抑止力という虚構ー4

④あちら側とこちら側

 安全保障の基本は「あちら側とこちら側」を作らないことだとわたしは考えている。あちら側とこちら側を作るからこそ、お互いに「こちら側は善良な正義の徒なのに」と正義を振りかざし、「あちら側は邪悪な鬼畜」と悪人に仕立てて憎悪する。結果としてお互いがあちら側に「殺さなければ殺される」と言う恐怖を抱いてしまう。平和と安全保障を考える時、最も重要な衝動がここにあるとわたしは考えるのだ。

「あちら側とこちら側」を作るのは、常に独裁者のプロパガンダから始まる。19世紀の植民主義的領土欲であろうと、信教の違いによる行き違いによる宗教的軋轢であろうと、権力をひとり占めしようとする人間は、それを利用して自らの権力を確立し、確立した権力を維持し補強するために「あちら側」を作りたがる。二十世紀後半からは軍産複合体がそれを煽りながら、敵味方なく武器を売ることで、わが身の肥え太ることを画策する。

唐突だが「若者は簡単に騙される。何故なら、すぐに信じるからだ」という言葉を思い出して欲しい。これはアリストテレスの言葉だ。最近、SNS上で繰り返されている若い世代の言動を見るにつけ、わたしは背筋の凍る思いでこの言葉を思い出している。「中国共産党はけしからぬ。何をしかけてくるか分からぬ」「韓国はけしからぬ。竹島は自分たちのものだと言って実効支配したままだ」「ロシアはけしからぬ。北方四島を簒奪したまま返そうとしない」「北朝鮮はけしからぬ。ミサイルは飛ばすし、核兵器はちらつかせる」「日本も軍備を拡大して、抑止力を強化しないと、あちら側はいつ攻めてくるか分かったものじゃない」こんな言葉がSNS上を飛び交っている。

その風潮こそが日本の安全保障にとってもっとも危険なのだということを、わたしは声を大にして言いたい。戦争になれば結局、死ぬのは「あちら側」だけではない。こちら側も確実に死ぬ。現代の戦争は人民戦争、国民戦争であり、兵士と民間人、ましてやこどもや老人までも巻き込んで犠牲を強いるのだ。まして21世紀の今日、下手をすると一国どころか、全人類の存亡にかかわる事態にも発展しかねない。

旧約聖書の「創世記」11章1-9節にバベルの塔の物語が出てくる。「彼らは一つの民で、同じ言葉を話しているために、不遜にも天に届く塔の建設を始めた。このままではそれを成し遂げるかもしれない。だからわたし(神)は彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるようにしよう。そうして、かつては全ての人間が互いに理解するためにあった言葉に混乱が生じ、塔の建設を断念せざるを得なくなっただけでなく、諍いを始めるようになり、分断され離散した」というのが物語の顛末だ。

「バベル」はバビロニアもしくはバビロンと同義の地名だが、その言葉の意味は「混乱」ということだそうだ。この混乱は人間が不遜なことを考えたことに神がお怒りになったということだが、わたしはこの物語にいくつかの今日的な教訓を見出している。まず、「天まで届く塔」を「科学技術開発」と解釈してみた。産業革命、ダイナマイトの発明、数百万とも言われる化学物質、果ては核兵器と、わたし達は「天まで届く」科学技術を追い求めてきたし、これからも留まるところを知らないだろう。

それに神がお怒りになって「言葉が通じなくなって、互いに理解できないことから諍いと分断が始まった」と考えれば、19世紀後半に始まった産業革命以来の資本主義の席巻による分断、支配者と被支配者、格差拡大の根源的な原因が奈辺にあるか見えてくる。

旧約聖書はユダヤ教徒、キリスト教徒のイデオロギーの根幹をなすものではあるが、だからこそ、今日の世界的な混乱の根源的な原因が「相互不信」であり、それを解消するのは「相互理解」だと解っているはずだ。もちろん、「神」が企んだ「混乱」であるから一朝一旦に解消できるものではない。故に「そんな理想論を語っていて、攻め込まれたらどうするんだ」と国防論者たちは声を荒げる。しかし、では軍事力を増大させることが、抑止力や安全保障になりうるのかとの問いに明確な答えは持ち合わせていないようだ。単に「あちら側はいつ攻めてくるか分からない。手を出そうものなら倍返しになると見せつけなくてはならない」と言い、あとはこぶしを突き上げるばかりだ。そんな、軍事力の見せつけ合いなど実は何の効果もない。なぜなら、「あちら側」に脅威を感じて「こちら側」が軍備を増強すれば、「あちら側」は「あちら側」の「あちら側、つまり「こちら側」に脅威を感じて軍備を増強するだけのことであり、その連鎖は無限に続くことになる。

脅威があるとしたら、その脅威を科学的に分析することがまず抑止力の原点だ。脅威を「精神衛生的な恐怖心」にすり替えることくらい危険なことはない。正に「あちら側は悪魔」「あちら側は何をしかけてくるか分からない」というだけでは、安全保障など成り立たないし、外交や国際協調という努力を死物化させてしまうだけだ。もちろん、ウクライナに対するプーチンの言い分、ガザでの非道を繰り返してきたネタニエフの言い分は、どちらも「あちら側」を全否定しているからこそ、世界中からの非難を浴びているという悲しい現実があることは承知している。

ウクライナやガザだけでなく、世界中であちら側とこちら側の罵りあいから戦争や紛争、果てはジェノサイドになってしまった事例に事欠かないことも理解している。しかし、それでも例えば旧ユーゴスラビアの一時の混乱と今日の平穏、ルアンダの起こった惨劇と現在の平穏は「悲劇があったからこそ、今の安逸がある」のではなかろう。悲劇が生じる前に相互に理解があれば、あの悲劇を経ずに今の平安を手に入れられたはずである。

日本の周辺においては竹島、尖閣諸島、北方四島の領有権は未解決だし、朝鮮半島の分断や台湾問題がある。しかし、仮に時間はかかっても武力に訴えることなく解決出来る道を探るべきだ。どんなことがあっても日本人の命を失う危険にさらす訳にはいかないはずだ。台湾有事にしても、今にも起きそうだと不安をあおって、だから軍備だ日米安保体制強化だと騒ぐ輩もいるが、果たして中国は台湾にホット・ウオーを仕掛けるかというと、その可能性は限りなくゼロに近い。確かに国共内戦以来の未解決事案ではあるだろうが、一方で台湾は中国にとって「金の卵を産む鵞鳥」だ。その「金の卵」を産む産業を武力侵攻によって破壊してしまえば、例え太平洋の西の小島を手に入れたとしても、代償はどれほどのものかということを、中国指導部が理解していないはずはない。現に台湾本島からすれば、目と鼻の先にある金門島でさえ、中国は手を出そうとしてはいない。

ただし「限りなくゼロに近い」であって「ゼロ」ではないと言わざるを得ないのは、軍産複合体の手先となって、中国の逆鱗を逆なでしたがる米国のマッチポンプ政治家の存在を念頭にせざるを得ないからである。むしろ、そのマッチポンプの言うことと仕業を、本気で正義の味方、日本の味方と信じていていいのか、わたし達はもっと冷静に考えなくてはいけないところに来ているのだが、残念ながら高市政権の誕生によって、「日本の若者を米国の先兵とする」危険な未来に、高市早苗が言うように「確実な前進」が一歩進んでしまった。

カテゴリー: 抑止力という虚構 パーマリンク

コメントを残す