②情緒的政治からの脱却
いよいよ政治の混乱期に突入してしまったようだ。自民党の醜い石破下ろしにも呆れるが、野党の混乱ぶりも情けない。
関税協議の合意事項の詳細が見えてこないというので、与野党ともに批判の大合唱だ。確かに、米国側はシングルタームで一目でわかるファクトシート(と言ってもマッドマンのXへの投稿だが)が出ているのに、日本側のそれは数頁に及ぶ弁解がましい説明文章である。全体像として米国側の国益は理解できるが、ウインウインのパートナーであるはずの日本側の利益については曖昧模糊として分かりにくい。しかし、合意文章を作らない(作れない)のは、双方が自国内向けに解釈してアッピールできるようにするためであり、マッドマンをなだめて大人しくさせるための側近たちの知恵でもあろう。
それでも確かに日本側の輸出企業には不満は残るだろう。第一、双方ウインウインの決着と言うが、合意した15%でさえトランプ2.0前の2.5%と比較すれば実に6倍になったのだ。今度もまた日本は必死になって経費削減、人件費削減をして輸出する側が関税分を吸収しようとするのだろうが、それで日本の貿易立国するための国際競争力は益々向上して、特に米国との産業競争力もトランプの思惑とは真逆の結果をもたらすかもしれない。今でさえ自国の自動車が斜陽化していることの最大の原因が、トランプに代表される大量生産、大量消費礼賛式の産業構造にあるのだから。
しかし、日本の企業努力だけでは強者の論理であるグローバリズムそのもののパラダイムチェンジは先送りとなる。日本の外交が負うべきことは、目先の貿易収支の帳尻合わせではない。マッドマンの登場で彼の思惑とは裏腹に、アメリカン・ドリーム式の国際経済環境は本家の米国から乖離し始めている。そのことを視野に入れた新国際秩序を自ら構築する意思と具体的改革案を示す時である。企業の涙ぐましい努力は努力として、それに依存するばかりでは、日本の国際的なプレゼンスはどんどん薄れて、単なる極東の美しい異文化の世界という位置づけだけになりかねない。
もっとも、もともとこの国の政治に論理的という言葉は無縁だった。本来なら明治維新で一番先に否定するべきだった江戸時代の「情緒による政策決定」と、「為政者の責任の所在を曖昧模糊にする体質」を、令和の現代に至るまで引きずっていること自体、諸外国から見れば、まるで政治のジュラシック・パークである。
政治は政策決定の積み重ねと、それに対する大衆への政治家自身のアカウンタビリティーによるコンセンサス形成の努力で進めていくべきものであるとわたしは考えている。政策決定はその過程において、合理性(科学的根拠に基づく論議)、透明性(決定までの過程の公開)、民主制(複数の選択肢を平等に提案でき、互いに科学的根拠に基づいて評価し合うことができる)の3要素を欠かすことはできないはずである。それがこの国の政策決定においては、公然と無視されてきたし、これまでは有権者もそれに疑問も不信感も持たなかった。
米国の後ろ盾を背景に55年体制が構築されて以降、日本の政策決定は合理的な論議の末になされることがない。常に政権与党側の政治的利益、さらにはもっと直接的な利益のためになされてきた。審議会とか検討委員会、専門家会議などを設置しても、結論ありき、政治日程に合わせた期限ありきの茶番劇で、実は事務局が作った報告書に従うだけの、やらせとインチキばかりだ。しかも、合理的な根拠に欠ける政策決定でも、それがひとたびなされると喩えそれが衆人の目に間違いであると知られてしまっても、「政策変更するにも費用が掛かる」などという屁理屈を持ち出して、政策に基づく事業を継続してきた。
今回の参議院選挙では、総選挙、都知事選に続いて、ようやくこれまでの日本式政治に有権者が疑問を持ち始めた結果が現れたこと自体はいいのだが、果たして正確なファクトチェックに基づく評価の上での判断がなされたのだろうか。合理的な思考の結論から導き出された投票行動、政治運動というのならいいのだが、政治に対する精神風土そのものは何も変わらず、単に情緒的政治を引きずって雰囲気やバエで動いているのが現状ではないだろうか。
世界中が新しい国際秩序を模索しながら混迷している時に、国内の混乱にはどうしても二つの大戦の間の世界的混迷と国内の混乱を、わたしはつい思い出して不安になるばかりである。