2025年参議院選挙の課題

⑨政治の仕組みと選挙制度(自治体の権限拡大と国会議員数の削減)

 各級選挙のたびに議員定数が話題に上がる。しかし選挙が終わると定数論議はたちどころに雲散霧消してしまうということを繰り返してきた。定数論議には様々な立場や視点から様々な考え方が輻輳しているので、まず、人口比に対する国会議員の数を国際比較してみた。

 人口100万人あたりの下院議員(日本の衆議員に比定する)の数は、一番少ないのが米国の1.6人、多いのがスエーデンの37.1人、英国の10.4人、フランスの9.1人、ドイツ7.5人、日本は3.7人だ。一方、地方議員の数は、多いのがドイツで実に2500人で国会議員の333倍もいることになる。アメリカも国会議員の420倍の地方議員がいる。フランスが95倍、英国が37倍であり、日本は135倍となっている。

 憲法は第8章「地方自治」によって、我が国の国政(政治)の仕組みを中央の政治(狭義の国政)と地方の政治(自治体)に大別している。地方の政治を自治体と呼んでいるように、本来は地方には自治権がある。但し、中央の政治(狭義の国政)と地方の政治(自治体)の間には垂直的権力分立という考え方を採用しており、アメリカ合衆国の中央政府と州政府の水平的権力分立とは全く違うものだと考えなくてはならない。

 垂直的な権力分立という仕組みでは、どうしても国・地方の政治権力の地位的な強弱が生じ、要するに国から地方への上意下達の指示命令であり、一方通行の政策決定方式から逃れられないことになる。

 そのことに少しでも風穴を開けようととして2000年に「国地方係争処理委員会」を設置されたが、これまでの4半世紀、審査の申し立てがあったのは横浜市、新潟県、泉佐野市のほか沖縄県の複数回だけに過ぎない。また、委員会の5人の委員はいずれも総務大臣(国側)に任命権があるため、その審査の経過と結果は国側に有利となる言わざるを得ない。

 国の成立過程が違うことと、日本の地理的地政学的特性からして垂直的権力分立については温存することに異存はないが、現行のように全て国の指示待ちという権力分立については改善すべきであろう。そのためにやらなくてはいけないことは、二つあると考えている。その一つは「財政の分立」つまり自治体による財政の自由裁量権を拡大することであり、例えば消費税の税率を定める権利を道府県と東京都の市部に与えることなどである。もう一つは、1票の格差問題に関する憲法解釈を改めて、少なくとも地方と東京の区部の格差を5倍~6倍程度まで認めて、地方の発言権を確保することである。

 その上で国会議員の定数と選挙区について考える。わたしは定数削減の方向性が望ましとは思っていない。国会議員が少なくなれば当然ながら選択肢が少なることになる上に、そこに一部の組織や政治団体、宗教団体の入り込む危険性が増大する。国会議員にしても地方議員にしても、数そのものが問題というより、働かない議員が多くいるということが問題なのである。だからと言って、その税金泥棒的な無為無能の議員たちも、その背景にはその議員に投票した有権者がいるのだから、その議員の数だけ議員定数を減らせば解決するということにはならない。要は全てわたし達個人個人の社会的責任感と見識に帰する問題である。

 そうは言ってもやはり日本の国会議員の数は多いと感じている。そこでわたしの試案である。まず、衆議院は小選挙区制を廃止して都道府県を単位とする中選挙区制度とする。但し、東京都だけは、23区を特別区として独立選挙区とする。23区以外の都下市町村を入れて全国47都道府県を参議院は1選挙区、衆議院は人口規模(最小人口の県の人口を基準とする)に応じて分割する中選挙区とする。その上でまず最小人口の県に両院1議席ずつ配分し、あとはその最小人口の県の人口をもとにして比例配分する。

 現在、衆議院議員の定数は465人で、小選挙区から289人、比例代表は全国11ブロックから176人が選出される。参議院議員の定数は248人で、うち148人が選挙区から選出され、100人が比例代表で、全国一区から選出されている。参議員の任期は6年で固定されているが、3年に一度、半数を改選することになっている。

 一票の格差に対する最高裁判決が後押しをする形で、人口の少ない県に設置されている選挙区の定数は削減方向にあり、一部の県は2県で1選挙区に合区される始末である。都市部は選挙のたびに投票率が三分の一にも行かないことが問題視されながら定数は増え続けている。わたしは憲法の地方自治体の自治権を保障するためにも、過疎県であっても道府県単位の地方自治体を固定している以上、合区などはそれこそ憲法違反だと言ってきた。

 定数配分や比例配分の計算方法は議会制民主主義の先進国で色々案出されているが、かなり煩雑である。そこでわたしなりにエイヤッと定数を算出してみた。まず、衆議院である。選挙区は東京都区部など人口の大きな10の自治体を除いてあとは全県一区とする。東京都市部とあと3県は2選挙区とし、東京都区部は8選挙区、大阪は5選挙区、神奈川、愛知、京都、など4府県は3選挙区を設置する。その上で、一番人口の少ない鳥取県に1議席を配分し、鳥取県を含む24県選挙区に定数1人、あとは人口に応じて、選挙区ごとに2~5人を配分すると合計で概算170人程になる。わたしは現状では、衆議院に比例区選出議員は要らないと思っているが、仮に道州制の導入を視野に入れて全国11ブロックに3人ずつで33人程度を求めたとしても現行の半数以下になる。もちろん、ここでは一票の格差に対する最高裁判決は無視している。なぜなら、憲法で保障されている地方自治権を優先することと、同じく憲法で保障されている居住権その他の基本的人権を、大都市では直接的に侵害するものではなく、逆に過疎地域では侵害されているという現状に注力するべきと考えるからである。

 同じ方法で参議院は全国46道府県+東京都の市部に1人ずつ、区部に2人、あとは全国比例区で党派ではなく個人名だけの立候補制度とする100人とする。合計で概算150人である。比例区の立候補を個人名だけに限定するのは、昔の全国区の再現のようであるが、個人個人の政治家の思想信条や所属政党が何であれ、良識の府の選良に政党間の思惑と政争を反映させることは望ましことではないと考えるからである。もちろんここでも一票の格差は全く無視しているが、理由は衆議員の場合と同じである。

 これで衆議員200人、参議院150人まで削減できる。もちろん、繰り返すがわたしは少なければいいとは考えていない。ただ「なんにもしない議員」「裏金とカルト宗教に頼る議員」は要らないという前に、その議員を選んでいるのは誰かを考えなくてはいけない。その上で、ではどのくらいの議員の数が妥当なのか、みんなで考えるためのきっかけになればと考えてみた。

 2025参議院選挙が後世、どのような歴史的評価を受けるのかは分からないが、少なくともわたし達一人ひとりが、その当事者であることを自覚して選挙に臨みたい。

この項を終わります。

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2025参議院選挙ー

⑧環境問題と原発政策

 悲しい話をしなければならない。幸せの国と呼ばれているブータンのことである。標高3000メートルを超す高地で、ヤクを放牧しながらつつましやかに暮らしていた人々の小さな村を、ある夜、突然、雨も降らないのに大洪水が襲ったのだ。一瞬にして20人が命を落とし、水が引いたあとは草も生えない荒蕪の地になってしまった。それは氷河が運んできた土砂と氷塊にせき止められてできていたモレーン湖と呼ばれる堰止湖の堤体を形成したいた氷が、温暖化で解けたことによって決壊して起こした洪水である。

 わたしたち日本人も含めて先進国と言われる国々の化石燃料の使い放題によって生み出された温室効果ガスCO2が回りまわって地球規模の温暖化を引き起こし、ヒマラヤの片隅でつつましやかに暮らす人々の命を奪ったのだ。わたし達の野放図な暮らしが知らないところで知らない人々の命を奪ったことになるのだ。

 わたしがブラジルの海抜1600メートルのところにある養魚試験場で働いていた1970年代後半、わたしはすでにその海抜の地域での気温、水温の上昇が感じていた。今から思えば温暖化が始まっていたのだ。しかし、ちょうど同じ時期、米国の海洋大気庁(NOAA)の同名の気象観測衛星とブラジルのサンパウロ大学の海洋調査船が協力して南大西洋の水温変化の観測を始めていた。しかし、その時、海洋では何の変化もまだ起こっていなかったのだ。わたしの危惧は一時的な気象レベルの変動だと結論付けられてしまった。いまでも、わたしはそのことを忸怩たる思いとして心に刻んでいる。

 地球規模の環境問題というと、トランプのような確信犯はともかくとして、知識を有する人間でも「自分一人がやっても意味がない」「一国で解決できることではない」と言い、そこで思考停止してしまう。わたし自身、エアコンに頼り、不要のドライブに出、輸入肉を食べている。そのわたしの好意の回り廻った結果として、突然に命を失ったブータンの人のことが心のどこかに思い出されて、わたしをチクチクと苛む。今回の参議院選挙の論点の主題にはとうとう上がることがないままに終わろうとしているが、わたしにはそのことにもまた罪悪感を感じて仕方がない。

 ほんの少しで良いから温暖化に死の危険性を感じている人々のこと、ブータンの高地で今もなお氷河湖の決壊に怯える人々のこと、アフリカの大干ばつによって餓死の恐怖に晒されている人々のこと、太平洋の島々で国土そのものを失いそうになっている人々のことを思い出してほしい。何も原始の生活の戻ろうというつまりはない。これまでも家電の省エネ、マイカーのハイブリッドやEV化などなど、わたし達は少しずつではあるが、社会のルールを変え、システムを省エネ化することで、地球環境を守ろうとしてきた。

 個人の生活、身の回りを見直すことはもちろん重要ではあるが、「自堕落な暮らしを続けている身だから、自分には何も言えないしできない」という考えはしなくていい。個人レベルの集合体として世界はあるのだが、環境問題を考える場合、必要なのはルールを作り、それを厳密に守るところから、環境問題、特に地球温暖化対策は始まる。それがSDGs(持続的な目標)なのである。自分のことは棚に上げていいから、どうすれば地球温暖化をこれ以上進めないようにできるかを考えて欲しいものだ。

 一方、CO2を削減するためのクリーンエネルギーとして考えられている原子力発電だが、この被爆国である日本の原発=原子力の平和利用が、実は日本が被爆国であるからこそ始まったということを、もう一度思い出した上でこの国のエネルギー政策を見直さなくてはなるまい。それは米国の反共産主義戦略、つまり対ソヴィエト(当時)、対中国戦略において、米国は日本が自国に対して不信感や嫌悪感を持つことを恐れたことから始まったのだ。敗戦国日本がサンフランシスコ条約を経て、一応の独立国となった時、米国が恐れていたのは日本が「誰が原爆を日本に落としたか」ということを改めて思い出す事であった。そのことによって米国に対する嫌悪感、さらには敵愾心を抱くようになっては、ただでさえ地理的に近いソ連や中国の共産勢力に日本が走ってしまうかもしれないと危惧したのだ。元々、原爆のオッペンハイマーの懺悔を、広島・長崎への核攻撃の決断を下したトルーマン大統領は「女々しい奴」とののしったそうだが、それでも戦後すぐに悪魔的皆殺し兵器を使ったことで米国が人道的非難を浴びることを恐れて「核の平和利用」なる政治キャンペーンを開始する。1951年に米国は世界初の原子力エネルギーを使った発電を成功させ、1953年の国連総会においてアイゼンハワー大統領が「原子力による平和Atoms for Peace」と呼ばれる演説を行っていた。

 そこにさらに1954年3月アメリカの水爆実験のために第五福竜丸をはじめとする日本の遠洋漁船の被ばく事故が起こる。米国としては日本人の原子力に対する見方を原子爆弾や放射能から遠ざけることが、日本を米国の反共の先兵に位置付けるために必須の戦略となった。米国政府は世界的に原子力平和利用への注目が高まっていたことを、日本人の原子力アレルギーを取り除くために利用しようとし、1954年頃から日本政府への働き掛けを始めた。日本側では鹿島守之助、正力松太郎がこれに呼応して、国会内に「原子力の平和利用」キャンペーンを張り、法整備と予算確保を図る。やがて茨城県東海村に研究施設が出来、1957年には実験レベルで臨界点に達し、その10年後の1966年に商業発電が始めている。

 元々は米国による戦略定な政治キャンペーンを背景にしていたものだが、その後、鹿島や正力を引き継いだ中曽根康弘等の強い政治的な働きかけによって、日本各地で本格的な原発建設が始まっている。この間、米国からどんな働きかけや資金提供があったか、わたしには検証のしようもないが、今日の日本の原発依存体質どころか原発ありきのエネルギー施策が実は米国の思惑に乗っていたことだけは間違いない。そのうえ、さらに1973年に「第一次オイルショック」が発生したことから、国際的な情勢に影響されて不安定になりやすい石油資源依存体質のエネルギー政策からの脱却を志向して、原発開発のスピードはギアアップした。

 原発開発は世界的に原発の持つ宿命的な問題を置き去りにして推進されたが、1979年の米国のスリーマイル島原発事故、1986年、旧・ソビエト連邦(現・ウクライナ)のチェルノブイリで原発事故が起こる。そのため、世界的に原発に対する見方が厳しくなり、ドイツなどでは脱原発方針を今日まで堅持している。ドイツは2020年以降原発ゼロになっている。但し、そのドイツは電力を隣国フランスから購入しているが、そのフランスの電力は原発によって生み出されているのだから、「何をか言わんや」の感がしないでもないが。

 しかし、時間の経過とともに原発事故の記憶が薄れ、代わりに温室効果ガスの排出抑制の必要性が叫ばれるようになると、再び原発回帰の風潮となる。2011年の東日本大震災で福島第一原発のメルトダウン事故が起きると、原発に対する不信感が日本でもピークに達して、2050年までに原発ゼロにするという基本方針が国会で合意された。その後政権が自民党に戻ると合意は無視されて、現在では原発ゼロどころか、原発の新設や既存の原発の使用期限延長が平気で行われている。

 何度も言うが日本の原発は元々米国の反共プロパガンダから出発したものだ。なんでも米国の言いなりの自民党政権は、そのため東海村での商業発電開始当時から問題を先送りする形で今日に至っている。問題とは原子力開発の宿痾である放射能汚染の危険性という問題である。具体的には使用済み燃料や放射性廃棄物の処理問題であり、それが未だに解決することなく使用済み燃料も放射性廃棄物も増加の一途を辿っている。よく言われているようにトイレの無い豪華マンションに住んでいるというのが逃れられない現実なのである。

 わたし達は「前門の虎=温暖化」と「後門の狼=原発の使用済み燃料と放射性廃棄物」に挟まれているのが現実なのだ。わたし達の子や孫たちの平穏な暮らしを持続的に続けていくためには、その二つのバランスを考慮しながら、悪化の一途辿る地球温暖化にブレーキをかけるための国内政治と国際協力を図っていかなくてはならない。スエーデンの少女のように、わたし達自身がわたしたち自身の言葉として、環境施策に対してキチンと物申していかなくてはならない。そのためには、経済成長一辺倒の考え方を、そろそろ自分事として見直さなくては、近未来に取り返しのつかない事態が来ると、わたしは怖くてならない。

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2025参議院選挙の課題

⑦物価と所得

 凶弾に倒れた安倍元首相は常々「物価を2%上昇させれば、日本の経済は良くなる。国民の生活も良くなる」と言っていた。前年同月比で物価が2%どころか3.5%も上昇した現在、果たして我々の生活は潤っただろうか。また彼は「大企業を豊かにすれば、中小・零細企業も労働者も豊かになる。それがトリクルダウンだ」とも言っていた。大企業が内部留保資金として総額600兆円もため込んでいる現在、トリクルダウンは起こっているだろうか。

 景気が良くなるとインフレになるのは仕方がない。逆にインフレーション下では金回りがよくなり経済は活性化するとも言われている。しかし、インフレになっても景気が良くならない状態はスタグフレーションと呼ばれ、それは要するに景気は少しも良くならないのに物価だけが諸々の要因で上昇することであり、我々の暮らしを最も苦しめる経済状態である。正に今の日本はその状態ではないだろうか。給料は上がらないが物価が上がれば、同じ時間働いて手にすることのできる生活に必要なものが減ることになる。ローンを組んで家を建てた人は返済にも窮することになるのである。

 どうして勤勉で有能で忠実な国民性の日本人が、世界経済の後塵を拝するようになったのか。ドルやユーロはもちろん、元やウオン、英ポンドから、果てはブラジルのレアルに対してまで円安である。インバウンドがなぜ日本に押し寄せているかは、つまるところ円安だからである。インバウンドの増加などと喜んでいる場合ではないのだ。日本で普通に稼げば、外国の何処に行っても安くものが買えると実感していたのが、今や昔の物語になってしまった。

 確かに経済は一筋縄ではいかない。それでも、ではなぜこの30年もの間、日本は世界から乗り残されたのか。それにもかかわらず、どうして大企業だけが600兆円もの余剰金を懐に入れているのか。30年前の「働き方改革」は何だったのか。結局「働き方改革」という名の働かせ改革」ではなかったのか。嘘とごまかしの安倍政権時代のゼロ金利政策とトリクルダウン施策がその原因の大部分を占めているのは明白であろう。それでもなお「政策も外交も自民党だ」と嘯く候補者や党幹部の厚顔に、冷や水を浴びせなくてはこの国は持たない。

 30年も道草を食い、眠っていたがウサギが、今、目を覚ましたからと言って直ぐに先行するカメたちに追いつくことは不可能だろう。ただでさえ高齢化と人口減少の難関を乗り越えなくてはならないのだから。もちろん、嘆いてばかりでは何も好転しない。とにかくまずは我々がパラダイム・シフトして、社会の仕組みをパラダイム・チェンジしなくてはならない。

 では何を換えなくてはならないか。物価と賃金の関係性から言えば、まずは最低給料を全国平均で1500円以上にすることだ。つまり時給100ドルである。「そんなことをしたら企業は持たない」「かえって失業者を増やしてしまう」企業側、資本家側からの一方的なその論理に負けて、いや騙されてきたからこそ、今の日本社会の矛盾と苦衷がある。賃金を上げずに利潤をため込み、外国に垂れ流し状態にしているとわたしは考えている。600兆円もの内部留保金を技術開発と人材育成に使い、本当の意味でトリクルダウンさせていれば30年の停滞はなかっただろうし、必要以上に外国に日本の富が流れていくこともなかった。不労所得者や外国資本に有利な税制を日本の庶民のためのものに変えることが、まずは必要なのだとわたしは思っている。その上で、我々自身の考え方や身の振り方を考えなくてはならないのだ。

 「ハンド・ツー・マウス」は「その日暮らし」と捉えられているため、誰もが敬遠する状態だった。それも少し視点を変えれば「働いて糧を得る」ということであり、実経済そのもののことである。働くこと自体の意義と喜びもそこにある。それが米国からのドルの垂れ流しによって世界中が金余り状態となり、一攫千金の不労所得者が爆発的に増加した。金持ちになること自体は「同慶の至り」と喜んでいればいいが、金が直接金を産むためのヘッジファンドのような金融マジックを生み出して、我々にとっての生命の糧である食料や石油さえ博打の対象にして日露以上に価格上昇を招いてしまった。さらには仮想通貨などという化け物を生み出しパラレルワールドまで現出させている。それが実経済を圧迫し破壊して、給料の上昇を伴わない物価の上昇を招き、我々の首を絞めているのだとわたしは考えている。今こそ堂々と「ハンド・ツー・マウス」の暮らしを価値あるものにする。そのための労働政策と税制改革を断行すべきであり、最低賃金1500円以上ということを掲げて、そのスタートの合図にしなければならい。

 さて、物価問題と言えば、今、米価について言及することは外せない。しかし、わたしははっきり言ってアホらしくて真剣に考えることが出来ないでいる。元々、米価を市場経済原則に委ねるとしたのは、政府と自民党だが、それを大方の農家も国民も歓迎したんではなかったか。わたしも米価は市場経済原則に委ねるべきと考える。今回の米価高騰騒ぎも、確かに昨年の不作の影響はあったにせよ、やはりどこかで買い占め、コメ隠し、売り惜しみがあったからこそ起こった騒ぎである。オイルショックの時にトイレットペーパーで同じことが起こったことを、大方の国民は忘れているだろうが、わたしは今回の米騒動も、あの時の構造、あの時の国民心理と変わらないと思っている。小泉ジュニアは本来なら食用にならない古々古古米まで売りさばいたのだから、それはそれでさすがにペテン師ジュニアだと感心するだけである。しかし、事の本質は何も変わっていないのだ。冷静になって騙されないことは何も特殊詐欺対策だけではない。

 最も日本のコメは西洋の小麦とは全く違う主食以上の文化的歴史的背景があり、一朝一旦に流通システムを改革することは困難である。まずは自民党の農政族の解体、ノーキョーの支配体制の解体をどうやって進めるか、毒を以て毒を制するということであれば小泉に働いもらうことも面白い。父親の郵政民営化で日本の郵便事業は良くも悪くも大きく変わったのだから。

 とはいえまともな市場経済において、買い占めや売り惜しみが許されていいはずはない。制度を構築するとしたらその不心得者を淘汰できるような監視体制がまず必要であろう。元々、日本のコメは一年に1度しか収穫できないということを忘れてはならない。それを次の収穫期まで食つなぐのだから、供給側としても期間のはじめにはコメの在庫が最大となる。当然それが価格に反映する。期間の終わりごろには、在庫残量と市場デマンドをにらみながら出荷調整をして行くわけであるから、やはり当然価格に大きく影響を与える。さらに豊凶による生産量の変動や好不況による消費マインドの変化も加わるのだから、何らかの公的調整制度が必要だと、ノーキョーはそれを大義名分にしてきた。そのために食管法があったのだが、今更、米穀通帳をもってコメを買いに行くという時代ではないことを前提に、しっかりとこの国における食糧安全保障を考えなくてはならないのではないだろうか。

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2025参議院選挙の課題-6

⑥教育と技術開発支援

 わたしは教育こそが日本の国家安全保障の最も重要な根幹であると考えている。明治維新という奇跡ともいうべき社会の大転換期に、人口3000万人ほどの弱小国のそれを支えたのは、鎖国期の日本国内の教育熱心さを土台とする国民上げての勉学の賜物だった。江戸期の教育とは武家の藩校や素読のことだけを言っているのではない。寺子屋など町民への読み書き、商人の読み書きに加えたそろばん(算数)などもあった。明治初年の識字率は先進国であるはずのヨーロッパ列強をはるかに凌いでいたとも言われている。

 翻って考えてみると、世界的には資源のない小国である日本にとって、もっとも恵まれている資源が、優秀・勤勉・忠実な日本人であると言える。しかも、ヨーロッパの英・独・仏の何処よりも人口が多いのであるから、人的資源大国と言っても過言ではない。その資源の価値を高めるも損なうも、結局は教育制度次第とわたしは常々言ってきた。

 制度上の教育は中学までの初等教育(義務教育)、高校レベルの中等教育、大学や大学院、専門学校等の高等教育があるし、その先に官民それぞれの目的と方法論による研究所などによる人材育成と技術開発、研究開発がある。それらすべての段階がわたし達の幸福度を高めるために重要な課題である。

 まず初等教育段階である。今日、初等教育の現場は揺れている。都市部を中心に価値観の多様化の波にさらされて、小中学校への保護者の要求も大きく変化している。周辺部では少子化というより、地域社会そのものの縮小によって児童生徒数が減少の一途辿り、統廃合を繰り返しながら地域教育の拠点としての学校は衰退の一途をたどっている。

 わたしは明治初年の小学校令以来のレディメイド教育を大きく変革してオンデマンド教育を可能にする教育制度に変えていくべきと主張してきた。レディメイド教育は日本の北から南まで全ての地域で全ての子どもたちに共通の学習指導を行う義務教育の要であり、その社会的意義は大きかった。これまでの日本社会構築への歴史的貢献度は戦時中の国民学校時代を差し引いても、全体としてはやはり高かったと評価できる。

 しかし、どんな制度も時代や社会の変遷と共に変えていかなくてはならない。そして、世界的なIT革命、国際的な流動性と不確定性、そして国内的な貧富の階層化と固定化が起きている今日、初等教育制度も大きく変えるべきとわたしは考えているのだ。どう変えるかと、わたしの考えを言うには長くなるので項目的に上げるにとどめるが、具体的には①小中学校の一体化(中一ショックの解消)②進級試験の導入と卒業資格進学資格取得条件の厳格化③卒業年齢の制限廃止④授業日数などの自由化やSNS等を利用した家庭学習の選択範囲の自由化⑤夏休み期間の見直しを含めた長期休暇の有効性の見直し⑥教科書検定過程の公開⑦教員の人材確保のための制度復活(旧師範学校のような教員養成専門大学)などを上げて議会などで言ってきた。

 中等教育の主体は高校だが、現在の日本ではほぼ100%に近い就学率であり、現実的には義務教育の延長として考えるべきであろう。そのための環境整備はずいぶん進んできたと評価できる。しかも、進学系と実学系の間の乖離も解消されてきた。成績によって分けられるということでは、昔からあった差別化ではあるが、それが特に地域社会の疲弊感を助長し、人材の都市部集中の要因の一つとなっていた。それを解消するという意味で、現在の中等教育就学率100%化と成績による階層の解消への動きは歓迎できる。高学歴だけが社会を支えるわけではないし、高学歴だけがひとりひとりの幸福度を保障してくれるものではないということを、わたし達はもっと知ることが重要だろう。と同時に進学のための学習と、自分の人生を自ずから豊かにするための学習は違うということも、もっと社会全体で理解しなくてはならないテーマではないだろうか。

 大学などの高等教育についての論考はさらに長くなる。わたしは1970年安保闘争時代に大学生活を送った。1968年頃からピークとなった学生運動は、もともと東京大学病院でのインターン制度がまるで徒弟制度だと反発したことが過激化の要因のひとつだった。そのため大学の「産学協同」を否定することも運動の目的であった。産学協同とは当時の我々学生の目には「企業戦士を養成する」ことだと映っていたため、太平洋戦争時の学徒動員に共通する考え方だと抵抗感を募らせていたのだ。

 しかし、工学系、農学系などは元々産業を支える人間を育てることを目的としているのであるから、産業と学問がリンクすること自体避けることなどできない。産学協同反対とこぶしを上げること自体、それら実業系大学の学生の方に分があることではなかった。現にオイルショックによる就職氷河期が来るまでは、実業系の大学から多くの学生がそれぞれの専門分野の企業や公的研究機関に就職していった。

 その頃の国立の大学の授業料は今では信じられない話だが、年間12,000円だった。月にして千円である。その頃のアルバイト料が1日8時間で2,500円くらいだった。つまり4日バイトをすれば少なくとも授業料を払えたのである。一方でその頃、ちょうど戦後ベビーブーマーの就学年齢人口がピークに達していたこともあって、雨後の筍のように各地で私立大学が新設されるようになった。やがてピークを過ぎると、有名私学は別として、国立・公立大学と私立大学の間で学生の取り合いが始まり、私学の理事長や学長に迎えられていた政権与党の大物政治家たちの働きかけもあって、国立大学の授業料が上がり始めた。今日では一部の利益だけを目的とした大学の存続のために、多くの学生が就学苦と卒業後の奨学金の返済苦に陥ることになったとわたしは思っている。

さらに文科省が国立大学を独立行政法人化したことにも、わたしは文科省の真意に疑いの目を向けている。独立行政法人化することでかえって大学の自治は失われてしまったと感じているのはわたしひとりだろうか。独立行政法人を隠れ蓑にして、大学を国家統制下に置こうとする文科省、政権与党の思惑を見逃してはならない。

 一方で大学の産学協同研究(産学連携)については、大学の自主性に基づく限りにおいて推進するべきであり、日本の知的財産の拡大のために欠かすことのできない施策だと考えている。特許や実用新案の数が国の産業力のバローメーターであると言われている。同時に、それがそれぞれ単独の企業だけの努力、大学での研究成果だけでは容易に増やすことのできるものではない。そのためにも大学と企業が連携することが必要だろう。

 産学協同研究(産学連携)は、企業(産)と大学等(学)が連携して新しい技術の研究開発や新しい事業の創出、新しい製品の開発などを行うことを指す。政府・地方公共団体等(官)を加えて「産学官連携」とも言うこともあるように、産学協同には多様な形態がある。例えば、①産学共同である企業と大学等との共同研究、受託研究、研究式提供など②相互インターンシップ制度、教育プログラムの共同開発など人材育成面での連携③大学等の研究成果の技術移転活動④大学教職員の技術指導など研究者による学外での指導、支援活動⑤企業の経験者や専門家による大学での指導と研究⑥研究成果や人的資源等に基づく大学自体の起業等が考えられる。これらは既に多くが実現している。しかも、この6つの類型は相互に密接に関連し、同時に複数の側面を持つ活動となっている。

 産学協同や産学官連携とまでは言えなくても、大学の教員による社会的な場での発言やアドバイス、企業の社員の公開講座受講、単位取得による学位の取得、企業等からの大学等への寄附、企業の研究施設や交流施設の大学敷地内への設置や講座等の新設の動きなど、大学と社会とのボーダーレス化が進んでいることも望ましいことだ。

 これらの好ましい社会現象の先駆者であるのは米国だが、トランプのハーバード大学などへの嫌がらせを見て、日本の文科省と文教族の政治家が「こんな手もあったか」などと思うことのないよう、しっかりと見守っていかなくてはならない。

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2025参議院選挙の課題-5

⑤食料安全保障と農業政策

 食べ物はわたし達の生命を維持する基本的な資源だが、食料自給率には二つの側面がある。ひとつは純粋に経済問題として考えなくてはならない側面であり、そしてもう一つが国の安全保障上の問題として考えなくてはならない側面と言える。

 経済問題であると言えるのは、特に今日のようなグローバル経済下では、食料といえども市場経済原則によるコスパ、つまり価格と安定供給量での自由競争に晒されているということだ。国内で生産するより安ければ、それを買うのは自由市場においては当たり前のことであり、そのために各国はそれぞれ自国の事情に応じて、自国の産業を守るために躍起になっているのであり、関税その他諸々の障壁もその一つの方法論でしかない。

 戦後の日本の食糧事情を食料自給率から考えてみると、敗戦から少なくともララ物資の支援が始まるまでの1年以上、日本の食料自給率は100%だった。その間、日本はプレート型大地震や相次ぐ台風などによって飢饉状態にあった。実際に1000万人餓死説も巷に噂されていたそうだ。少なくとも1000人以上に上る餓死者が出ていた。このことでわかるように、見かけの食料自給率の多寡だけが、わたしたちの生存に寄与するものではないということだ。

 ララ物資はよく言われているような米国政府による援助ではなく、あくまで民間のボランティア活動であり、その名の通り政府によって救援物資を送る活動を公認されていたに過ぎない。LARAとはアジア救援公認団体の頭文字をとったもので、その団体から日本に贈られた救援物資がララ物資である。この団体は米国政府が作ったものではなく、敗戦直後の日本の窮状を見かねた在米日系人浅野七之助氏を中心として設立された日本難民救済会が発展的に活動を拡大させたものである。政府はその活動を公認し、物資輸送などを支援したに過ぎない。1946年11月からサンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した1952年6月までの活動で、総額400億円(当時)、その内300億円が食料や医薬品として日本に来ている。また総額の約20%が広島県、山口県、熊本県、福岡県出身の日系人によって集められた資金によって賄われた。ララ物資で贈られた食糧を契機に、日本の現在の学校給食が開始・普及したとも言われている。当時の大学卒業の勤め人の給料が500円だったので、単純計算すれば当時の400億円は現在の10兆円以上に匹敵することになる。

 1947年10月には食糧管理法に則った配給食料だけしか口にしなかった佐賀県出身の34歳の裁判官山口良忠さんが栄養失調で亡くなっている。つまり、配給食糧だけでは餓死するということだ。それでも敗戦直後当時の日本の食料自給率は100%だったのだから、不思議な話ではある。さらに考えると食料自給率39%と言われる中、今日の日本人が肥満になり、廃棄する食料が環境問題となっていることは皮肉と言えるかもしれない。

 「農業は国の基本」であると言われてきた。それは農業が単に食料やその加工原料の確保のための産業、経済活動だけではないということだ。経済活動であると同時に、国土保全という我々の生命財産に直接かかわる重大な役割を担ってきたからである。政権党時代の旧民主党や、今の立憲民主党など野党の多くは農家への直接給付制度を唱えているが、その内容は農業や農家・農業者を理解していないとしか思えない。わたしも農業に対して積極支援をするべきで、その一環として直接給付制度、最低所得保障制度を導入すべきと思ってはいるが、今、各政党が主張する制度とわたしの考えは根本的に違う。

 基本的にその直接給付も最低所得保障も税金を使ってやるのである。どんな事業や制度もそうだが公の行う事務事業は全ての納税者にとって公平であると納得してもらう必要がある。「なぜそうしなければいけないのか」「それは国がやるべきことか」「支出分に見合うだけの効果があるのか」という視点に立った評価が必要でなのである。

 その視点からわたしが旧民主党の議員たちに言っていたことがある。現在、一種~三種に分類されている農地を再編成して、地勢的な特性など生産性に関与するものだけでなく、地域性や、水源涵養、洪水対策としての治山の考え方を加味して3つに区分する。それはいずれも仮称だが、大規模農業の導入などが図れる、あるいは既に行っている農業生産地域、都市近郊などの地理的な特性を生かした交流農業地域、急傾斜地など農業生産性は低いが、治山治水や環境保全のために重要な環境保全農業地域の3区分だ。

 そして、それぞれの地域に見合った形で育成と支援を行う。農業生産地域には大規模化や農業法人化へのインセンティブを図る。そこでは産業としての経済活動としての農業を志向して、他の中小企業事業者と同レベルの公的支援を行うが、直接の所得補償はせず、営農資金貸し付け、生産物の価格安定化と備荒施策を充実させる。交流農業地域には道の駅や里の駅などの産直販売拠点を整備するとともに、農家と都市生活者の交流を促進し、相互協力関係を構築するとともにオンデマンド農業の考え方で換金作物の多品目少量生産などを奨励することで、所得向上と安定化を図る。そして、最後の環境保全農業地域では、所得補償というより、さらに一歩踏み込んで兼業可能な準公務員とすることで身分を保証するというのが、わたしの農家所得補償の考え方だ。中山間地などの棚田や段々畑、焼き畑や山岳放牧などは耕作や手入れを放棄されると、土砂災害や山火事などの危険性を増大させ、既成の洪水調整ダムなどの土砂堆積物による短命化を招いてしまう。それを防ぐことは下流域、都市部の住民にとってもメリットが大きい。しかし、そこではどうしても生産性も生活の利便性も低いため離農者が後を絶たないのが現状だ。現在少しずつ農業をしながら芸術活動をしようなどという動きが出てきている。この地域で営農しよう営林しようという人を準国家公務員とすることで積極的に奨励・支援することで、そこに元々から生まれ育った農業者の定住にも寄与できる。

 これまで筵旗は掲げて気勢を上げることはあっても結局は「それでもやっぱり自民党」と言って無為に過ごしてきた大半の農業者も、自分たちの生活を食い物にしているのは誰か早晩気が付き始めている。ところが都市生活者中心の野党議員は農業を知らないし、「コメはもらうので家には売るほどある」というように甘やかされてきた自民党の農水族と言われる一派でさえ農業の何たるかを知ろうともしない。

 もう一度言うがトランプという直ぐに二丁拳銃をぶっ放す黒船に対して、この国の安全保障を考える時、「農は国の基本」という古事・古伝を自分事として、わたし達一人ひとりが考えなくてはならない時が来ているのではないだろうか。

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2025参議院選挙の課題-4

④財政と税制

国会で論戦が始まると自民党は決まって「財源論」を持ち出す。自民党が「財源、財源」と言い、立憲民主党などもそれにつられて財源に触れたりしている。しかし、わたしは財源論はやりたくない時の決まり文句でしかないと考えている。要は支出しなくてはならい事務事業の優先順位の問題であり、収入に応じた支出を考えるのは、我々個人の家計も国の財政も同じである。

 マスメディアでも、政府の論調に沿った形で財政破綻の危険性や国債頼みの予算立案に警鐘を鳴らしたりしているが、そこにもわたしは胡散臭いものを感じている。財政破綻の危険性は確かにある、しかし、それは放漫財政、人気取り財政、米国への忖度財政だからこその危険性だとわたしは見ている。

 自民党政府は国防費を事業評価も支出に対する期待値の検証もしないまま、最優先で増額増額だと主張し、インフラ整備についても地味なメンテナンス事業よりも、手っ取り早く金になる新規事業を志向する。農業政策も票田を念頭に自民党農林族によって政策決定してきた。同じ構造が医療、福祉、教育あらゆる分野に及んで、票にも金にもならない公害対策などは「財源がない」と消極的だし、野党からの政策提言には「財源を示さない無責任」と反論してきた。

 財政について危機を叫ぶなら、今やらなくてはいけないことはもう一度きちんと事務事業評価と仕分けをして、政策の優先順位を見直すことだ。特に中国の脅威をプロパガンダに材料にして、国防予算に上限の無い状態は直ぐにでも是正しなくてはならない。自衛隊も一昔前までは来ていた衣を脱ぎ捨てて、軍服どころか鎧姿を隠さなくなっている。このまま、軍事予算を増やし続ければ強大になりすぎた自衛隊を文民統制できない日が再来することになる。

 まずは福祉・医療・教育などの民生費、水道管の更新などと言った真に必要なインフラ整備費から収入(歳入)に応じた予算編成をし、間違っても民生費より国防費を優先するなどということはないようにしなければならない。

 国債についても2024年現在の日本の国債発行残高は1213兆円、その内、外国が保有するのは1年以内の短期債を中心に144兆円である。しかもその内訳は国庫短期証券が75.3兆円である。確かに国の抱えている借金は途方もないものには違いない。米国の同年の国債はどうかというと28.2兆ドル、内日本が保有する米国債は1.1兆ドルで、1ドル145円で計算すると約160兆円である。つまり日本の保有する米国債は、日本の国債の外国による保有高よりの多いのだ。それでも日本の国債のランクが2AAからAまでランクダウンしたということの背景は精査しなくてはなるまい。いずれにしても日本の国債は割引債でもある1年以内の短期債(それが国庫短期証券だが)を除くと、ほとんど国内で保有されている。つまり日本の国としての借金は国内問題でしかない。もちろん、それでも借金が増えることは望ましいことではないが、過去のブラジルやアルゼンチン、最近ではギリシャのような破綻に陥る危険性はないと言える。

 国の収入である税についていえば、戦後レジューム(米国とその傀儡である自民党、経団連、霞が関による支配体制)を税制においても、コンセプトから大改革しなければならない時が来ている。少し考えてみて欲しいのは、高々1%ほどしか日本の経済に影響を与えないトランプ関税に泣き声を上げている大企業は、企業内留保資金を600兆円もため込んでいるのだ。実に国債発行残額の半分にも上っている。

 もっともわたしは消費税全てを廃止せよとは思っていない。税の種類は多く複雑だが、大まかに言うと直接税には法人税と所得税、住民税と事業税があり、間接税は消費税が主となる。直接税と間接税のバランスは、人口構造、産業構造などに応じて調節すべきもので、間接税である消費税をゼロにする必要はない。一昔前「贅沢税」と呼ばれた物品税的な消費税は残すべきであろう。ルイ・ヴィトンのバッグなどには10%どころか100%かけても、少なくともわたしのような貧乏人には何の痛痒も感じない。しかし、わたしはベーシック・バスケット品目は非課税にするべきと言ってきた。ベーシック・バスケットとは、スーパーで消費者が優先的に買い物かごに入れるものという意味だ。主食であるコメ、生鮮食料品、、医薬品などがこの範疇に入る。もちろん、高所得者も恩恵を受けるのだが、金持ちも庶民も必要となる生活必需品の量は変わらない。高額所得者ほど消費税免除の恩恵の割合は小さいことになる。

 そもそも、我々が重税感を感じるのは、払っている税額の問題ではない。税に見合うだけの行政サービスと安心・安全を享受しているかどうかだろう。世界を見渡すと国民の収入に比較しての税負担率はルクセンブルクの84.6%は論外としても、2位フランス(69.9%)、5位イタリア(60.8%)、13位ドイツ(54%)と続いて、日本は22位で49.9%である。G7では英国とカナダの同率25位(46%)、米国の33位(32.3%と続く。米国は低いようにあるが、医療費や教育費の高さで相殺されている。セフティーネットが充実していることで有名な北欧4カ国も全て負担率は50%を超えている。もう一度言うが、税負担もまた費用対効果、コストパフォーマンスで判断しなくてはならないし、税来なすべからく国民のためのものであって、国のためではないということをもう一度、わたし達は候補者と政党の主張を見比べながら考えなくてはならないのではないだろうか。

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2025参議院選挙の課題―3

③安全保障と国防予算:(核兵器禁止条約と核拡散禁止条約)

 日本の安全保障と国防を考える時、忘れてならない問題として、核兵器禁止条約と核拡散禁止条約の問題がある。日本は核拡散禁止条約の方は加盟・批准しているが、核兵器禁止条約の方は「唯一の被爆国」であるにも拘らず、被爆者団体などの要請に対しても知らん顔で通している。「米国の核の傘の下にいる恩恵を受けているのだから」というが、苦しい言い訳にすぎない。被爆国日本だからこそ、すでに加盟・批准している90カ国の先頭に立って、核廃絶を訴えなくてはならないはずだ。

 もっとも米国の植民地としての地位に甘んじている限り、国際的な信頼を得ることは難しいことではある。凶弾に斃れた安部元首相の祖父岸元首相の代までは、日本国内の米軍基地に核爆弾があったと疑われているし、沖縄が返還されるまでの沖縄の基地には間違いなく持ち込まれていた。さらに70年の日米安全保障条約改定後も、横須賀や佐世保に入港する空母には核が積まれていたという。そんな状態では「偉そうなことを言うな」と一部の国から言われても仕方がない。

 しかしだからこそ、正論は正論として「核兵器を完全に廃絶せよ」と、日本が真っ先に言わなければならないのではないか。核兵器の使用が人間世界の破滅に繋がることはすでに周知のことであるし、米露だけでも地球そのものを破壊し尽くすことが出来る核兵器を保有していることも、知っている。トランプやプーチンの登場によって、それが人類にとってどれだけ危険なことか、改めて思い知らされている。

 核拡散禁止条約は「強大な国だけが核を持つことを許される」という身勝手で、横暴極まりない主張に基づいている。しかも、その身勝手さが実質的に他の国の核兵器開発を容認することに繋がっている。既にインド、パキスタンは保有を公表しているし、イスラエルは公表していないものの、周知の事実として保有していることを隠していない。北朝鮮も既に保有している。保有を認められている5カ国の一つとはいえ、ロシアのプーチンは西側諸国に対して、ウクライナ侵略後も度々、核兵器使用の脅しを掛けている。

 使えば破滅とわかっている兵器にしがみつく国々にも呆れるが、その国々、特に一応同盟国である米国に対して、「現実肯定」「敗戦後レジュームの踏襲」を理由に盲従しているに等しい外交姿勢では、どんなに善隣外交、平和主義と唱えても国際社会の信頼を確保することは難しい。戦後レジュームからの脱却が言われるようになって久しいが、未だに脱却どころか「茹でガエル」になるのを待っているのに等しい状況だ。今度の参議院選挙では日米安保条約も地位協定も核廃絶も論点となっていないが、この国を敗戦国、米国の植民地の地位から脱却するために、そろそろ、わたしたちは声を上げ、行動しなくてならない時が来ている。

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2025参議院選挙の課題―2

②安全保障と国防予算―1(日米安保条約の本質)

 マッドマンが日本への25%の相互関税という一方的なムチが8月1日から発動されることになった。日本経済への影響は輸出総額の15%が米国向けであることから、GDPを0.8〜1.1%下げることになると予測されている。

 それはそれで深刻と捉えるか、そんなものだったかと安堵するかは人それぞれだろうが、それでもわたしは石破首相の「安易な妥協はしない」という姿勢を評価する。石破首相、岩屋外相、赤澤特使の3人組はよくやっている。情けないのは日本のメディアの方だ。全ての局がも新聞も「困った困った」と口をそろえるだけで、トランプの無礼千万なブラフに憤るコメントは見当たらない。

ここで考えなくてはならないのは、今後とも米国を日本の安全保障の要と考えていいのかどうかだろう。少なくとも、相互関税によって日本が損失を被る分、日米同盟の合計の損失となる。「思いやり予算」などというふざけた名分でつけている在留米軍への駐留費負担額から差し引く位のことをいう政党があってもいいのだが、共産党も含めてどの党も言わないのは何故か。政治家は皆、この国が米国の植民地から脱却していないという現実を知り抜いているからだろうか。それならそれで、その本質を国民に暴露して判断を仰ぐべきだろう。

 日米安保条約の本質は日本の国防を保障するものではなく、日本を反共戦線の最前線に立たせようとするものである。降参した敵軍を新たな敵に向けて最前線に立たせるというのは用兵の基本として、洋の東西を問わずやって来た常道なのだ。米国もそれを踏襲しているだけと思っているのだろう。日本に原爆を落としたトルーマンは広島・長崎の惨状を知って「広島・長崎の獣たちを見せしめにしなければ、米国の若者がさらに100万人、戦場で命を失ったのだ」と強弁しつつも、政治家としての想像力のなかった自分を恥じ、朝鮮戦争で核使用を求めたマッカーサーを解任してまで使用を許さなかったという。

 今回の貿易交渉中にトランプはわざわざ広島・長崎への核攻撃が戦争を終わらせたのだと高言して日本人の心を逆なでした。自分のイラン攻撃を正当化するためとはいえ、彼に日本を「対等の」のパートナーなどと言う考えがないことを露呈したことになる。いざとなればいつでも相手を「獣たち」としてしまうことは、ガザの現状に対するトランプのせせら笑いを見ればわかることだ。

 幸いなことに今、「米国至上主義に立ち戻った米国世論」を背景に、日本は防衛費を増額すると同時に、在留米軍にもっと金を払えと言っている。「おっしゃる通り、日本は日本で守るから、米軍にはお引き取り頂いて結構」という腹構えが、今後の交渉には求めらるだろう。

 「そんなことを言ったって、米軍がいなくなったら、誰がこの国をも待ってくれるのだ」という意見が自民党の党是であるようだ。しかし、では本当に米国が、いや米軍が日本を守るために駐屯しているのか考えなくてはならない。ウクライナに対する米国の対応を見せつけられた上に、さらに相互関税25%を突きつけられて、まだ米国が白馬の騎士だと考える日本人はどのくらいいるのだろうか。

 大体どこの国が日本を欲しがるというのだろうか。近隣の中国、ロシア、北朝鮮がそれぞれ尖閣や大陸棚、北方四島、竹島という領土問題を抱えているとはいえ、ではこの3国は日本の仮想敵国なのだろうか。これらの領土問題は永い歴史的経緯や敗戦という要件が、交渉を複雑にしているというが、国際法の枠組みでの交渉ができないわけではない。その国際法を無視しようとしている最大の国がトランプの米国であることを、わたしたちはもっと重大に考えなくてはなるまい。

台湾有事の際には日本領土へのとばっちりがあるというが、それもまた結局、沖縄に米軍基地があるからこその危険性である。しかも、その中台対立も、戦後レジームの中で、その時々の米国のご都合主義によってもたらされたものだ。

 日本の国防予算は増大の一途を辿っている。米国はさらなる増額をせよと迫っているが、仮にそうするならば、その分、米軍のプレゼンスの縮小を主張するべきだろう。少なくともトランプの論理を逆手にとって、日米地位協定の破棄もしくは大幅な改定を要求する好機とするべきだろう。沖縄の人々をまたあの阿鼻叫喚の中に陥れることだけは金輪際やってはいけない。それだけでなく、沖縄県人の安心安全な生活のために現状を少しでも変えなくてはならないと、今度の参議院選挙でも、わたしは大きく声を上げたい。

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2025参議院選挙の課題―1

①少子化対策

 まず間違ってはいけないのは子どもはその存在が社会全体の活力のバロメーターではあっても、年寄りの生活保障のためや、企業にとって必要な労働力と消費市場の確保のための存在ではないということだ。「高齢者のために子どもを産んでくれ」「企業の労働力確保のために子どもを産んでくれ」「GDPを目減りさせないために子どもを産んでくれ」などという考えは、それそのものが戦前の「産めよ増やせよお国のため」と同じ、軍国主義を肯定するものだと、わたしは考えている。

 戦争中の産めよ増やせよキャンペーン、敗戦直後のベビーブーム、丙午問題など種々の要因が重なって、日本の人口増加は急激と同時に歪なものになった。しかし、今のキノコ型人口ピラミッドを構成する高齢者層はあと30年もすればいなくなる。ほんの30年みんなで我慢すれば済む問題であり、そのために子どもを産んで欲しいなどという論調は言語道断である。

 安定的な人口ピラミッドとはお寺の鐘型が良いとされている。あと30年で人口は7千万人前後まで減ると覚悟しなくてはならないが、そのかわり日本もその安定型の人口ピラミッドも実現できるのだ。今、目先の不安に駆られて、苦しみを先延ばししようとする無能な政治家と高級官僚たちにはお引き取り願わなくてはならない。現在のキノコ型人口構成になることは1970年代から専門家の言ってきたことであり、それに一顧だにしてこなかったのは誰なのか。

 人口が減れば就労人口も経済市場も縮小するというが、これにも騙されてはいけない。人口が減ってGDPが縮小しても、一人当たりのGDPを確保、あるいは増やすことは可能なのだ。人口が減ってもそれだけでわたしたち一人ひとりの生活レベルは低下することはない。英仏伊などの国々の人口と経済力を考えれば容易に証明できることである。

 誰が自分の親や祖父母でもない高齢者の生活を支えるためと言われて子どもを欲しがるだろうか。家業の後継確保というのならともかく、誰が企業のために企業に雇用される労働者を産みたいだろうか。企業の作った製品を買う市場の確保のために子どもを産みたいと思うだろうか。

 子どもを産むか産まないかは個人の選択権であり、憲法で保障された究極の基本的人権である。現状の不確定要素の多い国内社会、未来に不安が多い国際社会下で、子どもは産みたくないという判断をすることを攻めることはできない。むしろ、政治家は須くそう言われる世の中にしてしまった自分たちを自省し、子どもを産んでもいいと思える社会の実現を考えるべきだろう。

 では何をするべきか。わたしは少子化対策とは産みたいと思ってもらえる環境づくり、産もうと努力する人たちへの支援、生まれた子どもがスクスクとイキイキと育っていける環境づくりに尽きると考える。産みたいと思う世代への周産期医療支援、生まれた子どもの社会全体、地域コミュニティー全体での子育て支援、子どもの心身ともの成長支援である。「産んだらなんぼやる」「3人目からは生活保障しましょう」というニンジン政策ではない。それはそれであってもいいのだが、必要なのは社会全体での支援である。その社会全体の支援というのは政府や自治体だけの支援というのではない。繰り返すが子どもが育つ環境とは地域であり、地域のコミュニティ―であり、子どもが育つ場所の自然環境保全である。

 「だからどうしようというのだ」と思っている方にはお願いした。是非、最後の⑧まで我慢して読んで頂きたい。その上で、あなたの思う人に投票していただければ、わたしの望むところだ。

 わたしたち一人ひとりの、この国の未来に対する責任感の在りようが選挙の投票行動を通して問われているのだから。

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レオン・マシューの童話館

ゾウのベハティとネズミのザワディ

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