2025参議院選挙ー

⑧環境問題と原発政策

 悲しい話をしなければならない。幸せの国と呼ばれているブータンのことである。標高3000メートルを超す高地で、ヤクを放牧しながらつつましやかに暮らしていた人々の小さな村を、ある夜、突然、雨も降らないのに大洪水が襲ったのだ。一瞬にして20人が命を落とし、水が引いたあとは草も生えない荒蕪の地になってしまった。それは氷河が運んできた土砂と氷塊にせき止められてできていたモレーン湖と呼ばれる堰止湖の堤体を形成したいた氷が、温暖化で解けたことによって決壊して起こした洪水である。

 わたしたち日本人も含めて先進国と言われる国々の化石燃料の使い放題によって生み出された温室効果ガスCO2が回りまわって地球規模の温暖化を引き起こし、ヒマラヤの片隅でつつましやかに暮らす人々の命を奪ったのだ。わたし達の野放図な暮らしが知らないところで知らない人々の命を奪ったことになるのだ。

 わたしがブラジルの海抜1600メートルのところにある養魚試験場で働いていた1970年代後半、わたしはすでにその海抜の地域での気温、水温の上昇が感じていた。今から思えば温暖化が始まっていたのだ。しかし、ちょうど同じ時期、米国の海洋大気庁(NOAA)の同名の気象観測衛星とブラジルのサンパウロ大学の海洋調査船が協力して南大西洋の水温変化の観測を始めていた。しかし、その時、海洋では何の変化もまだ起こっていなかったのだ。わたしの危惧は一時的な気象レベルの変動だと結論付けられてしまった。いまでも、わたしはそのことを忸怩たる思いとして心に刻んでいる。

 地球規模の環境問題というと、トランプのような確信犯はともかくとして、知識を有する人間でも「自分一人がやっても意味がない」「一国で解決できることではない」と言い、そこで思考停止してしまう。わたし自身、エアコンに頼り、不要のドライブに出、輸入肉を食べている。そのわたしの好意の回り廻った結果として、突然に命を失ったブータンの人のことが心のどこかに思い出されて、わたしをチクチクと苛む。今回の参議院選挙の論点の主題にはとうとう上がることがないままに終わろうとしているが、わたしにはそのことにもまた罪悪感を感じて仕方がない。

 ほんの少しで良いから温暖化に死の危険性を感じている人々のこと、ブータンの高地で今もなお氷河湖の決壊に怯える人々のこと、アフリカの大干ばつによって餓死の恐怖に晒されている人々のこと、太平洋の島々で国土そのものを失いそうになっている人々のことを思い出してほしい。何も原始の生活の戻ろうというつまりはない。これまでも家電の省エネ、マイカーのハイブリッドやEV化などなど、わたし達は少しずつではあるが、社会のルールを変え、システムを省エネ化することで、地球環境を守ろうとしてきた。

 個人の生活、身の回りを見直すことはもちろん重要ではあるが、「自堕落な暮らしを続けている身だから、自分には何も言えないしできない」という考えはしなくていい。個人レベルの集合体として世界はあるのだが、環境問題を考える場合、必要なのはルールを作り、それを厳密に守るところから、環境問題、特に地球温暖化対策は始まる。それがSDGs(持続的な目標)なのである。自分のことは棚に上げていいから、どうすれば地球温暖化をこれ以上進めないようにできるかを考えて欲しいものだ。

 一方、CO2を削減するためのクリーンエネルギーとして考えられている原子力発電だが、この被爆国である日本の原発=原子力の平和利用が、実は日本が被爆国であるからこそ始まったということを、もう一度思い出した上でこの国のエネルギー政策を見直さなくてはなるまい。それは米国の反共産主義戦略、つまり対ソヴィエト(当時)、対中国戦略において、米国は日本が自国に対して不信感や嫌悪感を持つことを恐れたことから始まったのだ。敗戦国日本がサンフランシスコ条約を経て、一応の独立国となった時、米国が恐れていたのは日本が「誰が原爆を日本に落としたか」ということを改めて思い出す事であった。そのことによって米国に対する嫌悪感、さらには敵愾心を抱くようになっては、ただでさえ地理的に近いソ連や中国の共産勢力に日本が走ってしまうかもしれないと危惧したのだ。元々、原爆のオッペンハイマーの懺悔を、広島・長崎への核攻撃の決断を下したトルーマン大統領は「女々しい奴」とののしったそうだが、それでも戦後すぐに悪魔的皆殺し兵器を使ったことで米国が人道的非難を浴びることを恐れて「核の平和利用」なる政治キャンペーンを開始する。1951年に米国は世界初の原子力エネルギーを使った発電を成功させ、1953年の国連総会においてアイゼンハワー大統領が「原子力による平和Atoms for Peace」と呼ばれる演説を行っていた。

 そこにさらに1954年3月アメリカの水爆実験のために第五福竜丸をはじめとする日本の遠洋漁船の被ばく事故が起こる。米国としては日本人の原子力に対する見方を原子爆弾や放射能から遠ざけることが、日本を米国の反共の先兵に位置付けるために必須の戦略となった。米国政府は世界的に原子力平和利用への注目が高まっていたことを、日本人の原子力アレルギーを取り除くために利用しようとし、1954年頃から日本政府への働き掛けを始めた。日本側では鹿島守之助、正力松太郎がこれに呼応して、国会内に「原子力の平和利用」キャンペーンを張り、法整備と予算確保を図る。やがて茨城県東海村に研究施設が出来、1957年には実験レベルで臨界点に達し、その10年後の1966年に商業発電が始めている。

 元々は米国による戦略定な政治キャンペーンを背景にしていたものだが、その後、鹿島や正力を引き継いだ中曽根康弘等の強い政治的な働きかけによって、日本各地で本格的な原発建設が始まっている。この間、米国からどんな働きかけや資金提供があったか、わたしには検証のしようもないが、今日の日本の原発依存体質どころか原発ありきのエネルギー施策が実は米国の思惑に乗っていたことだけは間違いない。そのうえ、さらに1973年に「第一次オイルショック」が発生したことから、国際的な情勢に影響されて不安定になりやすい石油資源依存体質のエネルギー政策からの脱却を志向して、原発開発のスピードはギアアップした。

 原発開発は世界的に原発の持つ宿命的な問題を置き去りにして推進されたが、1979年の米国のスリーマイル島原発事故、1986年、旧・ソビエト連邦(現・ウクライナ)のチェルノブイリで原発事故が起こる。そのため、世界的に原発に対する見方が厳しくなり、ドイツなどでは脱原発方針を今日まで堅持している。ドイツは2020年以降原発ゼロになっている。但し、そのドイツは電力を隣国フランスから購入しているが、そのフランスの電力は原発によって生み出されているのだから、「何をか言わんや」の感がしないでもないが。

 しかし、時間の経過とともに原発事故の記憶が薄れ、代わりに温室効果ガスの排出抑制の必要性が叫ばれるようになると、再び原発回帰の風潮となる。2011年の東日本大震災で福島第一原発のメルトダウン事故が起きると、原発に対する不信感が日本でもピークに達して、2050年までに原発ゼロにするという基本方針が国会で合意された。その後政権が自民党に戻ると合意は無視されて、現在では原発ゼロどころか、原発の新設や既存の原発の使用期限延長が平気で行われている。

 何度も言うが日本の原発は元々米国の反共プロパガンダから出発したものだ。なんでも米国の言いなりの自民党政権は、そのため東海村での商業発電開始当時から問題を先送りする形で今日に至っている。問題とは原子力開発の宿痾である放射能汚染の危険性という問題である。具体的には使用済み燃料や放射性廃棄物の処理問題であり、それが未だに解決することなく使用済み燃料も放射性廃棄物も増加の一途を辿っている。よく言われているようにトイレの無い豪華マンションに住んでいるというのが逃れられない現実なのである。

 わたし達は「前門の虎=温暖化」と「後門の狼=原発の使用済み燃料と放射性廃棄物」に挟まれているのが現実なのだ。わたし達の子や孫たちの平穏な暮らしを持続的に続けていくためには、その二つのバランスを考慮しながら、悪化の一途辿る地球温暖化にブレーキをかけるための国内政治と国際協力を図っていかなくてはならない。スエーデンの少女のように、わたし達自身がわたしたち自身の言葉として、環境施策に対してキチンと物申していかなくてはならない。そのためには、経済成長一辺倒の考え方を、そろそろ自分事として見直さなくては、近未来に取り返しのつかない事態が来ると、わたしは怖くてならない。

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