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管見耄言ー20
日米関税交渉は今のところ日本にとって都合よく、スローペースで進んでいるように見える。トランプのパフォーマンスの興味はデトロイトからハリウッドに移ったようだ。石破首相には、米国債の束を積み上げて「財政赤字と借金に喘ぐ日本としては、これ以上財政出動するためには我が国の唯一の貯金である米国債に手をつけざるを得ない」と「独り言」を漏らしながら、更に時間稼ぎをしてもらいたいものだ。
カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言
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管見耄言-19
ベトナム戦争終結の日に思う
4月30日はベトナム戦争が米国の撤退によって集結して40年目の節目の日である。そこで思い起こすのは誰が米国をしてベトナム戦争というの泥沼に引き摺り込んだかということだ。それは意外にもジョン・F・ケネディである。そこからさらに思いが米国を第二次世界大戦に参戦させたフランクリン・ルーズベルトに向かう。これら20世紀の米国にとって悪夢ともいうべき戦争への加担を決断したのが、リベラルであるはずの民主党政権だということをわたしたちは忘れてはなるまい。
米国人の単純でお節介な親切心は、これまでも世界の知るところである。その一方で自分たちの価値観をそれが正義だとしての押し付けと、気に入らなければすぐに腰の拳銃に物言わせてきたという国民性が、お節介な親切にもかかわらず支援を受けてきた途上国からは迷惑がられ嫌われている原因でもあった。
わたしは長い間国際協力の現場にいて、途上国の人々の米国人嫌いについて目の当たりにしてきた。その意外とも言える実態を垣間見るたびに、日本の国際協力はその轍を踏むなと声を上げてきた。
トランプの登場でそのことに拍車がかかっていることに、流石の単細胞たちもようやく身に染みて感じ始めているようだ。大学でのエリートで固められたホワイトハウスは、腹を減らしている自分たちを顧みてくれなかったと、こぶしを振り上げていたトランプの岩盤支持層も、自分の腹がさらに減り始めていることに気が付いて、ようやくトランプを喝采することをやめたようだ。
慌てているのはもちろんトランプの方だろう。自動車部品への関税を見直すなどと言い出した。米国ほど産業構造が空洞化している国で、突然、輸入に制限をかければ何が起こるか、経済の専門家でなくても容易に想像がつく。世界最大の国の最高責任者の知能が如何なるものかを自ら露呈した格好だ。
しかし、事はトランプひとりの問題でも、取り巻きのキツネたちのせいでもない。今起こっているのが米国の国としての現実であり真の姿なのだ。とはいえトランプの岩盤支持者たちに象徴される米国の病巣が露わになりつつあることを、わたしはむしろ歓迎している。
パクスローマを誇った古代ローマ帝国は外敵からの侵略によって衰弱し終焉したわけではない。能力のない皇帝たちにその責任の一端はあるとしても、その無能に近い皇帝たちが生まれた背景には、ローマが持つ深刻な社会問題があった。皇帝が皇帝を守るべき親衛隊によって暗殺されるような事態が繰り返されるということは、国そのものがガバナンスを失っているということの証左であり、死病に冒されているということだ。
どんな社会システムも、いずれは老朽化し、内部から腐敗していく。そしてやがて老木が少しの風に吹かれても倒れるように滅んでいく。世界四大文明などというが、そのどの文明も今日まで続いたものはない。全て遺跡や遺物になってしまった。ローマの場合、パクスロマーナ終焉後、ヨーロッパは暗黒の時代に突入し、地中海は混乱と騒乱の舞台となっていった。パクスアメリカーナ終焉後の世界をどのように迎えるか、そろそろ真剣に考える時が来ているのではないだろうか。
わたしはこれまでも常々、このままでは米国という生命体としての地球に巣食う癌が巨大化して地球そのものを破壊してしまうと言ってきた。所謂、先進国と呼ばれるG7の国々が米国を除いて、全て人口減少・高齢化が社会問題化する中、米国だけが人口を増やし、しかも生産年齢人口比率も増加し続けてきた。癌細胞は1度発生してしまうとその活力を失うことなく成長を続け、やがて本体を破壊してしまう、本体である全体を殺して、そこでようやくその癌細胞も滅ぶ。成長を続ける米国はその意味で地球という生命体を脅かす癌細胞であるのだ。その意味で米国の成長が止まるということは喜ばしいことではある。
しかしローマ亡き後の地中海世界の混乱を考えると、米国の衰退のの後に訪れる我々の未来に、大きな不安を覚えるのはわたしひとりだろうか。
カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言
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管見耄言ー18
中国のパンダ外交の行方
中国のパンダ大使の活動が活発化している。現在、地球上に2621頭のパンダが確認されている。内、野生のパンダは1864頭、もちろん中国本土もごく限られた地域にしか生息していない。飼育下にあるパンダの数は中国に700頭、残りわずか57頭が世界17カ国で飼育されているという訳だ。
中国以外の国が自国で生きたパンダを見るためには3つの条件がある。1.何より中国の指導部と仲が良くなくてはならない。2.次にレンタル料を年間95万ドル払わなくてはならない。3.パンダ大使館(飼育のための施設)の建設費用は派遣された側が負うことになる。餌の確保も特に欧米やロシアには竹が自生していないため、パンダ大使館への食料調達の費用は相当に嵩むことになる。
中国のパンダ外交は近年、一帯一路の政策と共に新興国にも広がりを見せ始めている。シンガポール、マレーシア、インドネシアから中東のカタールにもパンダ大使は派遣されている。その一方で、パンダ大使がペルソナ・ノングラータになってレンタル契約の切れる前に返還となった国もある。カナダ、英国に続いて昨年はフィンランドも契約期間を8年残して返還した。フィンランドの場合、飼育者建設にかかった費用は約800万ユーロ、年間のレンタル料95万ユーロとい、飼育費が150万ユーロもかかっていたそうだ。そりゃそうだろう。餌の竹は全てオランダから空輸していたのだから。
パンダ外交は1941年の蒋介石による米国ニューヨークへの提供に始まる。日中戦争への米国のコミットを期待してのことだったが効果は絶大だったようだ。
しかし今、米中間の雲行きを反映して、ワシントンとメンフィスのパンダ大使は本国に召還され、パンダ大使館は閉鎖されたままだった。ところが昨年、カリフォルニア州サンディエゴにひとつがいが派遣され、カルフォルニアには新たにパンダ大使館が開設されている。現在、相互間前をめぐる米中チキンレースが世界中から迷惑がられているが、パンダ外交は別のようだ。さすがに中国は強かである。
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管見耄言ー17.
デトロイト市立美術館のジャパンギャラリー
管見耄言-17.
赤澤経済再生担当大臣が帰国した。彼にはトランプに会う前に行ってもらいたいところがあったのだが、今後、日米関税交渉に際に渡米する日本の特使に行ってもらいたいところでもある。
2013年のことだが、その年デトロイト市が180億ドルの負債を抱えて財政破綻した。当然ながら、市立のデトロイト美術館(DIA)は学芸員を含めたスッタフの給料も払えなくなった。それどころか市議会では所蔵の美術品を売って、財政再建の一助にするべきという論議さえされる始末だった。それを救う一助となったのが、日本の自動車産業界だったということはあまり知られていない。
デトロイトは自動車産業の聖地であるが、財政破綻は自動車産業が国際間競争に負けたからではなかった。自動車産業を支えるための労働者として黒人を中心として人口が急増し、ピーク時には185万人にまで達した。そのことに嫌気を刺した中間層を中心に近郊の都市への転出が急増し、それに追随する形でビッグスリーは自動車工場を移転させていったのだ。
さらに黒人労働者差別への反発からの暴動などで治安が悪化し、人と工場の転出にさらに拍車がかかり、人口は財政破綻前65万人にまで落ち込んで、荒廃の一途をたどっていたのだ。その間、市当局は治安対策は州政府任せだったし、市への新たな産業誘致や地場産業育成策をとっていなかった。
流石に所蔵の美術品を売って財政再建に充てるという話は、多くの良識ある市民の反対によって断ち切れとなったが、そこには日本の企業の支援があった。トヨタの現地会社が100万ドルの支援を表明したことに続き、デトロイト日本商工会所属の日本企業21社が、最終的に総額320万ドルを超える額を集めて美術館に寄付し、その75%を人件費など直接美術館経営支援に、残りの25%は日本人の絵画などの美術工芸品の収集に充てられることになった。お陰でスタッフは解雇されなくて済んだばかりか、老朽化した設備の更新も進めることができた。財政破綻の前には日本から来た収蔵品が数年しかなかったが、寄付金や作品寄贈で2017年にはジャパン・ギャラリーを開館するまで、コレクションを充実させることが出来た。
程度の低いリーダーはとかく外に敵を作って、その敵の存在をプロパガンダに利用しようとする。トランプはデトロイトがラストベルトの象徴となったのは、日本のアンフェアな対応があると言い募っている。だからこそ、デトロイト美術館にまつわるこの話は、日米共にもっと周知されてもいいだろうし、少なくとも日本から日米関税交渉に出向く使者たちは、ワシントンに入る前にデトロイト日本商工会のメンバーに案内してもらって、日米のメディアを引き連れて、デトロイト美術館のジャパン・ギャラリーを訪問してもらいたいものだ。
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管見耄言ー16.
「急いては事を仕損じる」
今日、赤澤経済経済再生担当大臣が渡米した。しかし、とにかく今は首相の「急いては事を仕損じる」を忘れないことだ。何も慌てることではないし、首相の言う通り、慌てると事を仕損じるだけであろう。赤澤大臣は「日々刻々、日本の企業の利益が失われている」と言っているが、これまで「腹が一杯でも泣く赤ん坊」のような日本の大企業は、こんな時のために官民上げての公然たる脱税ともいうべき過剰な留保資金をため込んできたはずだ。
2023年に総額600兆円を突破した大企業の留保資金は、中小企業の経営者の貯金とは全く性質の違うものだ。貯金ではなく、むしろ所得隠しともいうべきものだと、わたしは常々言ってきた。国の借金の約半分もの所得を公然と隠してきた大企業は今こそ、その資金でマッドマンの乱調経済の嵐が過ぎるまで、じっと我慢して乗り切ればすむことだ。どうせ、その金を傘下の関連企業救済に向けて使おうなんて殊勝な考えはないだろうが、そもそもが内部留保などというのは、わたしたちがトランプ登場を好機にして考えなければならない日本の闇の一つである。単に大企業が肥大化するだけでなく、放っておけばその太った豚を狙う餓狼の如き国際資本にどんどん株を買われてしまう。国内で借金を回しているうちはモラトリアムもデフォルトも心配しなくて済むが、借用書(国債)を所有する大企業が外国資本の傘下に入るようなことがあれば、その借用書は国外のものとなる。
日本の借金は今のところ、その半分を日銀など政府系金融機関が引き受けている。が、残りの国債は大企業も留保資金の一部として保有している。それを外国資本が狙うということになれば、繰り返すが日本の借用証書が回り回って外国企業の手に落ちてしまうのだ。それが既に起こっているのかも知れないが。
戦後の日本は復興から好景気、高度経済成長と続けてきた20世紀だったが、今世紀に入った途端に低迷して、世界に置いていかれそうになっている。トランプ騒ぎに動転して目を奪われることなく、わたし達は純粋に自分たちのための経済システムを現出させるために、貿易、国際金融、外交、防衛を見直していかなくてはなるまい。安全保障というのは軍備の拡張だけで手に入れることが出来るものではないということを、この際、わたし達皆んなが肝に銘じなくてはならないのだ。
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レオン・マシューの管見耄言ー15
トランプの不満を日米安保体制見直しの好機にしようー1
トランプが日米安保条約に不満を漏らしていることを日本政府が不安視しているという。大方のメディアの見方も、思いやり予算の増額を要求されるのではないかとの警戒感ばかりが目立っている。
米国の大統領が安保条約に不満を持ったことは、大いに結構。遅まきながらとはいえ今こそ、在日米軍が誰のために何のためにあるのかを、日米両政府と両国民が考える好機だろう。むしろトランプの意向を歓迎して、この機会に日本国民は安保条約と日米地位協定が如何に不平等で、なおかつ在日米軍基地が日本にとって如何に危険極まりないものかを知って、少なくとも不平等条約の破棄もしくは改正の声を上げていかなくてはなるまい。
もともと安保条約は敗戦後連合国の占領下にあった日本の独立を前に、朝鮮半島の情勢を睨みながら米国とその取り巻き国が、日本における軍事上の権益を守るために交わされた条約であり、日米安全保障ではなく、「米国権益保障条約」ともいうべきあからさまな不平等条約から出発している。その安保条約を1960年に岸内閣が、本質を何も変えないまま継続を断行した後は、米国はなし崩し的に日本を戦争のできる国に向かわせてしまった。
トランプが「米国は日本を守る義務があるのに、日本には米国を守る義務はないじゃないか」と言うが、安保条約はもともと「日本に二度と軍事力を持たせてはならない。そのために米国が日本国内に軍隊を置いて、きちんと見張ってやる」という趣旨だった。それを日本政府は日本国内向けに「米軍基地を日本国内に置くことで米国が日本を守ってくる」という説目に終始してきた。しかも、両国はそれぞれの立場から表向きはそう言いながら、米国の本音は、米本土からは離れている極東(当時は朝鮮半島)における軍事プレゼンスを手放さない事にあった。
日本の敗戦後、朝鮮戦争、東西冷戦、ベトナム戦争での北爆、数次に渡る中東での戦乱、今世紀に入ってからの同時多発テロなどなど時代を経るごとに、米国は日本を戦争に引き摺り込んできた。湾岸戦争では「ショウ・ザ・フラッグ」、イラク侵攻では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と声を荒げて、日本政府を脅し、ついには「思いやり予算」なるみかじめ料まで掠め取っているのだ。日本政府はその都度、憲法の政府解釈で違憲論争を乗り切ってきた。しかし、少なくとも沖縄をはじめ基地周辺の日本国民は塗炭の苦しみと屈辱感を感じながら生きてきた事を、基地のない地域の日本人ももう少し我が事として考えるべきだろう。自衛隊もいつのまにか自他共に陸海空軍と認め、そrを公然と口にするようになっている。憲法改正論者はそれを追認して、日本に公然と軍隊を置けるようにしようとしているのだ。
多くの日本人は「米国が日本を守ってくれる」「米軍基地があるから、日本は他国から攻められることはない」と考えているかも知れない。今こそもう一度、それが本当にそうなのか考えて見ようではないか。日本を守るのは日本人だし、守ると言うことは単に軍備によって矛と盾の拡大競争に参加することではない。戦争は常に「国を守るため」と言って始まることも忘れてはならない。(続く)
カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言
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ご挨拶
長い間、市議会議員としてこのブログを紡いできましたが、市議を引退するにあたって新たなページを開きたく、公式ブログ名を管見耄言、制作者レオン・マシューと致します。
「管見耄言」の管見とは中国の古伝にある「視野が狭い」ことの比喩です。耄言はわたしの造語ですが「耄碌爺さんの戯言」と言った感じでしょうか。制作者の「レオン」はわたしが若い頃、ブラジルで呼ばれていた渾名です。「マシュー」とは別に幕末の黒船の艦長の名前ではなく、単にわたしが仕事していたマットグロッソ州の事を現地の日本人社会では麻州(マシュー)と呼んでいた事に因むものです。
これまでも助走のためFacebookに少し長めのコメントを載せてきましたが、これからはブログに「管見耄言」と「童話集」をアップして行きたいと思っています。お読みになった方にはご意見ご批判をいただけましたら幸甚です。よろしくお願いします。
カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言
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一地方議員の米国大使への反論
長崎市長の決断に強く賛同し敬意を表します。純粋に犠牲者の慰霊の日を平穏に、しめやかに過ごしたいという気持ちから出た決断だと理解します。これを機会に、今後は特に核保有国の全てには声明文を送るだけにして、慰霊祭への出席については、各国の判断に委ねるようにして、出席した国と代表者の肩書だけを新聞などで公表するようにしてはどうかと広島と長崎の市長に提案します。我々が全ての核保有の代表がそろって献花する姿を見たいのは、犠牲者への慰霊と同時に、広島・長崎の被った人類未曽有の惨劇を、核保有国が少しで思い浮かべて、人の道に外れる手段を戦争遂行の手段にしないという決意を求めてのことであり、国際的な政治パフォーマンスのショーを見たいからではないのですから。
繰り返しになりますが、両市で開催される慰霊祭は純粋に犠牲者の慰霊のためであって、政治的な外交パフォーマンスの場であってはならないのです。もちろん、核兵器の非人間性を世界に訴えることは、被爆者共通の願いであり、それは政治的なアッピールであることは間違いありません。しかし、だからと言って広島、長崎の惨劇の加害者であると同時に現在でも世界最大の核保有国である米国の大使が、長崎市長が「式の安全で平穏な開催のために」と言っているにもかかわらず、声高にそれを政治的な判断だと抗議声明を出して欠席するというのは、自分たち自身がこれまで政治的パフォーマンスを目的として出席してきたことを自ら露呈したにすぎません。イスラエルに招待状が出なかったことが気に入らないから出席しないというのは鎮魂されるべき犠牲者への冒涜です。米国が未だに長崎の市民への贖罪の念を持っていないことの表れでもあるとわたしは考えます。
一地方自治体の長とはいえ確かに長崎市長も政治家です。その鈴木市長の決断である以上、確かにそれは政治的判断という側面を持っています。しかし、彼は長崎に落とされた原子爆弾によって無差別に殺された無辜の市民の遺族を代表していると同時に、犠牲者のご冥福を祈り、遺族を慰めようとする全ての長崎市民を代表しているのです。その彼が現今の国際情勢に影響されることなく、真に平和を祈念しつつ、しめやかに鎮魂の式典を開催するために決断しているのです。米国ならずともそれを最大限尊重するのが人の道ではないでしょうか。ガザの惨状を黙認して、軍事援助を続けている国の大使に人の道を期待すること自体、無駄なのかもしれませんが。
鈴木市長がイスラエル大使に招待状を出さないという決断をしたことをあげつらって、イスラエルを呼ばないのなら自分たちも出席しないというのは、米国が長崎で行ったジェノサイドの犠牲者に対して新たに行った冒涜なのです。米国政府は日本国には礼を尽くしていると表明しましたが、長崎市民と長崎で自分たちが殺した日本人に対しては礼を尽くしていないのです。同じ日、長崎の式典への欠席の代わりに、米国大使館とは目と鼻の先にある芝増上寺で開かれていた長崎原爆慰霊祭にイスラエル大使、英国大使を同伴して参拝し、参列させてくれた増上寺に感謝すると表明しましたが、これこそ日本国民を愚弄するアリバイ作りでしかないと、わたしはさらに怒りを感じています。米国大使の抜け駆けに対する、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ大使とEU大使の動向はまだ確認できませんが、自分たちが浴びせた慰霊の場への冷や水について、ドイツ、イタリアの動きを注視したいものです。むしろ、わたしはイスラエルが100基近い核兵器を保有しながら、NTPにも参画していないことを思い出してしまいました。米国に限らず、西欧諸国の考えはロシアや中国、北朝鮮、イランなどが保有する核兵器は忌むべきだが、イスラエルの核兵器は問題ではないとしているのです。そのダブルスタンダードを今回の米国大使の行為に改めて想起せざるを得ませんでした。
それにしても日本政府も外務省も、この件についてコメントすら発しなかったことにも大いに不満を表明するところです。一地方自治体の話だからということで無視しているのですが、一地方自治体の決断であっても、それに抗議しているのは一国の大使であり、大使の発言は国と国の関係についての、当事国同士の考えを具現するものです。ガザの惨状、米国の大統領選挙の混乱ぶりなどの状況下で、外交問題にしたくないという配慮と火に油を注ぐことを恐れてのことということは分からないでもありませんが、黙秘するというのは外交姿勢として疑問が残るところです。日本外交がこれまで常にとってきた「長いものには巻かれろ」式の姿勢がここでもまた露呈したのではないでしょうか。今回、日本の政府が何もコメントしなかったことは本当に情けないと思っています。
沖縄で今も起こる米軍人による沖縄県民に対する理不尽な行為と、それに対する日米両国政府の姿勢も同根でだとわたしは考えています。沖縄で起こった米軍人の暴行事件を日本政府が隠ぺいしようとしたことも、県議会選挙への影響を恐れてと言われても仕方がないことなのです。
米国大使はじめ日本を除くG7参加国の国々の大使は共同声明で、ロシアやベラルーシとイスラエルを同列に扱うなと言いましたが、それは米国をはじめとする核保有国大国が、イスラエルの掲げる人質の解放という目的のためにはジェノサイドも厭わないという姿勢を肯定し支持しているということに繋がります。そこに生活する無辜の市民の存在と地獄の苦しみをしりながら、一つの都市を完全に破壊するという核兵器を使ったことのある米国にとって、それが本音であり、核保有国に共通する本音でもあると考えられます。そしてその本音が、核軍拡競争をますます煽り続け、互いに相手が悪いから核兵器を拡充せざるを得ないという悪魔の論理として、我々が目の当たりにしていることの背景なのです。
長崎市長が投じた一石が、長崎という小さな池に起こした小さな波紋を新たな契機にして、わたしたちはこの混乱している国際情勢を、まずは少なくともオバマ氏が大統領時代に行った核兵器削減宣言の時点まで引き戻さなくてはならないと考えています。
2024.8.11
カテゴリー: 時事
一地方議員の米国大使への反論 はコメントを受け付けていません
滋賀県東近江市「石堂寺」にて

20年以上も前から行きたかった石堂寺にようやく行くことができた。公共交通機関で訪れるには、この寺は実に遠い。京都からJRで近江八幡まで行き、そこから近江鉄道を乗り継いで八日市まで行き、さらにそこから一度乗り換えて桜川まで行く。わたしは乗り継ぎ時間の都合で、今回は湖東バスという路線バスに30分以上も揺られて桜川駅まで行った。桜川という名前はしゃれているが、桜の時期の終わった頃だったし、しかも雨模様の天気のせいか、ただの田園地帯のど真ん中の無人駅にたどり着いた。しかし、南近江特有の何となく明るい光の中で、それはそれで風情のある駅だった。石堂寺はさらにそこから広々とした麦畑のど真ん中の農道を歩いて、2.5キロほどのところにあった。
司馬遼太郎の「歴史を紀行する」に登場する「石塔寺」を読んで、どうしてもこの目で確かめたかった。司馬遼太郎は1968年にここを訪れているのだが、それから実に56年後、ようやくわたしのその願いが叶ったのだ。小高い丘のふもとにある「阿育王山石堂寺」はなんの変哲もない佇まいの天台宗の一末寺にしか見えないのだが、拝観料500円を払うと目の前には158段の急な石段が聳え立っている。今は、参詣客のために手すりが設置されていて、それにすがって登ることができるが、司馬遼太郎が個々を訪れた時には、まだ手すりもなく竹の杖にすがって休み休み上ったそうだ。
その石段を登り切ったとたん目を見張ることになる。そこに漂う空気は到底日本国のものではない。まるで百済や新羅の時代にワープして、わたしは折からの松籟の音を聞きながら、朝鮮半島の只中に立っているという錯覚に眩暈がするほどである。無数の小さな石塔や石仏、石板に彫られた仏のレリーフに囲まれて立っている日本国内最大の石塔は まさに韓国の父老が伝統の高く尖った帽子を被り、白い麻の儀礼服を風に靡かせてすっくと立っている風情なのだ。
石造りの三重塔は少し小さなものなら京都の清水寺でも見ることができる。しかし、ここの石塔は丘の上に屹立している上に、国内最大の高さ7.5メートルもある。周りはその数合わせて8万4千基と言われる、小さな五輪塔、石仏や石板に彫られた道祖神のようなレリーフである。石造りの五輪塔は朝鮮半島には存在しないそうだし、日本で普及し始めたのは平安時代末期からだそうだ。そう考えると三重の石塔が醸し出している雰囲気に相違して、日本独自のものというところが些か気になる。しかし、それも例えば京都の松尾神社が渡来人を祖としているにもかかわらず神道で祀られていることを合わせて考えれば納得がいきそうである。むしろ、渡来人たちが故郷の風景を偲んで、この地に自分たちの国のそれに似せて、石塔を建立することを思い立ち、それが千年の時を経て、この地に土着する過程で、はじめは帰化人の聖地だったものが、土地の守り本尊としてあがめられるようになり、塔の威容を慕って多くの民草が競ってこの塔の周りに葬られることを望んだり、それが叶わぬならせめて五輪塔や石仏を奉納したりしたのではないかと想像できる。そう思いなおして改めて無数の石仏群の只中に立つ石塔を眺めると、さらにこの石塔が流浪の民の哀惜の象徴であるとの思いが深くなった。
石堂寺の縁起によれば、ここに安置されているこの石塔にまつわる伝説はインドの阿育王にまで遡る。「阿育王(アショーカ王又はアショカ王)が仏舎利を納めた塔八万四千基を作り世界中に撒いた。その内の二基が日本に来ていて、その一基がこの石塔」だというのだ。阿育王は古代インドにあって仏教を守護したというが、彼が実在したとしても紀元前3世紀の人である。その時代、日本はまだ古墳時代にもなっていない。紀元1世紀になってようやく魏志倭人伝に奴国が登場しようというくらいで、統一王朝などまだまだ先の話であった頃である。
時代は大きく下るが、聖徳太子が近江の国に48箇寺の伽藍を整備した内の本願成就寺がこの地であるとする方がまだしも腑に落ちる。しかし、ぞれにしても、ではなぜ聖徳太子は当時の明日香や斑鳩から遠く離れたこの地にたくさんの仏教寺院を立てようとしたのかという疑問が生じる。そこにこの丘の上の石塔の佇まいと、この一帯が半島からの帰化人の一大聚落であったということの符号が、思い浮かんでくるのである。
日本書記には7世紀「白村江の戦に敗れた百済から、百済の高官鬼室集斯という人が一族とともに日本へ亡命し、天智天皇により小錦下の位に叙せられた」とある。その日本書記には「百済の男女400余人が近江国神前郡に住まわされ田が与えられた」という記述も見られる。さらに「その後、鬼室集斯に率いられた百済からの渡来人が男女700余人が近江国蒲生郡に土地を与えられている」とある。神前郡も蒲郡郡も大部分が現在の近江八幡市や東近江市、八日市市だし、特に八日市という地名はそこが帰化人によって立てられた「市」であることから来ているそうだ。
「近江商人」という喩えがある。司馬遼太郎はその市を開いた帰化人たちに近江商人気質の源流を想定しているが、わたしはそれには些かい疑問を感じている。一般に商売人と呼ばわる時、洋の東西を問わず、そこには毀誉褒貶のうちでも毀と貶の分量が多い。しかし近江商人という場合、そこには誉と褒しかない。司馬遼太郎はその近江商人気質が帰化人に由来すると言うのである。確かに三井財閥の祖も、高島屋の祖飯田新七の才覚にほれ込んで婿養子に迎えたという儀兵衛も近江の出身である。
商売とは謂わば知らぬもの同士をウイン・ウインの関係に結びつける行為であり、だからこそ最も大切なのは信用であるという。わたしは半島からの渡来人たちは、その信を重んじる商人気質より、創作意欲や根気強いことが求められる職人気質の方を多く持ち込んだであろうし、時の権力者たちもそれを多く望んだと思っている。同じ近江の西南部には戦国期から織豊期にかけて石積み技術で活躍した「穴太衆」がいた。彼らは古墳時代には既に近江を中心に石積み技術を中心とした土木技術を発揮していたとされている。石堂寺に隣接する竜王町には渡来人による「須恵器」の生産地があったとされており、それが今日の信楽焼への系譜に繋がっている。同じく日本書紀に登場する酒造りの始祖秦酒公(はたのさけのきみ)は山背一帯に住んでいた渡来人秦一族だし、秦氏と言えば養蚕技術、その糸を使った絹織物、さらには砂鉄や銅等の鉱物採鉱・精錬、冶金技術、薬草についての知識なども伝えている。八日市に市を開き、平安時代には比叡山と結んで商業を発達させたとしても、それは彼ら渡来人が持っていた豊かな技術によって得た生産品、加工品が元となっているからこそであって、単に異なる地域の商品を別の地域の消費者に繋いで利を得るということではなかったと思うのである。
一方、近江、特に南近江はのちに織田信長が本拠地にしたことからもうかがい知れる。交通の要衝であり、また琵琶湖が水運の大動脈であったことから、帰化人ならずとも商業が発展する素地は十分にあっただろう。むしろ、近江からは近江源氏の流れである佐々木(六角)氏、蒲生氏など、「傾奇者」と呼ばれるほど文化芸術に秀でた武家集団の方に、渡来人の血脈を感じるのはわたしだけだろうか。武士と言えば石田三成も近江出身だったことも思い出させる。彼は戦のバックアップとして重要な兵站に能力を発揮し、さらには今日の簿記と同じものを独自に考案していた。近江商人気質の源流というのなら、この時代の石田三成あたりがそれにあたるのではないかと思うのだが。
飛鳥時代から平安遷都前後くらいまで、半島から多くの帰化人が渡来して時の天皇から南近江、東近江の地を与えられたとある。その帰化人の子孫がそのまま千数百年、この地に住み続け境目もないほど同化してきた中で、初来の帰化人たちの持ち込んだ生活習慣や集団規範が日本風土と化学変化を起こして、現在の我々日本人の気質の源流となっていたのではないだろうか。そう考えながら改めてこの南近江の田園風景を眺めていると、遠く朝鮮半島南部の優美な丘陵の点在する明るく伸びやかな農村風景と重ね合わせて、つい、悠久の時の流れに呆然と立ち尽くしてしまった。
ところで司馬遼太郎の記述を読んでいるうちに頭から離れなくなった疑問がある。その一つは半島からの帰化人の気質がどうして滋賀県人、旧国名で言えば近江国の人々の気性の中に、今に至るまで多く残っているのかということであり、石堂寺参詣の目的でもあったのだが、もう一つは「では日本人の半島人に対する畏敬・尊敬の念が、いつから差別・軽蔑の念に180度変わったのか」ということである。しかし、そのことは今回の旅のテーマではない。 いつか改めて、日本の近代史を彷徨いながら思いを馳せてみたいと思っている。
カテゴリー: 日本史紀行
滋賀県東近江市「石堂寺」にて はコメントを受け付けていません