年1月時点)の3倍である。

 武器・弾薬というものの製造は、いくら抑止力のためと言い募ろうと、それを実際に使用することを前提としている。演習に使ったり、使用期限が来たり技術革新で旧式になったりして処分・廃棄される分は全体から見ると少ない。過剰な分は輸出するか、どこかに保管することになるが、輸出先も同様に保管の場所には限界があって、やがて在庫でいっぱいになる。いっぱいになれば生産を中止すればいいものだが、それでは軍需産業は成り立たないから、何とか在庫一掃しようとその方法を考える。

 武器と名の付くものと、そのための弾薬は、人を殺すためと構造物を破壊するために製造される。その在庫を一掃するために考えられるのは「在庫一掃大処分セール」などはない。それこそが戦争である。米国が一定の間隔で戦争をしてきた陰には、軍需産業発展の経緯がぴったりと張り付いているのである。第二次世界大戦以降米国が直接当事者として戦ったものだけでも多くの戦争があるし、抑止力向上のためと称して米国製の武器を大量に供与した結果、摩擦や内圧が嵩じて爆発する形で起こった局地戦争や内乱もあった。

 それはまた冷戦期のソヴィエト連邦(当時)でも同様であった。冷戦(cold war)期とは言われてはいても、米ソのはざまで代理戦争(hot war)を戦った多くの国々があった。冷戦とは「抑止力の見せつけ合い」であり、それが嵩じると地球上のあらゆる人間を破滅させるのに十分な核兵器の保有にまで突き進んでしまったのだ。抑止力と言うのは自国民の生命と財産を守るために発揮されることを前提としているはずなのだが、その抑止力はいつの間にはまるで別の生命体のように自己増殖を始めとどまることを知らないものになる。抑止力のために国民は耐乏生活を強いられるだけでなく、言論その他の自由さえ奪われて,揚げ句に、全人類を道連れに破滅することになる。

 そのことに気が付いたのが、実は1985年から1991年までソビエト連邦のリーダーだったミハエル・ゴルバチョフだ。彼は国内で「抑止力」を錦に御旗にして自己肥大を続けていたソ連型軍産複合体のお陰で、国民が貧困と不自由に苛まれていることに気が付いた。その後の彼の矢継ぎ早の「ペレストロイカ(共産党一党独裁の放棄と民主化)」「グラスノチ(情報公開)」「核軍縮(中距離核戦力の全廃条約)」という3つの大改革によって世界は冷戦期を脱し、それまで世界中で数万発あった核爆弾を少なくとも世界総計1万数千発まで減らしている。彼を暗殺しようとする試みもあったが、それが奈辺から出た意図なのか未だに謎なのだが、彼が死ぬことによって誰が利益を被るかを考えれば、大方予想がつくというんのだ。ともあれ、彼はその危機を幸運にも乗り越えて1990年にノーベル平和賞を受賞するとともに、政界引退後も2022年8月30日に享年91歳で亡くなるまで世界中で講演活動などを続けた。

 彼がノーベル平和賞を受賞した最大の功績が「抑止力」が軍産複合体の生み出した虚構だということを世に知らしめたことにある。彼の言葉に「こんな暮らしを続けるわけにはいかない」と言うのがあるが、それこそが抑止力最優先の考え方に対するゴルバチョフの本音だったのである。

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