2025参議院選挙の課題

⑦物価と所得

 凶弾に倒れた安倍元首相は常々「物価を2%上昇させれば、日本の経済は良くなる。国民の生活も良くなる」と言っていた。前年同月比で物価が2%どころか3.5%も上昇した現在、果たして我々の生活は潤っただろうか。また彼は「大企業を豊かにすれば、中小・零細企業も労働者も豊かになる。それがトリクルダウンだ」とも言っていた。大企業が内部留保資金として総額600兆円もため込んでいる現在、トリクルダウンは起こっているだろうか。

 景気が良くなるとインフレになるのは仕方がない。逆にインフレーション下では金回りがよくなり経済は活性化するとも言われている。しかし、インフレになっても景気が良くならない状態はスタグフレーションと呼ばれ、それは要するに景気は少しも良くならないのに物価だけが諸々の要因で上昇することであり、我々の暮らしを最も苦しめる経済状態である。正に今の日本はその状態ではないだろうか。給料は上がらないが物価が上がれば、同じ時間働いて手にすることのできる生活に必要なものが減ることになる。ローンを組んで家を建てた人は返済にも窮することになるのである。

 どうして勤勉で有能で忠実な国民性の日本人が、世界経済の後塵を拝するようになったのか。ドルやユーロはもちろん、元やウオン、英ポンドから、果てはブラジルのレアルに対してまで円安である。インバウンドがなぜ日本に押し寄せているかは、つまるところ円安だからである。インバウンドの増加などと喜んでいる場合ではないのだ。日本で普通に稼げば、外国の何処に行っても安くものが買えると実感していたのが、今や昔の物語になってしまった。

 確かに経済は一筋縄ではいかない。それでも、ではなぜこの30年もの間、日本は世界から乗り残されたのか。それにもかかわらず、どうして大企業だけが600兆円もの余剰金を懐に入れているのか。30年前の「働き方改革」は何だったのか。結局「働き方改革」という名の働かせ改革」ではなかったのか。嘘とごまかしの安倍政権時代のゼロ金利政策とトリクルダウン施策がその原因の大部分を占めているのは明白であろう。それでもなお「政策も外交も自民党だ」と嘯く候補者や党幹部の厚顔に、冷や水を浴びせなくてはこの国は持たない。

 30年も道草を食い、眠っていたがウサギが、今、目を覚ましたからと言って直ぐに先行するカメたちに追いつくことは不可能だろう。ただでさえ高齢化と人口減少の難関を乗り越えなくてはならないのだから。もちろん、嘆いてばかりでは何も好転しない。とにかくまずは我々がパラダイム・シフトして、社会の仕組みをパラダイム・チェンジしなくてはならない。

 では何を換えなくてはならないか。物価と賃金の関係性から言えば、まずは最低給料を全国平均で1500円以上にすることだ。つまり時給100ドルである。「そんなことをしたら企業は持たない」「かえって失業者を増やしてしまう」企業側、資本家側からの一方的なその論理に負けて、いや騙されてきたからこそ、今の日本社会の矛盾と苦衷がある。賃金を上げずに利潤をため込み、外国に垂れ流し状態にしているとわたしは考えている。600兆円もの内部留保金を技術開発と人材育成に使い、本当の意味でトリクルダウンさせていれば30年の停滞はなかっただろうし、必要以上に外国に日本の富が流れていくこともなかった。不労所得者や外国資本に有利な税制を日本の庶民のためのものに変えることが、まずは必要なのだとわたしは思っている。その上で、我々自身の考え方や身の振り方を考えなくてはならないのだ。

 「ハンド・ツー・マウス」は「その日暮らし」と捉えられているため、誰もが敬遠する状態だった。それも少し視点を変えれば「働いて糧を得る」ということであり、実経済そのもののことである。働くこと自体の意義と喜びもそこにある。それが米国からのドルの垂れ流しによって世界中が金余り状態となり、一攫千金の不労所得者が爆発的に増加した。金持ちになること自体は「同慶の至り」と喜んでいればいいが、金が直接金を産むためのヘッジファンドのような金融マジックを生み出して、我々にとっての生命の糧である食料や石油さえ博打の対象にして日露以上に価格上昇を招いてしまった。さらには仮想通貨などという化け物を生み出しパラレルワールドまで現出させている。それが実経済を圧迫し破壊して、給料の上昇を伴わない物価の上昇を招き、我々の首を絞めているのだとわたしは考えている。今こそ堂々と「ハンド・ツー・マウス」の暮らしを価値あるものにする。そのための労働政策と税制改革を断行すべきであり、最低賃金1500円以上ということを掲げて、そのスタートの合図にしなければならい。

 さて、物価問題と言えば、今、米価について言及することは外せない。しかし、わたしははっきり言ってアホらしくて真剣に考えることが出来ないでいる。元々、米価を市場経済原則に委ねるとしたのは、政府と自民党だが、それを大方の農家も国民も歓迎したんではなかったか。わたしも米価は市場経済原則に委ねるべきと考える。今回の米価高騰騒ぎも、確かに昨年の不作の影響はあったにせよ、やはりどこかで買い占め、コメ隠し、売り惜しみがあったからこそ起こった騒ぎである。オイルショックの時にトイレットペーパーで同じことが起こったことを、大方の国民は忘れているだろうが、わたしは今回の米騒動も、あの時の構造、あの時の国民心理と変わらないと思っている。小泉ジュニアは本来なら食用にならない古々古古米まで売りさばいたのだから、それはそれでさすがにペテン師ジュニアだと感心するだけである。しかし、事の本質は何も変わっていないのだ。冷静になって騙されないことは何も特殊詐欺対策だけではない。

 最も日本のコメは西洋の小麦とは全く違う主食以上の文化的歴史的背景があり、一朝一旦に流通システムを改革することは困難である。まずは自民党の農政族の解体、ノーキョーの支配体制の解体をどうやって進めるか、毒を以て毒を制するということであれば小泉に働いもらうことも面白い。父親の郵政民営化で日本の郵便事業は良くも悪くも大きく変わったのだから。

 とはいえまともな市場経済において、買い占めや売り惜しみが許されていいはずはない。制度を構築するとしたらその不心得者を淘汰できるような監視体制がまず必要であろう。元々、日本のコメは一年に1度しか収穫できないということを忘れてはならない。それを次の収穫期まで食つなぐのだから、供給側としても期間のはじめにはコメの在庫が最大となる。当然それが価格に反映する。期間の終わりごろには、在庫残量と市場デマンドをにらみながら出荷調整をして行くわけであるから、やはり当然価格に大きく影響を与える。さらに豊凶による生産量の変動や好不況による消費マインドの変化も加わるのだから、何らかの公的調整制度が必要だと、ノーキョーはそれを大義名分にしてきた。そのために食管法があったのだが、今更、米穀通帳をもってコメを買いに行くという時代ではないことを前提に、しっかりとこの国における食糧安全保障を考えなくてはならないのではないだろうか。

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