ユダヤ人とディアスポラ

9.ユダヤ人以外のディアスポラー1

華裔(かえい)=華僑と華人

 ユダヤ人より前のディアスポラにフェニキア人やギリシャ人、そしてユダヤ人がディアスポラとなった。ではその後はディアスポラは生まれていないかというと否である。実は古代から現代にかけて、彼の3つ民族のディアスポラ以外にも生まれている。そのユダヤ人以降のディアスポラについて考える前に、もう少しディアスポラという言葉そのものの意味について考えてみたい。

 まず、わたしたち日本人は見過ごしがちではあるが、欧米諸国ではDiasporaとdiasporaは厳密には意味するところが違う。大文字から始まるDiasporaは固有名詞としてイスラエル・パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人のコミュニティーを指し、小文字から始まるdiaspora一般名詞として他の民族や国籍に関わらず祖国をから離散して他国で定住しているコミュニティーを指すのだ。

 本来ギリシャ語でギリシャ人の離散コミュニティ―を指す言葉だったものが、固有名詞としてはユダヤ人のみを指すのは、やはりキリスト教徒の確執と差別、迫害という歴史的な経緯が大きいということだろう。

 ところで21世紀の今日、ディアスポラと同じような境遇の人々を指す言葉として、移民、難民という言葉がある。移民や難民とディアスポラは何が違うのだろうと考えてしまう。大きな違いは二つある。一つは宗教的、あるいは民族的な特性としてのコミュニティーを作るか作らないかである。移民は不法であろうと合法であろうと、入国した先の国に分散して、基本的にはコミュニティーやそれに近い社会を持たない。難民は一時的に難民キャンプに住むことになることが多いが、それは自発的な求心性があってのことではない。

 もう一つ、ディアスポラと呼ばれる人々は優秀な集団であるということだ。技術、文化的知見、金融などの経済感覚、あるいは勤勉さなども含めて、彼らが優秀であり、マイノリティーであるにもかかわらず、周囲から羨ましがられたり、妬まれたりするほどの存在感を持っているということだ。

そ こでユダヤ人以降のディアスポラだが、現代社会におけるはというとまず華裔(かえい)であろう。日本にも中華街があり多くの中国系ディアスポラが暮らしているが、世界的に見てもその規模は大きい。日本や朝鮮半島を含むアジアに限っても、華裔(かえい)は2700万人を超えているし、16世紀頃のポルトガルとの交易の関係からアフリカの旧ポルトガル植民地である、モザンビークやアンゴラなどにも華裔はいた。

 ついでながら華裔(かえい)とは華僑と華人を合わせて呼ぶ場合に使われる。華僑の「華僑」は本来、「出稼ぎ」「仮住まい」を顕す言葉であり、既に何代にもわたって定住していてもその国の国籍を取っていないまたは取れない中国出身者を指し、多くの場合、中国の国籍を保有しているが、何らかの理由で無国籍となっている人々もいる。

 華人は居住国の国籍を有している中国系の人々で国籍の上では中国人ではない。ただし、華人は中国人であることの歴史性、文化や習慣に誇りを持ち、血縁上のつながりを重視するコミュニティーを形成している。その意味ではディアスポラと呼ばれるにふさわしい。

 又、中国人もしくは中国系の人々の間では、華僑は「落葉帰根」と呼ばれ華人は「落地生根」と呼ばれることもある。それは高い木の梢にある葉もやがて地に落ちて根に帰る(今は遠くに暮らしていても、いつかは故郷に帰る)華僑に対して、落ちたところに根を張って生きていく(その国の人間として生きていく)のが華人であるということだが、20世紀後半以降、華僑・華人が批判・粛清された文化大革命など中国本土の事情などから、華僑の華人化が進んでいる。

 中国人ディアスポラは唐代末期(9世紀頃)に始まった。唐王朝の末期、旱魃や蝗害が続いたことによって飢饉が続いいぇいた。やがて「黄巣の乱」などの混乱によって多くの人々が国内で流民となり、さらに東南アジアなどへ逃避している。その後も南宋の滅亡、元の入寇、明末期など王朝末期の混乱の度に波状的に華裔(かえい)が生まれている。、清末期の阿片戦争の時代が最も多くの華裔が生まれたとされているが、この時は南北アメリカ大陸にも多く渡っている。

 20世紀初頭の欧米、日本などの植民地主義的な蚕食を受けていた清の時代に、南北アメリカ大陸に渡った中国人の多くは、奴隷解放出一応自由の身となったアフリカ系の人々に代わる労働力として、苦力と呼ばれる半奴隷的な扱いを受けていた。チリでは1960年代まで、公園などの入り口に「犬と中国人入るべからず」という看板があったほどだ。

 1949年に国共内戦に勝利して中華人民共和国が成立した時、台湾に籠って対立した国民党政府が、その後の米国と中国本土の国交樹立によって国際的な立場が脆弱化したため、華僑・華人の立場を一層複雑にしている。さらに付け加えると文化大革命時に香港に脱出した多くの中国人(中国政府は逃港人と呼んでいた)も、多くは米国など第3国に再移住して、今日の華人コミュニティーを形成している。

 わたしはモザンビークの革命時にブラジルに渡り、モザンビークがそれまでポルトガル領だった関係で、ブラジルに帰化した華人と家族ぐるみで友達付き合いをしていたし、サンパウロ市の東洋人街にあったホテルの華人経営者とも親しくしていた。興味深かったのはモザンビークから来た華人は「中国人を信用してはいけない」と口癖のように言って、中国人社会とは離れて暮らしていたことと、その反対に在ブラジル華人協会の会長をしていたホテルのオーナーは、新来の中国人の面倒をよく見ていたことだ。

 このふたり(二家族)のファミリー・ヒストリーは聞かぬままだったが、それぞれの来し方が、ふたりのその違いに現れていたのだろう。その事を考え合わせると、ユダヤ人ディアスポラにも、約2000年の離散と抑圧の暮らしの中での経験の違いから、考え方の違うユダヤ人いることが当然であるということになるし、ユダヤ人、イスラエル人にもいろいろな考え方の人がいることにも納得いくようになる。

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レオン爺さんの居酒屋

(1)田舎娘に手を出すな。

 「田舎娘に手を出すな」とは些か物騒な話に聞こえるだろうが、実はわたしが25歳でブラジルに渡った際、送別会で恩師から頂いた忠告だ。「お前には仕事のことでは心配しないが、地酒と地元の女性にはくれぐれも気をつけるんだぞ」と言われた。ブラジルに着いて直ぐに恩師の警句を思い出すことになったのが、田舎娘カイピリンニャである。

 カイピリンニャとはブラジル語で「田舎娘」と呼ばれているカクテルだ。ベースとなるのはブラジルを代表する蒸留酒でピンガまたはカシャアッサと呼ばれている。サトウキビを自然発酵させて蒸留したもので、アルコール度数は30〜40度程度だが、地酒とあって一瓶買っても安いものだとビールの大瓶一本の値段と変わらない。

 カクテルと言ってもカイピリンニャは、ブラジル特有の小粒のライム2〜3個の皮を好き好きで適当に剥いて八等分くらいに切ったものを、これも好き好きに砂糖を少しかけて、潰し棒で適当に潰したところに、ブラジルの地酒であるピンガ(またはカシャアッサ)を注げば出来上がりである。レシピを読むとややこしいようにあるが、要はライムの果汁と地酒を適当に混ぜるだけでも良く、わたしはそれに氷を放り込んで飲むのが好きだ。

 ライムはブラジルでは単にレモンと総称されている果物の中でも、ガレーゴという小さな品種がいちばん合う。なければ少し大きなタイチもしくはリーマでもいい。どれもレモンというよりライムの香りがする。大抵のお宅にはレモンの木の1本や2本は植っていて、ほとんど一年中取り放題である。勿論、青空市場でどれも1ダース100円か200円程度で買える。砂糖がこれまた安くて日本の10分の1程度。もっとも、わたしは砂糖なしで呑むのが好きだが。

 唯一困るのが氷だ。家で作ったものか、ちゃんとしたレストランやホテルのものでないと安心できない。従って、わたしは外ではほとんど氷を入れずに飲んでいた。いずれにせよ、この「田舎娘」が美味いこと、旨いこと、うまいこと。今でもわたしの青春の記憶のページを飾る大スターである。

 後年、あの忠告をしてくださった恩師がブラジルにいらした時、「田舎娘」を飲んで頂き、最高級のピンガをお土産に持って帰って頂いた。「これは危険だね。こんなに旨くて安い酒はやはり近づけない方が身のためだね」と仰っていたことが、今では懐かしく思い出される。

 日本ではピンガも手に入りにくいし、ライムに至っては高くて手が出せないので、あまり飲めていないのが寂しい。

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レオン爺さんの居酒屋(Bar do Leão)

レオン・マシュー

プロローグ

 Bar do Leão(バール・ド・レオン=レオン爺さんの居酒屋)を開店します。この居酒屋の売りはレオン爺さん手作りのpinchos(ピンチョス)とtapas(タッパス)です。ピンチョスもタッパスもスペインのバスク地方を中心に、バール(カウンター形式を基本としたコーヒースタンド兼軽食堂兼一杯飲み屋)のカウンターに置いてあるつまみのことです。ピンチョスは爪楊枝かもう少し長い串に刺してあるもの、タッパスは小皿料理で、どちらも語尾にSをつけて複数形で表しているのは、バール毎に工夫を凝らした多くのメニューが揃っているからです。

 特にスペイン北部の海沿いの街サンセバスチャンや、牛祭り(サン・フェミニン祭り)の街パンプローナのそれは有名です。最近は円安のため、つまみの小串や小皿といっても馬鹿にならない値段ですが、カウンターでお気に入りのワインかカクテルと一緒に2〜3品選ぶのがスペイン旅行、特にバスク地方への旅行の醍醐味の一つです。

 昨年からブログとFacebookで管見耄言やその番外篇をアップして来ましたが、政治や世相の話ばかりで、些か心がささくれ立ってしまいました。それについ肝心のブログの書き込みも疎かになっていました。この居酒屋はその口直しのつもりです。ブログの管見耄言、Facebookの管見耄言ー番外編ももちろん続けるつもりですが、それはそれとして日常の心の襞や陰影に映った些事やカケラを、わたしなりに調理して串に刺したり小皿に乗せて並べ、せめてささくれたわたし自身の心の襞に、軟膏など塗って潤いを与えていきたいと思っています。

 そこでレオン爺さんの居酒屋を開店し、カウンターにわたしなりに考えた日常のつまみのような小文、ピンチョスとタッパスを並べていくつもりです。それに合うお飲み物の話も入れてはいきますが、つまみとのマリアージュは各位ご自由にお探しください。ともあれ、これからわたしのお出しするピンチョスとタッパスにご期待ください。

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レオン・マシューの管見耄碌 

ユダヤ人とディアスポラ

8.ディアスポラー2

 古代よりディアスポラはユダヤ人だけではない。しかし、世界82億2千万人の人口の中の1500万人、割合では0.2%にも満たないユダヤ人が、現代世界に及ぼしている多大な影響はどこから来るのかと考え込んでしまう。同じディアスポラであったフェニキア人は既に消滅しているし、ギリシャ人は過去の栄光にもかかわらず経済的にEUのお荷物と言われるほど低迷している。ユダヤ人だけがあらゆる分野で傑出して国際的な影響力を維持しているのである。

 20世紀以降の最も著名なユダヤ人というと、まず筆頭にアルベルト・アインシュタインが思い浮かぶ。原爆の父と呼ばれるJ・ロバート・オッペンハイマーもユダヤ人だ。19世紀にさかのぼると日本人にとって日露戦争の際の恩人ともいうべきジェイコブ・ヘンリー・シフがいる。彼は日露戦争の際に旧知だった高橋是清の求めに応じて、日本の戦時国債を買う形で戦費調達に大きく寄与した。さらにさかのぼると今やワインの世界でも有名になった金融王ロスチャイルド一族がいるし、現代ではゴールドマン・サックスの創始者マーカス・ゴールドマン、GAFAではGoogle創業者のラリー・ペイジ氏や、Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグ氏、世界的なファーストフードではマクドナルドのレイ・クロック、スターバックスコーヒーのハワード・シュルツ、映画界では監督のスティーヴン・スピルバーグがいる。思想界ではカール・マルクスもユダヤ人だ。

 ユダヤ人にユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人ディアスポラ(コンベルソ)を先祖に持つ人々まで含めると、あらゆる分野で綺羅星のごとくユダヤ人またはユダヤ系に人々が席巻していることには目を見張るばかりである。

 もちろん、そんなユダヤ人は一握りではある。いくら人口の割合が小さいマイノリティーといっても、数百万人のユダヤ人が今でもヨーロッパ各地に暮らしている。森繁久彌や上条恒彦が主演をしてよく知られている「屋根の上のバイオリン弾き」は、そのヨーロッパの片隅(具体的にはウクライナの田舎町)にロシア革命前夜に暮らしていた貧しいユダヤ教徒の牛乳屋の生活を舞台化したものである。主人公テディエは敬虔なユダヤ教徒でありながら、最後にはポグロム(ロシアによるユダヤ教徒弾圧)によって故郷を追われる。

 ついでながら「屋根の上のバイオリン弾き」の原作「牛乳屋テディエ」の作者もユダヤ人、彼(本名ソロモン・ラビノヴィッツ)の筆名ショレム・アレイヘムとはイディッシュ語(ヨーロッパのディアスポラ・ユダヤ人の共通語)の「あなたに平和を」という意味の、日常のおはようやこんにちはと同じように使われる言葉である。それが実はアラビア語の「アッサラーム・アライクム」と語感も意味も全く同じ「あなたに平和を」、パレスティアはもちろんアラビア語圏では同じく、おはよう、こんにちはと同じように使われている。東ヨーロッパに暮らしていたユダヤ人たちの苦難が、こんなあいさつの言葉からも偲ばれるのだ。

 ごく一部のきらめく星々の様なユダヤ人の陰に、多くの名もなく貧しく差別と迫害に苦しんでいたユダヤ人がいたことも忘れてはなるまい。しかし、それにしてもローマとの戦争に敗れて国を追われ、流亡の地に差別と迫害にあえぎながら暮らしてきたはずのユダヤ人たちに、世界最先端の頭脳や、先端技術の起業家、巨大金融業者や巨大ファーストフードの企業者が多いということも事実であり、それがどうしてかということも考えてみる価値がありそうである。

 ユダヤ人を語る上で彼らのディアスポラの歴史的経緯と辿った苦難の道のみを考えるわけにはいかない。実はこれまでディアスポラとして登場してきたフェニキア人、ギリシャ人とそれに続くユダヤ人だけがディアスポラではない。ユダヤ人がカナンの地(パレスティナ)を追われた紀元134年以降から21世紀の今日に至るまで、世界情勢や国内情勢によって、色々な民族からディアスポラは生まれてきている。卑近な例で言えば華僑がそうだし、古代の朝鮮半島から日本を含めて各地に移住した朝鮮族の人々もそうだ。さらには中世の倭寇や八幡(ばはん)、近世の浅田長政たちなども日本人ディアスポラだし、明治以降にハワイや米国の西海岸、中南米に移住した日本人移民もディアスポラである。  それらの人々についても考えることを通して、ユダヤ人の長い苦難の歴史についても何か見えてくるのではないかと考えている

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レオン・マシューの管見耄言

ユダヤ人とディアスポラ

7.ディアスポラー離散と流亡民たちー1

 今日、わたし達はディアスボラと言えばユダヤ人の代名詞のように考えているが、実はディアスボラは紀元前から地中海世界に移住したギリシャ人が些か自嘲気味に自称したことから来ている。ディアスポラはギリシア語で風に飛ばされていくタンポポの種のようにまき散らされるという意味の言葉に由来している。紀元前5世紀頃には既にギリシャ人は、西はポルトガルから東はキプロス、パレスチナまで地中海世界に広く移住してコロニーを形成しており、それらの移住ギリシャ人を自称してディアスポラと呼んでいたのだ。

 その後、強大化した古代ローマ帝国に何度も反乱を起こし、ついにはローマに完膚なきまでに敗北して故国、故地を追われたことか、ユダヤ人もまたディアスポラと呼ばれるようになったのだが、実はユダヤ人はそれまでも既に移住の先駆者であるギリシャ人と競合しながら地中海の全域にコロニーを形成して住んでいた。当時、ユダヤ人の最大のコミュニティーは実はエジプトのアレキサンドリアにあって、そこで度々ギリシャ人コミュニティーとの間で衝突を繰り返していたくらいである。ユダヤ人がディアスポラと呼ばれるようになったのは紀元1~2世紀の第2次ユダヤ戦争で、ローマ帝国軍に完膚なきまでに敗北した時からではあるが、それ以前に既に地中海世界全域にユダヤ人コロニーは形成されていたのだ。ただ、それまでと違うのは単なる居住地ではなく、ユダヤ人のコロニーだけはゲットーと呼ばれるようになったことだろう。このゲットーという名称にもナチスドイツのホロコーストのための強制収容所をさすだけでなく、ユダヤ人が迫害や差別を受けることを防ぐために自主的に作った閉鎖的なコロニーにも使われる。

 ところで、ギリシャ人と言えばギリシャ人が移り住んだ場所の中にはエジプトのアレキサンドリアのほかにも、例えばフェニキアの各海岸都市もある。フェニキアという言葉自体が、フェニキア人の自称ではなく、ギリシャ人がそう呼んでいたことから定着した呼称だ。そのフェニキア人もまた、ローマとの3次にわたる戦役を繰り広げたことで有名なカルタゴをはじめとして地中海世界に拡散していたことでは、ギリシャ人より先輩格のディアスポラだと言える。そのフェニキア人がディアスポラと化したのは紀元前8世紀頃で、アッシリア帝国からの圧迫と侵略が契機だった。ディアスポラを考える時、フェニキア人の歴史もまた重要な要素の一つだろう。

 ギリシャ人のディアスポラの最盛期は紀元前8~5世紀頃だが、その時のギリシャは内戦とペルシャ戦争に明け暮れていた。アテネとスパルタの抗争など都市国家同士の勢力争いが続いていた時、敗れた側の都市国家から逃げ出した多くのギリシャ人がいたことは容易に想像できる。その後のペルシャからの侵攻を受けて起きたペルシャ戦争では、さらにその難民の数、奴隷として連れ去られたギリシャ人の数は増えていた。

 フェニキア人であれ、ギリシャ人であれ、ユダヤ人であれ古代に地中海全域に移住し、生活することが出来たのは、彼らがどこへ行っても土着の民族よりも優秀で勤勉であったからである。フェニキア人がアルファベット文字を考案していたことは有名だ。さらに海洋民族として造船や操船の技術に長けていたことも知られている。地中海世界にブドウの栽培技術とワインの醸造技術を伝えたのもフェニキア人である。

ギリシャ人が今日の西洋文化の起源とも言える文化と学術の民であったことも周知のことだ。ユダヤ人は非常に厳格な一神教とであるがゆえに、そのコミュニティーは閉鎖的ではあったが、彼らが計算術、特に建築の基礎となる計算術にたけていたことは、聖書はもちろんエジプトのカリグラフの記述にも見られることである。

 オリエントと言う呼称には古代に花咲いた文明・文化への西欧人の憧れの潜在意識がにじんでいる。地中海世界の先進地域が古代ではオリエント、現代ではオシデント(英・仏・独・伊etc.)と真逆になっていることも興味深い。

 ユダヤ人に限らずディアスポラの発生原因が他国からの圧迫や自国内の争いなどの戦乱であり、またディアスポラが生き残っていったのはそれらの民族が、技術や知識の上で秀でた何かを有していたからである。

 繰り返すが、ディアスポラはユダヤ人だけではなく、それ以前からフェニキア人、ギリシャ人もそうだった。それなのにどうしてユダヤ人だけがことあるごとに迫害を受け、ついにはヒトラーとナチ党によるホロコーストにまで行きついたのか。そのことを考えるために、ユダヤ人以降に発生したディアスポラについてもこれから調べていくつもりである。

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ユダヤ人とディアスボラ

6.ユダヤ人はなぜ嫌われるのか。

 映画「ハリーポッター」に出てくるゴブリンと、そのゴブリンが働く銀行の雰囲気が、どうしてもユダヤ人人を連想してしまう。ゴブリンそのものは広くヨーロッパに伝わる伝説上の小悪魔ではあるが、それをハリーポッターではグリンゴッツ魔法銀行の銀行員として登場させている。かのシェイクスピアでさえ「ベニスの商人」にユダヤ人を連想させる敵役シャイロック登場させている。それはシェイクスピア自身が反ユダヤ主義であったかどうかというより、劇作家として16世紀のイギリスの風潮を意識してウケを狙ったものだとだろう。

 わたしはブラジル時代、ユダヤ系の友人とも交流があったが、義理堅く穏やかな人々で、風貌もゴブリンやシャイロックには似ても似つかぬものだった。言われてみれば白人よりは肌の色が少し我々東洋人に近いかなというくらいで、一緒に英語を習っていた中学生の少女は人懐こく可愛かった。

 リオ・デ・ジャネイロのような物騒な街に住むときは、シナゴーグのある街路のできることならユダヤ人がオーナーのアパート(賃貸マンション)を選んで住んでいた。ブラジルではその方が治安が良く、自然環境の変化にも強くて安全だからであり、街中でもしょっちゅう停電や断水が起こる街でも、それに対する対策が建物自体に施されていて安心だからである。

 わたしの友人たちは時に固まってコミュニティーを作っている風はなく、金鉱山やダイヤモンド鉱山を経営していたり、ドルの交換所をやっていたりで、確かに一般的にユダヤ人がやると言われている仕事をしていたが、誰とでも気持ちよく交際していたし、家族の仲も和やかな印象だった。流石に自宅や事務所のセキュリティーは飛び抜けて厳重で、これが内なるゲットーかと感じてはいたが、ブラジルという物騒な国に暮らしている以上、むしろ日系人の無防備さの方が気になったくらいである。もっともユダヤ人にとって日本人も日本という国も世界中で最もシンパシーのある国だそうだ。それは日本がキリスト教国ではないからであり、ヨーロッパや地中海世界から遠い国だからとも言えるかも知れない。

 ブラジルにはポルトガルから多くのコンベルソ(ユダヤ教から強制的に改宗させられた新しいキリスト教受洗者たち=改宗キリスト教徒)が差別や迫害を逃れて移住している。長い間に混血して、今では容姿に判別できるものはない。唯一、ポルトガルやスペインでユダヤ教からキリスト教へ改宗した時、急拵えのファミリーネームを作ったため、そのファミリーネームからコンベルソの末裔かどうかが痕跡的にわかる程度である。それさえ、日本的に言えば山や石、木などに由来する苗字と言った感じで、今では多くのブラジル人にとって違和感はなにもない。

 コンベルソと言えば、ルイス・デ・アルメイダがコンベルソであり、かのフランシスコ・ザビエルがポルトガル王のゴア(現インド)やマラッカ(現マレーシア)で異端審問所を設けるよう命を受けていたため、アルメイダの活動を認めようとしなかったことを思い出してしまう。ポルトガルではコンベルソを豚(マラーノ)と呼んで差別と迫害の対象にしていたのだ。イベリア半島におけるレコンキスタ運動が成功裏に終わって、半島からイスラム勢力を駆逐した途端に、今度はユダヤ人排斥が始まったことも、地球の裏側の住人であるわたしたちの理解できる事ではない。

 古代ローマ帝国に対するする数次の反乱の末、国そのものを破壊されディアスボラとなって、地中海世界に散らばっていった後も、ローマがキリスト教を国境とするまでは、特に迫害を受けていた証拠はない。ローマのキリスト教化以後もその共存関係は一貫していた。ユダヤ人への迫害は第一次十字軍の編成とエルサレムへの侵攻以後に始まったとわたしは考えているが、それさえも、ではなぜ対イスラム勢力とのエルサレム争奪戦の最中に、反ユダヤキャンペーンが広まったのか、未だに腑に落ちてはいない。

 「キリストを殺したのはユダヤ人」だからとはよく聞く話である。確かにユダヤ人排斥はキリスト教国特有のものに見える。「使徒(弟子)でありながらキリストを密告し捕縛させたのはユダ族のユダであり、だからユダヤ人は罰せられるべきである」と言うのだ。しかし、聖書や福音書の記述によるものでは、キリストははっきりとユダが裏切ると明言し、ほかの使徒たちの目の前で「わたしがその口にパンを与えるものがその裏切り者だ」と言いつつ、ユダを自由に密告に行かせている。

 また、神が全知全能であるのだからユダが裏切ることは分かっていたことである。神の意志でそれを阻止することもできたはずだろう。ユダは自らの意志で裏切ったというより神の意志に従ったのだというキリスト教もいる。ユダが密告してキリストが十字架の苦難を受け入れたからこそ、キリストの「復活の奇跡」も具現できたとも言えるのだ。現にユダの名前を冠した教会もたくさん存在している。

 聖書に出てくるユダ(イスカリオテのユダ)のエピソードだけで、ユダヤ人の受けた苦難の理由とするには、わたしは合点がいかない。古代ローマ帝国がキリスト教化する前の多神教国家時代に一神教であるがゆえに反旗を翻し、遂には国そのものを消滅させるに至ったユダヤ人が主とし地中海世界から東欧、中東の東部に離散してディアスボラになったことは知られていることではあるが、それよりもユダヤ人の離散より千年以上も後にヨーロッパ社会に登場するロマ・ジプシー以上に警戒され、嫌悪され迫害を受けたこと自体、わたしの理解を超えている。

 もちろん、十字軍の遠征やレコンキスタ運動のように宗教としてのキリスト教が高揚した時期に、ユダ人排撃、反ユダヤ主義も嵩じていることは見逃せない事象である。また、キリスト教の最高指導者である法王の権力が絶頂期にあって暗黒時代とも考えられていた中世では「ポグロム」によってユダヤ人に対する集団的な暴力や殺戮が行われている。しかもそれはしばしば政府によって黙認され、あるいは助長されていた。同時代に起ったペスト菌によるパンデミックでさえ、ユダヤ人の陰謀によるものだというキャンペーンが宗教者によって行われていたという事実も残っている。

 ルネサンス期に入ってもユダヤ人への迫害はむしろ激しくなっていた。それはキリスト教会が価値観の多様化や文化の再興運動によって圧迫されるようになって、捌け口を少数異教徒であるユダヤ教徒に向けていたからだと思われる。それでも同根の宗教を共有するユダヤ教徒を排撃しようというモティベーションには、宗教的な衝動だけでないものが潜んでいるのではないだろうか。

その一つが貴族でもない市政の一般市民であるはずのユダヤ教徒に、当時のキリスト教徒のコンプレックスを感じさせるほどの裕福層がいたことがある。什一税の送金の仕組みなどを発達させてきた経験から、ユダヤ人は金融業に長けた人が多くいて、それが「ベニスの商人」登場する高利貸しシャイロックに象徴されるように、自然と憎しみを買いやすかったのだ。

 しかし、時の為政者が反ユダヤ人キャンペーンを張り易かった最も大きい理由は強固なユダヤ人コミュニティーの存在そのものであり、そのコミュニティーが比較的小さかったということではないだろうか。キリストを裏切って死に至らしめたユダの末裔であること。金融業と言う生産性の感じられない職業に就くものが多かったこと、高利貸しなど恨みを買いやすかったこと等々が複合的に重なって、市民は権力者の意図的なナラティブとプロパガンダに容易に乗りやすく、それが何度も重ねられるうちに暴力的な反感に積み重ねとなって行ったのではないか。為政者にとっても政治への不満を逸らすためには、少数の異質なコミュニティーほど憎悪の火をつけやすい対象だったということだ。

 大正期の関東大震災の際に多くの半島出身者があらぬ疑いをかけられて虐殺されたこと、中には方言が分かりにくかったというだけで集団虐殺された日本人の行商集団もいたことと同列に考えれば、普通の市民でもある環境下に置かれ、ある底意のある指嗾と誘導によって容易に暴力集団化するということを、我々日本人も改めて、ユダヤ人の身の上に重ねて常に思い返さなくてはならないと改めて考えている。

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ユダヤ人とディアスボラ

5.イスラエル・パレスチナの地は誰のものか

 もう一度、地名と呼称について整理しておこう。わたし達はイスラエル人とユダヤ人という呼び名の違い、イスラエルが領土主権を主張している地とパレスチナの地はどうして重なっているのかなどについて、ややもすると混乱してしまう。

イスラエルという国が考古学的に最初に現れるのは紀元前13世紀で、それはエジプトの石碑に刻まれている。その頃には西の地中海側からやって来たペリシテ人とヨルダン川東部の山岳地帯からやって来たイスラエル人との間で抗争が激化していたことも分かっている。紀元前11世紀にはイスラエル王国が建国され、サウル、ダビデ、ソロモンと継承されたが、ソロモンの死後、王国の南側半分のユダ族が分離してユダ王国を建国している。ユダヤという呼称は「ユダ王国の」という形容詞である。

ではイスラエル人の起源はあるいは始めにイスラエル人の国を建国したのは誰かとなると、それは旧約聖書の範疇となり考古学の世界であり、その科学的な検証も未だなされていない。聖書に描かれていることから民族の成り立ちを理解しようとすると、彼らの始祖アブラハムは実は現在のイスラエルの地の人ではなかった。その時まだアビラムという名前だったアブラハムが、どこに住んでいたかというと、メソポタミア地方のカルディアのウルというところに住んでいたことになっている。その地で神から「約束の地=カナン」を啓示され、そこに移り住むよう指示されたことから、アブラハムは一族を引き連れてメソポタミア地方を出発し、紆余曲折の末にヨルダン川右岸のカナンに辿り着いたことになっている。そこで改めて神(ヤハウエー)によって、その一帯の地を与えられたとされている。

 従ってユダヤ人たちは初めからイスラエルに地にいたわけではないということだ。アブラハムが神にカナンの地を与えられた時には、その地にすでにユダヤ人ではない人々も住んでいたのである。少なくともペリシテ人と呼ばれていた人々との抗争は歴史に刻まれている。聖書に「ソドムとゴモラの悲劇」という物語があるが、そこにも少なくともアブラハムたちの信仰する神を信じていない人々、つまり異民族がいたということが窺える。

 そのアブラハムの移住がいつだったかは考古学の今後の調査研究に委ねるしかないのだが、少なくとも起源前17世紀には、カナンの地を捨ててエジプトに集団移住しているし、その頃にはイスラエル人という呼称も定着していたようだ。一度は神に与えられたとする土地を捨ててエジプトに移住し、かの有名なモーゼに導かれてエジプトから戻ってきた時は、彼らはイスラエル人を自称していた。しかし、その時もまた、カナンには先住者がいて、ここで再び先住者たちと諍いを起こしていたであろうことも容易に想像できる。

 その後のバビロン捕囚や最終的にローマ帝国への反攻に敗北して国を消滅させられた時に、ローマ帝国はイスラエルやユダヤではなくイスラエル人の敵であったペリシテ人に土地を与え、それ以来ペリシテの地=パレスティナと呼ぶようになった。ペリシテ人が地中海からやって来て、現在のガザを中心とした地域を根拠地としていたことを考えると、ネタニエフがガザで執拗に民族浄化をしようとすることの背景が見えてくる。

もう一つ考えたいのはモーゼに率いられて戻ってくるようになる前、なぜエジプトに移住したのかというということだ。それはエジプトに連れ去られたわけでも、周辺国との戦いに敗れたからでもなく、気候変動などで農業に打撃を受けたことから、自発的に神からもらった地を捨てているということだ。

 つまり、ユダヤ人たちが現在のパレスティアを神からユダヤ人に賜ったものとして、占有権を主張するのは歴史的にみて無理があるとわたしは考える。アブラハムが実在の人物であろうと、聖書にのみ生きる神話上の人物であろうと、ユダヤ人とパレスティナの地の関係で言えば、紀元前2千〜3千年以上前に、先住者にいた土地に後から来て居座ったと、聖書に書き記しているということ自体、神に導かれたとはいえ自分たちが別の土地からやって来たということを自覚しているということだろう。

 ローマ帝国への抵抗に破れ国を滅ぼされて追われたイスラエル人もしくはユダヤ人は、ディアスボラ(離散した人々)と呼ばれ、以来2千年以上にわたって差別・迫害を受けながら流浪の民となり、遂にはヒトラーによるホロコーストという、未曽有の災厄を受けてしまった。

 その永い永い苦難の歴史の中から19世紀になってシオニズム、若しくはシオニズム運動が起きる。シオニズムとはエルサレムにあるイスラエルの地の象徴「シオンの丘」の名前に由来するもので、シオニズムという呼称は、19世紀末オーストリアにいたナータン・ビルンバウムというユダヤ人によって考案されている。本来はユダヤ人のユダヤ教を根本とする伝統文化の復興運動と、約束の地カナン(イスラエルの地)にユダヤ人の国家を樹立させようという独立運動が合わさったユダヤ人の近現代運動である。中でも前者は文化シオニズムと呼ばれ、現在のイスラエルとネタニエフが見せる過激で暴力的なものではなかった。

 しかし、パレスティナという3千年来の宿敵の名で呼ばれてはいるものの自分たちが神から与えられたとする地に、イスラエル人の国家を樹立しようという運動は、領土問題に宗教や民族間抗争という問題を併せ持つこともあって宿命的に過激、暴力的にならざるを得なかった。特にネタニエフの祖父ナタン・ミレイコフスキーが第一次世界大戦中に主唱した建国運動が、その後の、迫害、特にヒトラーのナチズムによるホロコースによって、より切実な民族と宗教の生死を分けるほどの運動へと変貌し、今日のような異民族、異教徒に対する情け容赦ない行動を容認するようになっていったと言える。ユダヤ教には超正統派ユダヤ主義というものがあるが、そのグループに属するユダヤ人は、実はシオニズムとその実行者であるシオニストに反対している。

 もともと自分たちの土地だったというイスラエル側の主張も、数千年という時代の篩に掛ければ、その根拠が薄れていくと同時に、大事二次世界大戦中から戦後にかけて、中東を支配していた英国の二枚舌、三枚舌によって、ヨーロッパ各地に定住していた同化ユダ人までが体よく追い払われたということを、現代のイスラエル人、特にシオニストたちはどのように考えているのだろうか。聞いてみたいものだ。

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ユダヤ人とディアスボラについて

4.什一税

 繰り返すがユダヤ教とキリスト教、イスラム教は一神教であると同時に、同じ神を神として崇めている。そしてそれぞれに教義の基本となる正典を有している。キリスト教では聖書、または旧約聖書(新約聖書も正典とする人々が新約聖書に対して旧約聖書と呼んでいる)があり、イスラム教ではクルアーン(コーラン)がある。クルアーンはムハンマド(ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ)が40歳の頃から23年間にわたって、大天使ジブリール(ガブリエル)を通して神(アッラー)から啓示されたものを記したものだ。大天使ガブリエルはキリスト教にもユダヤ教にも登場することからも、この3つの宗教が同源であることが理解できる。

 それに対してユダヤ教では律法と呼ばれるものを正典としている。律法はモーゼがシナイ山頂で神から与えられた啓示であり、「人間が神と交わす契約」であるとされている。

 本来、宗教が有している正典とは「神は人にどのように関わってきたか、人は神とどのように関わるべきか」を明示もしくは暗示しながら「どうしたら神の望む正しい生き方が出来るか」を教示する原理を顕しているものである。キリスト教においてもイスラム教においても聖書やクルアーンはそうであると言っていいだろう。ところが、ユダヤ教は違う。ユダヤ教における正典では「どうしたら神の思し召しに適うか」ではなく、ユダヤ教を信じるならば「こうしなくてはならない」とする正に「神との契約」なのである。

「インフォームドコンセント」という言葉がある。主に医療で使われる言葉だが「説明と同意」ということである。キリスト教やイスラム教の正典が神の御教えを「インフォーム=説明」するためのものであるのに対して、ユダヤ教では一挙に「コンセント=同意」を求めているのだ。同意し契約した以上、契約違反はあり得ない。従うしかないということになる。

 ユダヤ人にはユダヤ人である以上、あるいはユダヤ教徒である以上、守らなければならない信仰上の義務、生活上の規則がある。そのユダヤ人個々人が唯一の創造主である神と交わした「契約」の内容に当たるのが「律法」である。「律法」には、キリスト教でいう「旧約聖書」の主要部分「モーセ五書=創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」に著されているものを元にしている成文律法とは別に口伝律法がある。口伝を時代時代に合わせてわかりやすく信者に伝えるために、ラビと呼ばれる聖職者が活動しているし、そのラビが活動の拠点としているのがキリスト教の教会、イスラム教のモスクに当たる施設で、シナゴーグと呼ばれている。ユダヤ教における「律法」は神との「契約」であるため、それを破戒することは即ちユダヤ人であることを自ら否定するになるのだが、成文律法は明示されているため、ユダヤ教徒はもちろん異教徒にも理解しやすいのだが、ラビが伝える口伝律法の方はシナゴーグで直接ユダヤ教徒に伝えられるため、異教徒には触れることも理解することもできない。そのことがユダヤ人の選民思想に強く結びついているとも言えるし、一方でユダヤ人排撃思想にも繋がっている。

そ の律法による契約の重要なものとして什一税もしくは什一献金と呼ばれるものがあった。人偏が付いているものの什一税は古代ローマ帝国の十一税と同義である。ユダヤ教徒たるものどこにいても収入の十分の一を献金(納税)するということであり、それが義務であったということだ。あったと過去形で言っているのは、現在ではどんなに敬虔なユダヤ教徒でも、このユダヤの律法に描かれている什一税としての献金はしていないからである。

 なぜ律法にあるのに現在は払わなくなっているかというと、それもまた律法によってであると言える。元々什一税は紀元前10世紀頃のダビデ、ソロモンの時代に築かれたエルサレムの神殿の維持と、そこに籠って律法の教えを説く聖職者たち(この頃の聖職者は現在のラビとは違う存在だと考えられている)の生活を支えるために義務付けられていたものであり、国内にいようが王国の外に暮らしていようが、その什一税は支払わなければならないものでった。遠く離れたところから送金するしなければならないことから、それを仲立ちする金融業の原形のようなものも生まれて、それを生業とする古代のユダヤ人たちが生まれ、今日までにつながっている。

 周辺国との相次ぐ戦乱や内部抗争と、最後のローマ帝国との戦いに敗れて、全てのユダヤ人がユダヤ王国の地から追放されてしまうと、当然、神殿は現在の「嘆きの壁」を除いて全て破却され、聖職者たちも追放されてしまい、什一税の受領主体がなくなった。謂わば神に命じられていた什一税を、その必要がなくなっても払うということは、神の意志ではないことになり律法にそぐわない行為ということになるため、今日では什一税は存在しないのだ。

 しかし、それでは今日のユダヤ人たちの宗教的集会所であるシナゴーグやそこで活動するラビ(正式には聖職者というより先達といった存在)の生活が成り立たない。そのため今ではコミュニティーのメンテナンス費用をコミュニティー全体で分担するという便法で、什一税の代わりの献金制度を導入している。つまり、什一献金そのものは律法の規定には反しているが、ユダヤ教によって求心力を持つユダヤ人コミュニティーを維持するための、いわば自治会費のような献金と考えることで、辛うじて律法に反することを免れているのだ。

 その意味で言えばハンバーガーやスタンドコーヒーの国際的なチェーン店を展開するユダヤ系の企業が、シナゴーグの維持ではなくネタニエフの戦争継続のために資金支援をしているというのは、見方によってはユダヤ教の律法に反する破戒的献金であり、ユダヤ人社会を破壊しようとする行為であるということになる。実際そう非難しているユダヤ人もいる。

 些かややこしい話になっているが、要はユダヤ教という神との契約によって成り立っているはずの協議を持つ宗教ですら、時代と共に変遷しつつ、その時その時の解釈や方便によっているということであり、どんな宗教でもそうだが、ユダヤ教もまた常に始原的な教えに立ち戻ろうとする原理主義的なグループと、教義と現実社会で起こっていることの間に生じてしまった矛盾を、何とかして解消する方向を見出そうとする改革グループとが存在する。時に相互に軋轢を生じさせてきたし、4千年に及ぶユダヤ人の歴史を埋め尽くしてきたものも、その内部の軋轢に起因しているし、外部の周辺国(=他宗教)との戦争の背景にもまた、その軋轢が横たわっていると言えるのかも知れない。

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ユダヤ人とディアスボラについてー3

3.一神教

ユ ダヤ教が一神教の宗教であることは周知のことである。しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が同根の宗教であり、崇める対象の唯一神が名前こそヤハウエ、デウス、アッラーと違うものの、同じ神であるということは案外知られていないのではないだろうか。ユダヤ人はイスラエルにいる時はともかく、米国をはじめ世界中に住み暮らしている所謂ディアスボラたちは、ユダヤ人のコミュニティ(ゲットー)に住むか、そうでない場合は内なるゲットーを抱えて生きていると言われている。わたし達はユダヤ人とユダヤ教徒とおは同義であると考えいる。世界中どこにいようとのユダヤ教を信奉していればユダヤ人であり、逆に言えばユダヤ人であればユダヤ教を信奉しているということにもなる。

 同じ神を信奉しながら、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は互いに他の宗教に対して非寛容であり、時として血なまぐさい争いを引き起こしてきた。第二次世界大戦中にキリスト教徒の国であるドイツで起こったユダヤ人に対するホロコーストは人類の記憶に刻まれているが、紀元前のオリエントにおけるユダヤ人と古代ローマ帝国の確執もまた歴史に刻まれている。ユダヤ教の非寛容はキリスト教、イスラム教徒比べると突出している。そのユダヤ人の非寛容性の根源を探るために、改めて一神教について考えてみたい。

 ユダヤ教は少なくとも紀元前10世紀には発祥していた。キリスト教は紀元元年前後、イスラム教は6世紀に発祥している。キリスト教でもユダヤ教の経典のひとつである旧約聖書は重んじられているし、イスラム教でさえ旧約聖書は否定されていないどころか、モーゼもキリストも聖人として扱われている。キリスト教もイスラム教もユダヤ教から派生してきたことは間違いのないということになる。ではその始まりのユダヤ教はどこから来たのか。

 古代ローマ帝国において紀元4世紀初頭、コンスタンチヌス帝によってキリスト教を公認し、さらに弾圧と容認の紆余曲折を繰り返した末、4世紀末にテオドシス帝がそれまでの多神教を捨てキリスト教を国教に定めた。それ以降、地中海とアルプス以北の国々においては、一神教こそ宗教の最終形であり、最高の進化形だという考えが定着してしまったようだ。

 人間がサルから進化した過程において、どの段階で信仰する精神構造を体得し、宗教を形作ったのだろうか。文字のない遥かな太古の歴史はロマンと想像の域を超えないが、それでもまずは人知の及ばない事象・現象にアミニズム的な解釈を付与し、そこから信仰に発展していったであろうことは、素人のわたしでも容易に理解できる。確かに宗教史から言えば、人類が初めに形而上学的な意志の存在を意識し始めた時はアミニズムであったろう。つまり雨、風、太陽、月、星はもちろん、草木土石、その集合体である森や山、川や海など、全ての生きとし生けるものの全てに精霊の存在を認識したことだろう。

 やがてその精霊と意思の交換ができるシャーマンが出現し、そのシャーマンが専従化するようになる。さらにシャーマニズムが発展し体系化していくことで、シャーマンの威光イコール権力となっていく。武力による覇者もまた宗教的な威光を身に纏うためにシャーマンたちを重用して行ったことから、単なるおまじないや厄逃れの風習が系統立てられ、権威を形成して宗教としての形を見せるようになる。わたしが興味を持つのは、一神教が砂漠地帯、乾燥地帯で生まれているということだ。豊穣の地の環境下にあっては信仰の対象は多岐に渡り多神教化するのに対して、砂漠地帯やその周辺では過酷な自然環境自体に恵みや恩恵を感じることは少なく、太陽などに神の威光を感じていたと思われる。

 世界最初の一神教だとされているゾロアスター教(拝火教)も、乾燥地帯から生まれている。厳密にはゾロアスター教では絶対善の神と絶対悪の神がおり、世界はその支配下にあるとされているので、一神教ではなく二神教だとも言える。そのゾロアスター教の影響を地理的にも民族的にも、直接的に最も強く受けているのがユダヤ教であるとする歴史学者や人類史学者は多い。そのユダヤ教からキリスト教、やや遅れてイスラム教が派生している。それらの一神教では神は唯一でなくてはならないのだが、世界は善悪の二元によって支配されているというゾロアスター教の考え方を引き継いでいる。ゾロアスター教とこれら3つの一神教の違いは、ゾロアスター教では善悪二神であるの対して、キリスト教やイスラム教では悪の方を邪神、悪魔などと呼び、その邪神や悪魔もまた唯一全能の神によって作られたものだとしている。善悪二元論であることには変わりがない。

 一神教以外の宗教で言えば、ギリシャであろうとローマであろうと、ケルトや北欧、そして日本の神話に登場する神々はなんと人間臭いのであろう。恋もすれば浮気もするし、善も悪も混然としている。イザヤ・ペンダサン(山本七平)は「日本人には一神教は馴染みにくい。なぜなら日本は日本教の国だから」と喝破した。その日本教とは何かといえばキリスト教が入る前の古代ローマにおけるローマ人の宗教と同じである。

 日本人として生まれたものであっても、キリスト教徒やイスラム教徒になった人々もいるし、ユダヤ教徒になった人さえいるそうだ。しかし、日本人の圧倒的多数はイザヤ・ペンダサンの言う日本教徒である。日本教徒は新年には神社に初詣に行き、結婚式は教会で挙げ、死んだときは仏式の戒名をつけてもらうことに、何の疑問もためらいも持たない。日本人は外国に行ってもその国の教会やモスクを尊重するし、シナゴーグにはユダヤ教徒でないため中には入れないとしても、シナゴーグを神聖なものとして尊重する。従ってわたし達日本教徒には、他宗教に非寛容な特にユダヤ教もユダヤ人も理解しがたい。

 現在のイスラエルのガザに対する仕打ちもまた、我々には到底、理解しがたい。しかし、理解しがたいのは日本教徒だからというだけでもないようだ。現に国際社会のイスラエルに対する反発は嵩じる一方だし、当のイスラエル人の中にさえネタニエフ政権のやり方に反発する人々もいる。確かにユダヤ教は非寛容であり、我々には理解できないことも多いが、現在のガザでの悲劇の根源をユダヤ教や一神教に求めることは、むしろ政治や安全保障の現実について見誤ることになるのではないだろうか。

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ユダヤ人とディアスボラについてー2

2.香港のディアスボラ

 ユダヤ人について調べている最中に、香港の新界の大埔地区で高層マンション火災が発生した。想像を絶するような甚大な人的被害となった。火災そのものが鎮火すると、原因究明と責任者の追及を望む住民とそれを反政府活動と決めつけて押さえ込もうとする官憲の、権威主義国家お定まりの泥試合が始まった。

 今回の悲劇を見るに付け、わたしはつい「逃港者」の悲劇をユダヤ人の「ディアスボラ」に重ねて思いを馳せている。「ディアスボラ」はギリシア語で「追い払われた者」を意味し、以前はローマ帝国によって故国を追われて現在のパレスチナ以外の地に住むユダヤ人を指す言葉として知られていたが、今では移民や難民を含む幅広い離散民を指す言葉である。

 ディアスボラとしての「逃港者」を語る時、まず香港の地区について知っておかなくてはならない。香港は1842年の南京条約で清国からイギリスに割譲された香港島、1860年の北京条約で割譲された九龍地区(香港島の対岸地区)と、1898年に新たにイギリスに99年間の期限で租借された新界(九龍地区を除く半島や周辺の島)地域から成り立っており、今回大火災となったマンション群はその新界地域の大埔(だいほ)区に建っている。

 大埔区は伝統的な漁村に付随する市場町(墟市)発展した街だが、香港の18の行政区画の中でも、最も新しく発展した地区になる。面積は離島区を除くと香港18区で最も大きく、人口密度は香港で3番目に低い。緑に覆われた公園などとショッピングセンターがある、典型的なベッドタウンである。

 1950年代、中華民国との内戦に勝利した現在の中国政府が行った「大躍進政策」によって数千万人の餓死者が発生した。さらに1960年代に入って始まった「文化大革命」でも数千万人の餓死者や政府の弾圧による犠牲者が出た。「逃港者」とはその時代に発生した難民で、多くが命からがら香港へ逃亡(中国から見れば)したとしてそう呼ばれていた。

 1950年代には香港島と九龍地区併せて60万人程度の人口だったところに、毎年数万人の難民(逃港者)が中国本土から押し寄せ、その類型は100万人を超えている。

 香港から見れば津波のような難民流入となったが反面、逃港者たちが60年代、70年代の香港の経済成長の原動力になった。逃港者の多くは香港島には住まずに、始め対岸の九龍地区に集中したため、九龍地区は一時スラム化して、清朝の城塞であった九龍寨城などは、わたしたちの世代が子どもの頃は魔窟と呼ばれて怖れられていた。その後も香港の人口は増え続けたため新界地域に市街地が広がって行った。九龍の魔窟・魔界と呼ばれたスラム街も1994年に取り壊され、現在では九龍寨城公園として香港市民の憩いの地になっている。

 今回、火災が起こったマンションの住人の4割は1960年以前に生まれた人々だ。自身や親の世代に着の身着のままで香港に逃げ、逃港者としての辛酸をなめながら香港の今日の繁栄を支えた人々も多くいることだろう。

 1997年7月1日をもって、香港島、九龍地区、新界地域は全てイギリスから中華人民共和国へ返還された。その後の香港の自治権要求・民主化運動の混乱は、まだわたし達の記憶に残っている。中国本土から飢餓と政治的弾圧から逃れるために、難民となって香港島とその周辺に辿りついた人々が、ようやく手に入れた楽園の繁栄の象徴だった高層マンションが大火災となり、多くの犠牲者を出してしまった。背景も時代も大きく違うとはいえ、わたしにはどうしてもその香港の人々と、ユダヤ人ディアスボラが重なって見えてしまうのだ。

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