ステイホームウイークスー11

1)シンギュラリティーの見え始めた時代に生きる

 シンギュラリティ(Singularity)とは未来学者が提唱してきた概念で「技術的特異点」のことです。人工知能が自分で繰り返し自分のバージョンアップが繰り返すようになると、人間の知性を遥かに超える知性を獲得するという、聊かSFの世界の様な仮説です。要は人間の作り出した人工知能が人知を超えるということであり、AI(人工知能)が生み出す技術や知能が、人類のためではなく人工知能自身のためにその能力を発揮して、現在では想像もつかない、まったく違う新しい文明を生み出してしまう事態になるかもしれないということです。1993年にヴァーナー・ヴィンジという人が初めて自分の著作の中でシンギュラリティーという言葉を使い「30年以内に技術的に人間を超える知能がつくられる」と表現しました。AIの発明家で未来学者のレイ・カーツワイル、「2029年にAIが人間並みの知能を備え、2045年に技術的特異点が来る」と提唱し、シンギュラリティーは2045年問題と呼ばれるようになっています。その2045年問題の根拠となっている理論が、「収穫加速の法則」です。

 収穫加速の法則とは「技術の一つの重要な発明は次々に他の発明を呼び込んで、次の段階への技術上の進歩までに要する時間を加速度的に短縮し」その結果として「技術の進歩と性能のバージョンアップは直線的に進むのではなく指数関数的に向上する」という法則です。ひとたび技術的な進歩が始まると、その技術そのものが次の進歩までの期間を短縮させ、ますます技術の進歩が加速するというわけです。

 新型コロナウイルス感染症対策の手段としてリモート・ワークなどが普及していくと、当然AIと情報ネットワークが前提の技術開発はこれまで以上に加速されるでしょう。第4次産業革命の進展度は確かに指数関数的にそのスピードを増すことになります。それと共に、シンギュラリティーが刻一刻と迫ってきているということを、AI技術に縁遠いわたしでさえ実感として感じ始めています。

 手塚治虫が1967年に発表した「火の鳥」という連載漫画があります。その中の「未来編」は本来、「火の鳥」シリーズの結末の話ですが、そのままシリーズの始まりの話である黎明編へ繋がるような展開となっていて、「火の鳥」の一つのテーマである「生命の永遠の輪廻」を、読者に伝えようとしているようです。

物語はこうです。「3404年、人類はマザーと呼ばれる超巨大コンピューターに独裁的に支配されていました。25世紀を頂点として文明も芸術も進歩が衰退期に入っています。他惑星に建設した植民地もすでに放棄してしまい、地球も地上はおろか生物が殆ど住めない世界となっていました。滅亡の瀬戸際にあった人類は『永遠の首都』と呼ばれる5つの地下巨大都市『レングード』『ピンキング』『ユーオーク』『ルマルエーズ』『ヤマト』に住んでいます。やがて些細なことから超巨大コンピューター同士でいさかいが起き、ヤマトとレングードの対立から核戦争が勃発します。その結果、残りの3都市までもがなぜか超水爆で爆発し、地球上に5つあった全ての地下都市が消滅し人類が滅亡してしまうのです」

 シンギュラリティーという言葉を聞いた時、わたしは若い頃に子どもたちと読んだ、この手塚治虫の火の鳥・未来篇を思い出しました。人口知能が人知を超えると言ってもチェスや将棋、囲碁でコンピューターがプロと対戦して勝利するというような単純なことではありません。人間が人工知能の支配下で生きて行かなくてはならない世界であり、そうなれば人類は滅亡してしまうかもしれないという事なのです。

 もっと昔には1936年に封切られたチャップリンの代表作「モダンタイムズ」という映画ありました。大きな工場で働くチャーリーは単純作業のために雇われている工員でしたが、仕事場はテレビモニターで監視され、休む暇もなく働かされているという設定です。ある日、チャーリーは労働者の食事時間を節約するために作られた自動給食マシーンの実験台にされ、そんな生活を続けるうちについにチャーリーは発狂して精神病院に入れられてしまいます。最後はアメリカ映画らしくハッピーエンドで終わるのですが、この映画は機械に人間が使われるという話でした。チャップリンの偉大さは、その映画を戦雲の立ち込め始めた1936年、日本では昭和11年に制作したという事です。

 「コロナ禍がわたしたちに何を教えようとしているか」という論議が始まりました。もちろん新型コロナウイルスと言えどもたかがウイルスです。わたしたちに何かを教えようというような親切心は持っているわけではないでしょう。この不条理極まりない見えない敵に遭遇して、何に気づき何を学ぶのかは、わたしたち自身の感性次第であり、人間の本質の問題でしょう。幸いにも、経済至上主義や生産効率万能主義について、これまでの流れを考え直す動きも出てきましたが、まだまだ世の主流というほどにはなっていません。

 部分的なシンギュラリティ―は既に起りつつあるのでしょうが、まだまだ未来学のレベルを超えてはいません。まして、人工知能に人類が支配されて滅亡に向かうなどというSFは次元の違う想像の域のレベルかも知れません。しかし、それが人工知能であれ生身の人間であれ、ひとりの独裁者に支配される国や世界の恐ろしさについて、大国と言われる国々で現に今起っている出来事を見せつけられると、シンギュラリティ―にならなくても人類が滅びの方向へ進みかねないと心配させられます。

 人間とは、ホモ・サピエンスの本質とは何であるか、サルの時代から受け継いできた闘争心や征服欲などもまだまだ、わたしたちは抱え込んで手放していませんが、一方で、サルからヒトへ進化する過程で身に付けた、家族や友人、郷土の仲間たちへの惻隠の情、未来を予測する想像力と、その予測に基づいて生活を改善しようとする創造力などがあります。今こそ、立ち止まり、来し方を振り返り、それによって行く先を見据えるよすがにするべきではないでしょうか。

 シンギュラリティ―が実現する世の中を、少なくともわたしは迎えたくありません。そのためにはわたしたちが何を思い出し、何を大切にしながら生きて行かなくてはならないか、じっくりと考えていこうと思うこの頃です。

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