レオン・マシューの管見耄言

ユダヤ人とディアスポラ

7.ディアスポラー離散と流亡民たちー1

 今日、わたし達はディアスボラと言えばユダヤ人の代名詞のように考えているが、実はディアスボラは紀元前から地中海世界に移住したギリシャ人が些か自嘲気味に自称したことから来ている。ディアスポラはギリシア語で風に飛ばされていくタンポポの種のようにまき散らされるという意味の言葉に由来している。紀元前5世紀頃には既にギリシャ人は、西はポルトガルから東はキプロス、パレスチナまで地中海世界に広く移住してコロニーを形成しており、それらの移住ギリシャ人を自称してディアスポラと呼んでいたのだ。

 その後、強大化した古代ローマ帝国に何度も反乱を起こし、ついにはローマに完膚なきまでに敗北して故国、故地を追われたことか、ユダヤ人もまたディアスポラと呼ばれるようになったのだが、実はユダヤ人はそれまでも既に移住の先駆者であるギリシャ人と競合しながら地中海の全域にコロニーを形成して住んでいた。当時、ユダヤ人の最大のコミュニティーは実はエジプトのアレキサンドリアにあって、そこで度々ギリシャ人コミュニティーとの間で衝突を繰り返していたくらいである。ユダヤ人がディアスポラと呼ばれるようになったのは紀元1~2世紀の第2次ユダヤ戦争で、ローマ帝国軍に完膚なきまでに敗北した時からではあるが、それ以前に既に地中海世界全域にユダヤ人コロニーは形成されていたのだ。ただ、それまでと違うのは単なる居住地ではなく、ユダヤ人のコロニーだけはゲットーと呼ばれるようになったことだろう。このゲットーという名称にもナチスドイツのホロコーストのための強制収容所をさすだけでなく、ユダヤ人が迫害や差別を受けることを防ぐために自主的に作った閉鎖的なコロニーにも使われる。

 ところで、ギリシャ人と言えばギリシャ人が移り住んだ場所の中にはエジプトのアレキサンドリアのほかにも、例えばフェニキアの各海岸都市もある。フェニキアという言葉自体が、フェニキア人の自称ではなく、ギリシャ人がそう呼んでいたことから定着した呼称だ。そのフェニキア人もまた、ローマとの3次にわたる戦役を繰り広げたことで有名なカルタゴをはじめとして地中海世界に拡散していたことでは、ギリシャ人より先輩格のディアスポラだと言える。そのフェニキア人がディアスポラと化したのは紀元前8世紀頃で、アッシリア帝国からの圧迫と侵略が契機だった。ディアスポラを考える時、フェニキア人の歴史もまた重要な要素の一つだろう。

 ギリシャ人のディアスポラの最盛期は紀元前8~5世紀頃だが、その時のギリシャは内戦とペルシャ戦争に明け暮れていた。アテネとスパルタの抗争など都市国家同士の勢力争いが続いていた時、敗れた側の都市国家から逃げ出した多くのギリシャ人がいたことは容易に想像できる。その後のペルシャからの侵攻を受けて起きたペルシャ戦争では、さらにその難民の数、奴隷として連れ去られたギリシャ人の数は増えていた。

 フェニキア人であれ、ギリシャ人であれ、ユダヤ人であれ古代に地中海全域に移住し、生活することが出来たのは、彼らがどこへ行っても土着の民族よりも優秀で勤勉であったからである。フェニキア人がアルファベット文字を考案していたことは有名だ。さらに海洋民族として造船や操船の技術に長けていたことも知られている。地中海世界にブドウの栽培技術とワインの醸造技術を伝えたのもフェニキア人である。

ギリシャ人が今日の西洋文化の起源とも言える文化と学術の民であったことも周知のことだ。ユダヤ人は非常に厳格な一神教とであるがゆえに、そのコミュニティーは閉鎖的ではあったが、彼らが計算術、特に建築の基礎となる計算術にたけていたことは、聖書はもちろんエジプトのカリグラフの記述にも見られることである。

 オリエントと言う呼称には古代に花咲いた文明・文化への西欧人の憧れの潜在意識がにじんでいる。地中海世界の先進地域が古代ではオリエント、現代ではオシデント(英・仏・独・伊etc.)と真逆になっていることも興味深い。

 ユダヤ人に限らずディアスポラの発生原因が他国からの圧迫や自国内の争いなどの戦乱であり、またディアスポラが生き残っていったのはそれらの民族が、技術や知識の上で秀でた何かを有していたからである。

 繰り返すが、ディアスポラはユダヤ人だけではなく、それ以前からフェニキア人、ギリシャ人もそうだった。それなのにどうしてユダヤ人だけがことあるごとに迫害を受け、ついにはヒトラーとナチ党によるホロコーストにまで行きついたのか。そのことを考えるために、ユダヤ人以降に発生したディアスポラについてもこれから調べていくつもりである。

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