ユダヤ人とディアスボラについて

2.香港のディアスボラ

 ユダヤ人について調べている最中に、香港の新界の大埔地区で高層マンション火災が発生した。想像を絶するような甚大な人的被害となった。火災そのものが鎮火すると、原因究明と責任者の追及を望む住民とそれを反政府活動と決めつけて押さえ込もうとする官憲の、権威主義国家お定まりの泥試合が始まった。

 今回の悲劇を見るに付け、わたしはつい「逃港者」の悲劇をユダヤ人の「ディアスボラ」に重ねて思いを馳せている。「ディアスボラ」はギリシア語で「追い払われた者」を意味し、以前はローマ帝国によって故国を追われて現在のパレスチナ以外の地に住むユダヤ人を指す言葉として知られていたが、今では移民や難民を含む幅広い離散民を指す言葉である。

 ディアスボラとしての「逃港者」を語る時、まず香港の地区について知っておかなくてはならない。香港は1842年の南京条約で清国からイギリスに割譲された香港島、1860年の北京条約で割譲された九龍地区(香港島の対岸地区)と、1898年に新たにイギリスに99年間の期限で租借された新界(九龍地区を除く半島や周辺の島)地域から成り立っており、今回大火災となったマンション群はその新界地域の大埔(だいほ)区に建っている。

 大埔区は伝統的な漁村に付随する市場町(墟市)発展した街だが、香港の18の行政区画の中でも、最も新しく発展した地区になる。面積は離島区を除くと香港18区で最も大きく、人口密度は香港で3番目に低い。緑に覆われた公園などとショッピングセンターがある、典型的なベッドタウンである。

 1950年代、中華民国との内戦に勝利した現在の中国政府が行った「大躍進政策」によって数千万人の餓死者が発生した。さらに1960年代に入って始まった「文化大革命」でも数千万人の餓死者や政府の弾圧による犠牲者が出た。「逃港者」とはその時代に発生した難民で、多くが命からがら香港へ逃亡(中国から見れば)したとしてそう呼ばれていた。

 1950年代には香港島と九龍地区併せて60万人程度の人口だったところに、毎年数万人の難民(逃港者)が中国本土から押し寄せ、その類型は100万人を超えている。

 香港から見れば津波のような難民流入となったが反面、逃港者たちが60年代、70年代の香港の経済成長の原動力になった。逃港者の多くは香港島には住まずに、始め対岸の九龍地区に集中したため、九龍地区は一時スラム化して、清朝の城塞であった九龍寨城などは、わたしたちの世代が子どもの頃は魔窟と呼ばれて怖れられていた。その後も香港の人口は増え続けたため新界地域に市街地が広がって行った。九龍の魔窟・魔界と呼ばれたスラム街も1994年に取り壊され、現在では九龍寨城公園として香港市民の憩いの地になっている。

 今回、火災が起こったマンションの住人の4割は1960年以前に生まれた人々だ。自身や親の世代に着の身着のままで香港に逃げ、逃港者としての辛酸をなめながら香港の今日の繁栄を支えた人々も多くいることだろう。

 1997年7月1日をもって、香港島、九龍地区、新界地域は全てイギリスから中華人民共和国へ返還された。その後の香港の自治権要求・民主化運動の混乱は、まだわたし達の記憶に残っている。中国本土から飢餓と政治的弾圧から逃れるために、難民となって香港島とその周辺に辿りついた人々が、ようやく手に入れた楽園の繁栄の象徴だった高層マンションが大火災となり、多くの犠牲者を出してしまった。背景も時代も大きく違うとはいえ、わたしにはどうしてもその香港の人々と、ユダヤ人ディアスボラが重なって見えてしまうのだ。

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