ユダヤ人とディアスボラについてー3

3.一神教

ユ ダヤ教が一神教の宗教であることは周知のことである。しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が同根の宗教であり、崇める対象の唯一神が名前こそヤハウエ、デウス、アッラーと違うものの、同じ神であるということは案外知られていないのではないだろうか。ユダヤ人はイスラエルにいる時はともかく、米国をはじめ世界中に住み暮らしている所謂ディアスボラたちは、ユダヤ人のコミュニティ(ゲットー)に住むか、そうでない場合は内なるゲットーを抱えて生きていると言われている。わたし達はユダヤ人とユダヤ教徒とおは同義であると考えいる。世界中どこにいようとのユダヤ教を信奉していればユダヤ人であり、逆に言えばユダヤ人であればユダヤ教を信奉しているということにもなる。

 同じ神を信奉しながら、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は互いに他の宗教に対して非寛容であり、時として血なまぐさい争いを引き起こしてきた。第二次世界大戦中にキリスト教徒の国であるドイツで起こったユダヤ人に対するホロコーストは人類の記憶に刻まれているが、紀元前のオリエントにおけるユダヤ人と古代ローマ帝国の確執もまた歴史に刻まれている。ユダヤ教の非寛容はキリスト教、イスラム教徒比べると突出している。そのユダヤ人の非寛容性の根源を探るために、改めて一神教について考えてみたい。

 ユダヤ教は少なくとも紀元前10世紀には発祥していた。キリスト教は紀元元年前後、イスラム教は6世紀に発祥している。キリスト教でもユダヤ教の経典のひとつである旧約聖書は重んじられているし、イスラム教でさえ旧約聖書は否定されていないどころか、モーゼもキリストも聖人として扱われている。キリスト教もイスラム教もユダヤ教から派生してきたことは間違いのないということになる。ではその始まりのユダヤ教はどこから来たのか。

 古代ローマ帝国において紀元4世紀初頭、コンスタンチヌス帝によってキリスト教を公認し、さらに弾圧と容認の紆余曲折を繰り返した末、4世紀末にテオドシス帝がそれまでの多神教を捨てキリスト教を国教に定めた。それ以降、地中海とアルプス以北の国々においては、一神教こそ宗教の最終形であり、最高の進化形だという考えが定着してしまったようだ。

 人間がサルから進化した過程において、どの段階で信仰する精神構造を体得し、宗教を形作ったのだろうか。文字のない遥かな太古の歴史はロマンと想像の域を超えないが、それでもまずは人知の及ばない事象・現象にアミニズム的な解釈を付与し、そこから信仰に発展していったであろうことは、素人のわたしでも容易に理解できる。確かに宗教史から言えば、人類が初めに形而上学的な意志の存在を意識し始めた時はアミニズムであったろう。つまり雨、風、太陽、月、星はもちろん、草木土石、その集合体である森や山、川や海など、全ての生きとし生けるものの全てに精霊の存在を認識したことだろう。

 やがてその精霊と意思の交換ができるシャーマンが出現し、そのシャーマンが専従化するようになる。さらにシャーマニズムが発展し体系化していくことで、シャーマンの威光イコール権力となっていく。武力による覇者もまた宗教的な威光を身に纏うためにシャーマンたちを重用して行ったことから、単なるおまじないや厄逃れの風習が系統立てられ、権威を形成して宗教としての形を見せるようになる。わたしが興味を持つのは、一神教が砂漠地帯、乾燥地帯で生まれているということだ。豊穣の地の環境下にあっては信仰の対象は多岐に渡り多神教化するのに対して、砂漠地帯やその周辺では過酷な自然環境自体に恵みや恩恵を感じることは少なく、太陽などに神の威光を感じていたと思われる。

 世界最初の一神教だとされているゾロアスター教(拝火教)も、乾燥地帯から生まれている。厳密にはゾロアスター教では絶対善の神と絶対悪の神がおり、世界はその支配下にあるとされているので、一神教ではなく二神教だとも言える。そのゾロアスター教の影響を地理的にも民族的にも、直接的に最も強く受けているのがユダヤ教であるとする歴史学者や人類史学者は多い。そのユダヤ教からキリスト教、やや遅れてイスラム教が派生している。それらの一神教では神は唯一でなくてはならないのだが、世界は善悪の二元によって支配されているというゾロアスター教の考え方を引き継いでいる。ゾロアスター教とこれら3つの一神教の違いは、ゾロアスター教では善悪二神であるの対して、キリスト教やイスラム教では悪の方を邪神、悪魔などと呼び、その邪神や悪魔もまた唯一全能の神によって作られたものだとしている。善悪二元論であることには変わりがない。

 一神教以外の宗教で言えば、ギリシャであろうとローマであろうと、ケルトや北欧、そして日本の神話に登場する神々はなんと人間臭いのであろう。恋もすれば浮気もするし、善も悪も混然としている。イザヤ・ペンダサン(山本七平)は「日本人には一神教は馴染みにくい。なぜなら日本は日本教の国だから」と喝破した。その日本教とは何かといえばキリスト教が入る前の古代ローマにおけるローマ人の宗教と同じである。

 日本人として生まれたものであっても、キリスト教徒やイスラム教徒になった人々もいるし、ユダヤ教徒になった人さえいるそうだ。しかし、日本人の圧倒的多数はイザヤ・ペンダサンの言う日本教徒である。日本教徒は新年には神社に初詣に行き、結婚式は教会で挙げ、死んだときは仏式の戒名をつけてもらうことに、何の疑問もためらいも持たない。日本人は外国に行ってもその国の教会やモスクを尊重するし、シナゴーグにはユダヤ教徒でないため中には入れないとしても、シナゴーグを神聖なものとして尊重する。従ってわたし達日本教徒には、他宗教に非寛容な特にユダヤ教もユダヤ人も理解しがたい。

 現在のイスラエルのガザに対する仕打ちもまた、我々には到底、理解しがたい。しかし、理解しがたいのは日本教徒だからというだけでもないようだ。現に国際社会のイスラエルに対する反発は嵩じる一方だし、当のイスラエル人の中にさえネタニエフ政権のやり方に反発する人々もいる。確かにユダヤ教は非寛容であり、我々には理解できないことも多いが、現在のガザでの悲劇の根源をユダヤ教や一神教に求めることは、むしろ政治や安全保障の現実について見誤ることになるのではないだろうか。

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