わたしの政策談義                      6.日本の安全保障について

 外交」とか「防衛」なんていうことは本来、地方議員が云々する話ではないかも知れません。そのことはよく判っているつもりです。わたしは市議会議員に初当選以来これまでの26年間、質問に立たなかった議会は一度もありませんし、常に持ち時間を一杯に使って論議してきました。それでも国の専権事項である外交や防衛に関する問題を市政の論議の場で取り上げたことはありませんでした。安全保障という言葉そのものはわたしの質問でも何度か取り上げてきましたが、それは「食料安全保障」や「情報安全保障」などに限ってきました。しかし、これまでの自分の国内外での経験について振り返る時、わたしなりに考えるこの国の在り方、また、外のから見てきた自分の国の姿について語ることも、少なくとも人生70歳の坂を越えた爺さんに残された社会奉仕の一つではないかと思うようになりしました。

 日本の安全保障という時、真っ先に挙げなくてはならないのが日米安全保障条約であり、その付則である「日米地位協定」だとわたしは思います。まずはそのことから聞いていただきましょう。「日本は自主外交を展開しなくてはならない」と言われて久しいのですが、その自主外交についてわたしたちが考える場合に真っ先に考えなくてはならないのが、そこに立ちはだかる日米安保条約と地位協定の存在であることは論を待ちません。わたしたちが知っている日米安保条約は1960年に岸信介政権下で結ばれた「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」のことであり、それが今日まで続いている安保条約です。

 一方、1951年にサンフランシスコ条約によって、日本の独立が認められた時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結されていました。この条約はたった5条からなる単純なものですが、日本独立後も占領軍が駐留軍と名前を変えるだけで「望む数の兵力を」「望む場所に」「望む期間」駐留させる権利をアメリカ合衆国(当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスの発言)が確保するためだけのものでした。それは言ってみれば、それまで繰り返されてきた米国の、国としての気質そのものが反映されたものでした。要は単純に(それだけに露骨に)米軍が引き続き日本国内に駐留し続けることだけを明記したもので、条約の期限は無し、米国が日本国を防衛する義務は無し、日本で内乱が発生した時には米軍が鎮圧(内政干渉)するというものでした。

米国人の気質というのは別の言い方をすると、米国人の欺瞞的、二重人格的気質です。つまり米国人は国内的に徹底した民主主義を装いながら、国際的にはまるで古代ローマ帝国の再来として、帝国主義的なふるまいを何の躊躇もなくやってのける気質です。第二次世界大戦以降だけでもベトナム戦争、イラク戦争、リビアへの軍事介入などなど、その具体例は枚挙に暇はありません。1970年の安保条約再批准の際、それに反対する側がシュプレヒコールで「米帝」とか「アメリカ帝国主義」と連呼していましたが、当時の東西冷戦状態の中とはいえ、ベトナムでの米国のふるまいを考えれば、米国が「世界帝国」を自任していながら、自国内では民主主義の体現者をふるまっているという二重人格性を思い起こさざるを得ないのです。

 1960年に岸信介とアイゼンハワーによって交わされた現在の安保条約は、その批准のための国会が大荒れとなり、批准に反対する学生が国会に突入しようとして女子大生1人がなくなるという悲劇も生まれたため、安保と言えば多くの日本人がこちらを思い浮かべることでしょう。旧安保条約は前文と条文5つでだけでしたが、新安保条約は前文と条文10条になりました。しかし、第6条の条文に「在日米軍について定める。細目は日米地位協定に規定される」とある地位協定が、今日まで続く我が国の社会的矛盾と欺瞞の、まぎれもない根本原因なのです。まさに日米安保条約とは米国に治外法権どころか、日本全土を租借地同然に差し出しているに等しい不平等条約であり、日本の外交政策上の最大の禍根であり、明治初年の先人たちがやったように、あらゆる知恵を注いで不平等条約を解消し、その上で改めて平等・対等な同盟関係を構築するべきではないでしょうか。

 日米地位協定とはつまるところ、日本の敗戦直後から日本に占領軍として駐留してきた米軍の地位を、そのまま日本が認めるという屈辱的な協定です。この協定によって守られるのは米軍人、軍属、その家族であり、米軍の日本国内での行動の自由であって、日本人の安全や知る権利を保障するものではありません。重ねて言いますが、日本国内でありながら、米軍基地内は租借地であり治外法権の地です。それどころか米軍関係者やその関係する事案(米軍人による犯罪や交通事故、軍用ヘリコプター墜落などなど)は、租借地外においても日本国の法権力が及ばないことになっているのです。わたしたち日本人はそのことに気が付かないふりをし続けることで、確かに冷戦時代のこの国の安全を保障し、敗戦の焼野原から高度経済成長を実現しました。特に1960年代から1980年代まで大いに繁栄を極めてきました。しかし、東西冷戦がソ連の崩壊によって一歩的に終結したとたん特に小泉政権以降今日まで、日本の富とそれを支えてきた技術力は、米国と米国のビッグファミリーや投資ファンドによってむしり取られ続けてきました。そのことは、まだ外国にいた頃からわたしは機会あるごとに言ってきたことです。なぜなら、わたしの働いていたブラジルやその他の南米諸国、あるいはエジプトでさえ、経済援助を享受しているはずのそれらの国で、米国が嫌われていることを体感していたからです。しかし、バブル期の狂騒の期間中はもちろん、バブル崩壊後の混乱の中でも、わたしのその警告は螻蛄の鳴き声ほどにも誰にも届きませんでした。

凶弾に倒れた前首相の執念がそうさせているのか、岸田首相の熱意なのか、最近になって改憲論議がさらに実現性を帯びてきました。しかし、わたしは長年、改憲の前にまず日米安保条約と地位協定の改定ないしは破棄が必要であると考えてきました。特に日米地位協定は明文化されて公表されているうわべだけでなく、所謂「密約」というものがあることが問題なのです。何が問題化と言えば、その「密約」によって日本での米軍の存在を実質日本国憲法よりも上位にあると規定していることです。憲法よりも上位にあるのですから、米軍にとって日本の国内法などは存在しないも同然ということになります。

 例えば「航空法」という国内法があります。これによって航空機の飛行経路、飛行高度などは非常に細かく規定されているのですが、米軍の飛行機はこの法律からも除外されてます。従って米軍がそうしたいと思えば、日本中の好きなところを好きな高度で飛ぶことが出来ますし、それに対して司法に訴えようにも地位協定がある以上、裁判所は取り合おうとさえしないのです。ずいぶん昔の話ですが、旧安保条約が日本国憲法に照らして違憲か合憲かが争われた砂川事件というのがありました。東京地裁は違憲との判決だったのですが、これに対して高等裁判所を飛び越して最高裁判所が「米軍駐留を定めた安保条約は高度の政治性を有しているから司法裁判所の審査にはなじまない」という訳の分からない理由を付して、安保条約が合憲か違憲かについての判断はしないまま、原判決を破棄、東京地裁に差し戻しました。そのくせ「外国軍隊は憲法第9条にいう戦力にあたらないから米軍の駐留は憲法に違反しない」と米軍の駐留については合憲と判断しているのです。この最高裁の判断に依拠する形で、以来、日本国内の米軍は日本国憲法より上位にあるとされてしまいました。この最高裁判断が1960年の日米安保条約の調印のひと月前だったことも、判決が何事かを象徴していると言わざるを得ません。

 オスプレイが在日米軍に配備された時、大分市を含めて市街地の上空を低空飛行するオスプレイの騒音が問題になったことがありましたが、米軍機が訓練や移動のために飛行をする場合、日本国中どこでも飛ぶことが可能であることは既に述べました。ほかにも、わたしたちの記憶に新しいところでは2004年に普天間基地隣接地の沖縄国際大学構内に米軍のヘリが墜落する事故がありました。普天間基地は米国が自国以外に設置している唯一の海兵隊基地ですが、事故後どのような経緯をたどったかということほど、沖縄ひいては日本の置かれている状況を物語っていることはありません。

 さらに言えば、普天間基地の移転問題で、当時の鳩山由紀夫首相が「できれば国外、最低でも県外」と言った時の日本の官僚による悪意のあるリークとサボタージュ、それを増幅する形で「鳩山おろし」を煽ったマスメディアも、主権を有する国のはずの日本の時の首相が米軍の意向に逆らったらどういう目にあわされるかを見せつけた共犯者だったと、わたしは今でもそう思っています。それがまさに日米の地位協定に描かれていない「密約」の存在を裏付ける動かしがたい証拠だったのです。しかしその時も、リベラル系の政党、リベラル系のマスメディアでさえ知らぬ顔をして鳩山おろしの大合唱になったのです。

米国が国外に設けている海兵隊の基地が普天間以外にないと言いましたが、米国内には2カ所あります。そしてそのどちらの基地からも、飛び立つ海兵隊のヘリコプターやオスプレイは米国人の住む市街地上空を飛ぶことはありません。海兵隊であっても米国内の航空法は遵守する必要があります。それが日本に来ると日本にも確かに存在している日本の航空法などはお構いなしに好き勝手に大学どころか小中学校もある市街地上空を飛び回っているんです。

 だからこそ日本が自国の安全保障を本気で考えるのであれば、憲法改正よりも先に日米安全保障条約と地位協定についてきちんと評価と検討をしなくてはならないはずです。少なくとも存在そのものは既に公然となっている「密約」の存在を認め、米国が自国内では公開している「密約」について、その内容をつぶさに公開しなくてはならないでしょう。

 鳩山首相の話をしましたが、日米安保条約成立後、わたしの知る限り3人の首相が日本独自の安全保障構想を抱いていました。1人はロッキード事件という米国の仕掛けたハニートラップで退陣を余儀なくされた田中角栄であり、その次は社会党・新党さきがけとの連立政権について、訪米中に米国から注文をつけられたことで退陣した細川護熙、そして前述しました鳩山由紀夫です。鳩山首相の場合、繰り返しますが一国の首相が沖縄から基地負担を軽減するために「最低でも県外」と発言したことによって、霞が関官僚たちの裏切りに会い退陣せざるを得なかったということを、憲法論議の前にわたしたちはもう一度思い出して、それが何を意味するのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。

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わたしの政策談義                     5.「矜持」と「正論」の国、韓国と北朝鮮

 朝鮮半島には同じ民族でありながら、南北ふたつの国に分かれて未だに戦争状態を続けている人々がいます。わたしはその南北の境界線を訪れたことがあります。そこには幅4キロの非武装地帯が北緯38線に沿って延長約248km設定されていることは周知されており、その非武装地帯と呼ばれているはずの約1000平方キロの帯状の土地には、200万個の地雷が設置されているのです。そのおびただしい地雷を思い浮かべるとき朝鮮半島が置かれている現実の恐ろしさと悲しみをいやが上にも感じてしまいます。

 オドゥサン統一展望台という場所からは漢江(ハンガン)とイムジン河の合流点を挟んだ対岸に、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の「宣伝村」と呼ばれる区域を望むことができます。今ではその場所に立派な展望台が建っており「統一念願室」という展示室もあるそうですが、わたしが行った時は小さな公園のような場所で、遠くから宣伝村を備え付けの双眼鏡で眺めるだけでした。大韓民国(以下韓国)側がことさらに宣伝村と呼んでいるのは、双眼鏡の視野に展開されているトラクターで耕している農民姿の北朝鮮の人々が実は皆工作員で、北朝鮮の国内情勢が平穏で豊かであるということを見せつけるためだけに働いているというのです。その証拠にトラクターはいつも動いているのに、何かの作物が育つことや、まして収穫することなどは見ることがないそうです。そこにもまた南北の人々の悲しみと統一への叶わぬ願いが感じ取れます。

 北朝鮮は韓国から宣伝村と揶揄されても、とうの昔に嘘のばれてしまったプロパガンダ舞台劇「明るい農村」を演じ続けるという子どもじみた矜持(プライド)を捨てきれいないのは、自分たちの建国した国は理想の国であり、地上の天国であるからこそ、その幸福を南の同胞とも分かち合いたいと、少なくともそう主張したいからでしょう。一方で韓国側は、国連軍とはいえ米軍の駐留がなくては、世界に冠たる経済大国として自他ともに認めるほどの繁栄も、かりそめのものになってしまうことを承知のうえで、自分たちが統一を希求しているのは民主的な民族自立のためなのだという正論を声高に言い続けざるを得ません。そのそれぞれの想いと立場を、隣国の住む我々としては惻隠の情をもって理解しなくてはならないとわたしは常に考えています。

 朝鮮半島もまたロシアとは違う意味で、つらい、悲しい歴史の連続でした。中国史に朝鮮半島の存在についての記載が初めて出るようになってから今日に至るまで、朝鮮半島に住み暮らす人々が、異民族の支配、若しくは屈辱的な圧迫下に置かれていた期間に比べて、たとえそれが独裁であろうと暴政であろうと、戦国時代のように互いに分立していがみあっていようと、少なくとも自分たちの民族だけで自決できていたという期間は圧倒的に短かったのです。

 勿論、新羅は約400年続いていますし、李氏朝鮮は約500年続いていました。しかしその時代ですら内実は、絶えず侵略者からの攻撃にさらされ、暴力と収奪の被害者としての繰り返しだったのです。日本もまた、豊臣秀吉の2度の入寇と20世紀初頭から敗戦までの併合という名の植民地化などなど、何度も加害者の側に立ちました。遊牧民族だった契丹国、北方の女真族や満州族、さらには元による破壊的な征服などなど、その歴史は常に異民族から侵害され続けていたことを今更ながら考えてしまいます。

 ロシアは広い広いユーラシア大陸の中の真只中に広大な領土を有していました。そのために東西両方からの度重なる圧力を受けざるを得なかったのですが、朝鮮半島はそのユーラシア大陸から見れば盲腸の先にぶら下がっている虫垂ほどの小さな小さな地域です。しかし、それでもなお不幸なことにユーラシアと陸続きにつながっていることが、朝鮮民族にとって地政学的な不幸の根源だったのかも知れません。

 ところで朝鮮という呼称は古い時代の「潮汕」という名称に由来する古朝鮮語の音写だそうです。その音写である朝鮮という名前は中国との交流(若しくは圧迫)が始まってから、中国側によってつけられたものです。鮮という字には2つの殆ど真逆の意味があり、その一つは「鮮やか」という訓があるように「新しい」とか「際立って美しい」という意味、つまり朝の来る方角(東)の美しい国という字を当てていることになります。しかし、もう一つの意味は論語の「巧言令色鮮仁」にあるように少ないということです。つまり中国側から見て「朝貢鮮小(朝貢が少ないの意)」と揶揄するための当て字という説もあるのだそうです。韓国の「韓」については春秋戦国時代以前から漢民族の一般に「韓」族がいて、その一部が本国の混乱のために東方に逃れてきたとも伝えられていますので、むしろ由緒正しい呼称を朝鮮の側で名乗ったのではないかと想像できます。

 日韓併合が大日本帝国の無条件降伏によって解消された後、朝鮮半島はめでたく独立ということになるはずでした。ところが実際は第二次世界大戦終了後の主導権争いを始めた米ソの思惑によって代理戦争の実験場と化してしまいました。1948年には半島の南北でそれぞれが傀儡政権である「大韓民国(韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」が樹立され、朝鮮戦争という同族相食む悲劇を経験して今日に至っています。

 半島の人々が日本に対する反感を抱き続けることは仕方のないことでしょう。明治期に日本が戦った日清・日露の両戦争は朝鮮半島をめぐる日本の安全保障上の危機感がその最も大きな要因でした。しかし、それはあくまで日本側の都合です。謂わば民族的にも文化的にも最も近しいはずの隣人で、しかもその文化は青銅器や鉄器、文字や陶器・磁器などなど全て半島側から日本側に伝えられており、謂わば日本は教えられた側です。理由が何であれ親戚でもあり、師匠筋でもある隣家に土足で侵入し、家人に無礼を働いたことは間違いのないことです。併合期間の半島の識字率の向上や、産業の発展などなどいくら併合時代の日本の治世の成果と功績を掻き口説いたところで、やられた側からすれば許せることではないのも当然です。戦後の日韓関係は氷河期と雪解け時期を繰り返してきました。韓国国内の政治的な対立、与野党の攻防は凄まじいもので、どちらかが親日路線を取れば、必ずその反対勢力は日本を敵視することになります。その繰り返しには日本人ならずとも誰でもうんざりするというのも正直なところです。

 明治時代に併合を決断した日本の責任者や、それから1945年までの併合時代の圧政の責任者は、その当事者たちは勿論、その事実を実体験的に知っている人々さえも今となってはほとんどいません。しかしながら、事実は事実として国内的にも対外的にもきちんと評価してこなかった日本の戦後政治にも大きな責任があることは否めません。

 韓国は1992年以降、日本海を「東海(トンヘ)」と改称または併記するよう、国際水路機関や国際連合地名標準化会議の「大洋と海の境界の改訂に関する会議」に働きかけるようになりました。その主張は国際的な理解を得られるものではありませんが、それよりもわたしは1992年という時期に注目しています。その年はそれまで3代続いた軍事政権最後の大統領慮泰具の任期が終わり、金永三が金大中などの対立候補を破って民衆政権初の大統領となった年です。周知のされているように金大中氏は親日派でしたが、金永三氏はその反対勢力であり、しかも金大中氏と大統領の椅子を争う戦いのためにそれまでの軍事政権と手を結んでいました。

 民主化後初の文民大統領であった金泳三氏ですが、戦後何かにつけて世論受けが良かった反日キャンペーンを選挙戦に取り込みました。日本側の歴史認識を問題にして、常に攻撃的な反日姿勢を示していたのです。それは韓国民衆の心情を捉え、共感を得、選挙運動としてのエネルギーにも転嫁することができました。「東海」もまたその一環として持ち出されたものではないかとわたしは考えています。

 面白いのはこの問題に対する北朝鮮の立場です。彼らも日本海という呼称には嫌悪感を露わにしていますが、北朝鮮の主張は「朝鮮東海」という呼称です。「東海」というのは中国では東シナ海を指す名称であるため、中国の東海と区別するために「朝鮮東海」としているのでしょう。北朝鮮と言えば「強弁」の国と思われがちですが、彼らは彼らなりに中国に忖度しながら彼らの正論を主張しているのです。

 そう言えば、韓国も北朝鮮も日本からの解放後、日本語由来の言葉をそれが感じであっても使わないと宣言しました。韓国はその宣言通りに慎重に言葉選びをして来ましたが、北朝鮮の方は例えば国名の漢字表記である「朝鮮民主主義人民共和国」の内、「民主」「主義」「人民」「共和国」などは日本で生み出された和製漢語です。北朝鮮の主張に従うなら、本来なら排除されるべき熟語のはずです。しかし、これらの熟語は全て既に中国で普及しており、北朝鮮としては中国をお手本にしてのことだと言うのでしょう。まことにおおらかというしかありません。

尹錫悦大統領の訪日で、日韓の雪解けと期待しているのは、わたしひとりではないはずです。しかし、どこの国でも大なり小なりそうですが、とりわけ韓国の外交というのはこれまでも繰り返されてきたように内政の都合によって大きく左右されます。韓国側には与野党ねじれ状態という内憂があり、日本側にも統一地方選挙直前の政治キャンペーンという事情があります。韓国が既に日本を凌駕するほどの経済力を有していることは国際的に周知のことです。日本経済研究センターでも個人の豊かさを示す1人当たりGDPが2023年には韓国を下回るとの試算を公表しています。日本の経済が停滞している間にデジタル化が遅れ、労働生産性が伸び悩んでいた上に、ウクライナ戦争の世界的なエネルギーと食糧の供給危機の高波をもろに受けた円安・ドル高の影響とはいえ、日韓の経済力が拮抗していることは間違いのないことでしょう。

 北朝鮮が如何に派手な脅迫的なパフォーマンスを繰り返しても、所詮は遠吠え以上のものにはなりえません。自爆的に道連れにしようとでも考えない限り、北の暴発はあり得ませんし、脅しを繰り返しながら自爆的な行動だけはとらないというサインが、あの金正恩がどこに行くにも連れている可愛いらしい女の子ではないかとわたしは思っています。

 東アジアを取り巻く情勢に誰かが火をつけるとしたら、そのカギはむしろ米国が握っていると言えます。日本が最も近しい同盟国というのであれば、日本としてはその近しさを利用して米国の思惑を常時注視し続け、きちんとした情報分析に基づきながら、米国のビッグファミリーなどの死の商人たちの暗躍に歯止めをかけて行かなくてはならないのではないでしょうか。

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4.「人民」と「秩序」の国中国

 もうずいぶん前のことですが、大分市農業委員会の中国新疆ウイグル農業視察団に同行させてもらいました。わたしは中国の想像を絶するような人口密度に恐れをなして、それまで中国大陸へ行くことはありませんでした。大分市と武漢が友好都市ということで、何度か節目の年に誘われましたが、それでも行く気にはなれませんでした。しかし、一方で漢詩の世界には憧れのようなものを抱いていましたし、とりわけ王維の七言絶句「送元二使安西」の一節「西出陽關無故人(西のかた陽関をいずれば故人なからん)」の「陽関」が長年の行きたい地の一つだったのです。

 その旅での目的はウルムチ地方のカーレーズと呼ばれる農業用水システムとそれを利用した農業生産地を視察することではありましたが、目的地のウルムチ市とトゥルファン市に行く前に、まず敦煌市に行きその郊外の念願の陽関を訪ねましたし、ウルムチの博物館では楼蘭の美女の木乃伊も見ました。しかし、その旅で最も印象に残ったのはウルムチの高級ホテルで開かれた歓迎レセプションでした。それまでもトゥルファンの農家では少女たちがウイグル族の踊りを見せてくれ、同行した大分市の農業委員の方たちはその可愛さにチップをはずんでいました。農業視察団とはいえ、まさかホテルの広い会場でウルムチ市の公式の歓迎レセプションを開いてくれるとは思いもしていませんでした。

 ここでもウイグル族の踊りや音楽などのプログラムの後、ウルムチ市の幹部らしい方のご挨拶も頂きました。その内容は通訳の日本語が分かりにくかったこともあって、ほとんど覚えていませんが、それでも強く印象に残ったのには訳があります。その一つはわたし達のような市レベルの農業委員会の視察団に対しても公式の歓迎レセプションを開いてくれたという中国のホスピタリティーの高さです。まるで遣唐使時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を抱いました。しかしそれ以上に心に深く残ったのは、歓迎のプログラムは新疆ウイグルの地元民であるウイグル族らしい彫の深い美男美女で構成されていましたが、挨拶になった市の幹部はわたしたちがよく見る中国人、つまり漢族の人だったということです。

 新疆ウイグルは自治区です。自治区の人口はわたしが訪問した当時でも2000万人(現在は約2500万人)を超えていたのですが、その時の人口比もウイグル族45%、漢民族 41%であり、ウルムチ市は人口300万を超す自治区首都です。自治区である以上、わたしは自治区の高級幹部もウイグル族から選ばれているものと思っていました。その後、この地で起こっていることを報道で知るたびに、あの時の歓迎レセプションを思い出してしまいます。

 中国は人民の国です。文明が発祥するためにはいろいろな要因が必要となりますが、人口も必須の条件です。中国に文明が発祥した時から人口は相当な数だったことになりますし、世界中に文明と呼ばれる場所がありますが、中国を除く他の文明と中国文明が大きく違うのは、その人口の推移です。過去の文明の地はそれなりの人口を今でも抱えてはいますが、中国以外の文明が発祥した地もそれなりに人口は増えているようです。しかし、それに比べて中国は正確な人口統計が出来ずに推計するしかなかった殷や秦の時代の人口、1000万人から2000万人から、今日の13億に至るまで、時代時代の事情によっていくらかの増減を繰り返しながらも、増加の一途を辿ったわけです。一歩で人口が多いということ自体が、中国に宿命的な問題を包含させることにもつながっています。

 少なくとも約3000年にわたって人口が増え続けたということは、為政者が人民を大切にしてきた証拠です。ロシアのように権力者の暴力的な苛斂誅求によって人口が抑制され続けてきた国と正反対なのです。その人口の食を支えること、つまり人民に食べさせることに歴代の王朝、政権は腐心していました。それを忘れた為政者は滅ぶというのが中国の歴史上の必然でした。だからこそ、わたしは中国を人民の国であると考えるのです。

殷・秦の時代から為政者たるもの人民の生活を保障するということを忘れてしまえば、あっという間に滅びてきたのです。

 但し、為政者が人民として意識しているのは漢民族だけでした。文明発祥の時はともかく時代が下がるにつけて形成されていった所謂中華思想はある意味すさまじいものです。中国の中心部中原に住む漢民族の支配する地域を除く、四方八方全ての地域に住んでいる人間を人間とは考えていなかったのです。つまり人民とはイコール漢民族であり、それ以外はたとえかたちは人間でも人とは見ていなかったのです。今では死語になっていると信じたいのですが東夷・西戎・南蛮・北狄という言葉が中国にありました。東西南北の周りを全て人のかたちをした獣や、朝貢してくる獣よりはいくらかましな野蛮人に囲まれていると考えていたのです。

 一方で中国の為政者は本質的には膨張主義者、領土拡大主義者ではありませんでした。西方や北方の地平線の彼方から突如馬に乗ってやってくる野蛮人から、自分たちの大切な農地を守ることだけに心血を注ぎ、ついに万里の長城まで築くほどでしたが、少なくとも始皇帝の時代から毛沢東の時代まで、彼らの安全保障の眼目は如何に自国民の食の基本である農地を守るかにあったと言えます。

 最後の王朝である清が辛亥革命によって滅ぶことになった後、しばらくはまるで春秋戦国時代のような混乱期もありましたが、国共内戦に現在の新中国が勝利した後、毛沢東が打ち出した「下放政策」も行ってみれば当時の食糧難の可決策としての色合いの濃いものだったし、さらに実は特に西側と北側の国境線が中国にとって脅威だったこともありました。国境の向うには当時のソ連の戦車群がいたのです。そう言うと今では意外な感じもするでしょうが、当時は実際国境線をめぐって紛争さえ起こしているほどです。その頃のやっと内戦を制したばかりの中国は、ソ連の戦車群が国境に張り付いているという事実に、匈奴やモンゴルが責めてきた頃の時代に匹敵するほどの恐怖心を持っていたはずで、それからすれば今日の状況は異次元ともいえるでしょう。そのためにも多くの人民を北方に張り付ける必要もありましたし、所謂辺境の異民族・少数民族を融和的にとりこむことも安全保障上重要な政治課題になっていたはずです。しかし、それもまた中国にしてみれば「人民の海」を守るための「人民」による防波堤だったのかも知れません。

 中国は「秩序」の国です。漢民族と言いますが、実は漢という純粋な意味で独立した民族が存在するわけではありません。「華」を奉じる部族は皆漢民族に迎え入れてきたのです。中国国内に暮らすそれ以外の中国人はそれぞれの固有の伝統文化を有し、場合によっては共産主義とは相いれない宗教を信じている所謂少数民族で、その数は現在56部族だそうです。

 統一王朝の出現以来、漢民族は近隣の別の部族を吸収して強大化していくことになりました。その時、漢民族として迎え入れるか、晦渋しただけの少数民族のままでいるか、さらには朝貢してくる冊封国かの判断は、所謂「中華思想」への傾倒度によっていたと言われ、その傾倒度は儒教・礼教をどの程度奉じているかによって判断されていたようです。新中国は儒教・礼教を否定しましたので、儒教的秩序の代わりに共産主義的ヒエラルキーが秩序の骨の部分として採用されました。そしてそれもその後の改革開放によって少しずつ変化して今日に至っているのですが、では今日の中国の秩序とは何なのか専門家でないわたしには想像もつきません。

 いずれにせよ中国の権力者が大人口に食べさせることと国内の秩序を保つことを念頭に政治を行う以上、本来的に国土を拡大させようという野望など抱いている暇はなかったはずです。そこが、ウラル山脈を越えて東へ東へと膨張することで国力を増大させてきた前近代のロシアと違うところなのですが。

 繰り返しますが中国は少なくとも秦王朝の成立以来も、安定期と混乱期を繰り返してきました。安定期の末期を混乱期に含めても混乱期より安定期の方がずっと長かったのですが、安定期の為政者は常に人民の口を糊することに配慮していたとともに、人民に秩序付けを怠りませんでした。優秀な為政者であれば、腹を減らした人民が政権を揺るがす最も大きな脅威になることは勿論ですが、生活にゆとりのできた人民に自由と奔放な暮らしを許せば、それもまた権力者にとっての大きな脅威になることを知っていたからです。

 漢の劉邦が項羽に負け続けていたにもかかわらず、最終的に価値を得たのも彼が貧しく飢えを知っている人民の海の中から登場したため常に人民のための食を確保することに留意していたからであり、項羽が初めから食の豊かな地域の、しかも高貴の出であったため、人民の生活感とはいささかかけ離れていたことにある、つまりどちらが人民により多く飯を喰わせることが出来たかの違いだったのではないかとわたしは考えています。

 その劉邦ですら統一王朝を作るや否や、今度は人民を秩序付け統制することに腐心し始め、その方法の一つとして「儒教」を採用しています。それ以来、為政者による儒教の政治利用は清王朝の末期まで2000年以上も続くことになるのです。

 辛亥革命後の混乱を制したのは毛沢東でした。かれを劉邦、国民党軍の蒋介石を項羽に喩えれば、その後の新中国誕生の経緯も少しは紐解ける気がします。そしてその毛沢東が政権奪取後、人民の秩序を構築するために採用したのは「儒教」ではなく「民族主義的社会主義」でした。ただ、それまで2000年以上も体にしみこませてきた「儒教」的秩序間隔をそう簡単に変えることはむずかしかったようで、自らプロレタリア文化大革命を始め、孔子の論語の代わりに毛語録を人民に持たせ、人民の食を満たす努力をして見せるため「下放政策」を推し進めたのです。

 毛沢東や周恩来の時代が過ぎ、改革開放政策が始まって以来、中国は豊かな国になりました。13億人の人民が飢えに苦しむ心配は無くなりました。しかし、一方で「秩序」の方は「新秩序」が生まれ育つというところまでには至っていないようです。中国の歴史上、飢えと貧困が無秩序を産むことはあっても、富裕が故の無秩序はなかったようです。そのことの末恐ろしさのようなものを最も強く感じているのは、当の習近平だとわたしは考えています。彼の毛沢東への回帰性も、その反面で儒教・礼教、道教へのタガをつるめるようになったのも、その恐怖心からではないでしょうか。

 ついでに考えると、台湾について習近平が考えていることは太平洋への出入り口を確保することでも、ましてや領土を拡大することでもなく、とにかく統一すること、つまり同じ漢民族がふたつの価値観に分かれていることへの恐怖にも似た嫌悪感を解消したいということだけのような気がします。ちょうどプーチンがウクライナに対して抱いている感情と一方的な政治的・社会的決めつけも同じように、プーチンが手前勝手に同一視している民族の一方が自由主義・民主主義、一方が社会主義・権威主義を信奉することに対する、が許せないということに似ています。

 であればこそ、米国はじめ西側諸国が台湾に肩入れすればするほど、習近平の危機感は高まることになります。中国が大きく変わって現代にあっても、中国の為政者の人民・秩序優先施策の本質は当分変わらないでしょう。そのことを日本としても日本人としても忘れてはならないのではないでしょうか。

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3.「憧れ」と「開拓」の国ロシア

 ロシアについて調べれば調べるほど、ロシアというかロシア国民(特にウラル山脈以西の)が、いかに可哀そうな人々であるかを切実に感じてしまいます。彼の地に人が住み始めてから今日に至るまでずっと、ロシアの人々は梅雨の晴れ間のようなごく短い期間を除いて、侵略・略奪・圧政・独裁に、耐えに耐えてきたのです。表題に挙げているようにロシアは「憧れ」と「開拓」の国です。しかしその「憧れ」にはルサンチマンが、「開拓」には侵略と略奪が明に対する暗の部分として不可分だと、わたしは考えています。それもまた、ロシアの長い長い苦難いうにはあまりにも悲惨な歴史に由来するものだと考えています。

 ルサンチマンとは単なる劣等感や羨望ではなく、そこには望んで敵わない者が抱く怒りを伴う憎悪、復讐心を伴う怨嗟が含まれています。ロシアが何に対してルサンチマンを抱いているかと言えば、それはもちろんルネサンス以降のヨーロッパ、第一次産業革命以降の西ヨーロッパですが、それだけでなくどうもパクス・ロマーナ時代のローマ帝国にまで遡る様です。イワン4世(雷帝)以来のロシアの皇帝は「ツァーリ」と呼ばれていますが、それはローマ帝国皇帝の称号である「カエサル」のスラブ訛りなのです。この紀元前から使われていた称号を自らに冠することにしたロシアの王が見ていたのは、遥か千五百年も前のローマの帝政だったのです。

 ロシアの支配者はその15~16世紀を境にして、それまでは「汗(カン)」であり、その後は「ツァーリ」になりました。しかし、称号は変わったものの支配体制そのものは何も変わらずに、最後のツァーリがロシア革命によって斃れるまで至っています。「汗」の時代は「タタールの軛(くびき)」と呼ばれていたのですが、タタールとは当時の征服者であるモンゴル人のことです。くびきとは馬車や牛車の先に取り付けられた横棒のことですが、馬や牛の自由を奪うという意味で、モンゴル人によるロシア支配の実態を表す言葉なのです。「タタールの軛」の時代はモンゴル帝国の西方拡大時期の13世紀から14世紀の間のことなのですが、それ以前のロシアもまだほとんど原始的な農業の営んでいたころから、西方からやってくる遊牧民に繰り返し破壊的な侵略を受けていたのです。

 今日、世界の正義、世界の常識は4つあります。それは日本を含む「西欧の正義・常識」、その対極としての「イスラム圏の正義・常識」、「中国の正義・常識」、そして「ロシアの」というより「プーチンの正義・常識」です。もちろん、国や地域の数で言えば世界(国連加盟国・地域)の大多数は曲がりなりにも「西欧の正義・常識」を規範としています。国連でよく言われる国際法についても、それは欧州全土を巻き込んだ二つの大戦という悲しくも辛い経験を通して形成されてきたもので、当然「西欧の正義・常識」に基づいています。プーチンもウクライナを侵略し始めて以来、「国際法」をよく口にしますが、彼の国際法は彼個人の凡そ他者には理解できない正義と常識というバイアスがかかっているため、彼以外の人々にとっては強弁や居直りにしか聞こえて来ません。

 ロシアという国は誰もが知っている通り、世界最大の版図を持つ国です。しかし、その国土の大半はシベリアであり、永久凍土地帯です。そして、その広大ではあるが厳しい自然環境の土地を手に入れた経緯が、ロシアという国の生きていく上での処世術のようなものを形作って来たのではないかとわたしは考えています。

 高校の時の世界史の授業で習う歴史上の大きな出来事の一つに民族の大移動というのがありました。その大移動にはいくつかのタイプと主導的な民族がいますが、実態は遊牧民族でした。遊牧というと今日、モンゴルの一部ぐらいしか思い浮かべることは出来ません。遊牧とは人間が自分たちを支える動物たちと共に移動して暮らすことです。放牧を含めた牧畜は家畜にエサを与えながら(それが牧草地を柵で囲って家畜に勝手にエサを食べさせていたとしても)人間が一ヶ所に定住して生活しています。遊牧と牧畜は根本的に違う生産手段であると同時に、生活形態そのものもちがうのです。しかも、遊牧が確立したのは農耕や牧畜に比べて比較的新しいのだそうです。

 遊牧という生産手段はある意味、ユーラシアほどの大陸でなくては成り立たなかったものなのかも知れません。季節によって移動する家畜(と言えるほど飼いならされているのかどうかは別として)と共に移動するのが遊牧民族だとすると、国境などは概念として育つはずもありません。折角、自然に生えている動物の食糧となる草を掘り起こして農地に変えようとする農耕民族は、自分たちの生活圏そのものを脅かす存在でしかなかったのです。

 なぜ、遊牧民族の話をしているかと言えば、ウラル山脈を境にしてその西側の所謂ヨーロッパロシアが、頻繁に起こった民族の大移動にどれだけ虐げられてきたかを思うからです。有史以降、西側から少しずつ進出してきた農業と牧畜の民族によって、ウクライナやベラルーシを含むヨーロッパロシアには次第に農地が広がっていきました。しかしそれはウラル山脈のより東側で動物と共に移動して暮らす遊牧民族から見れば、自分たちの生存そのものを脅かす事態でした。久しぶりに来てみれば、馬やヒツジの好む草が残らず掘り取られ、代わりに麦や蕎麦が植えられていて、しかも、その農地の持ち主たちは武器を持って追い払おうとします。当然ながら、遊牧民は力で追い払おうとしたでしょう。

 西洋史は西側で創られました。つまり、農業民族側から見た歴史です。突然のように現れ、折角開墾した農地を踏み荒らそうとし、自分の家財産を奪い、人命を奪う異民族は脅威であり災厄だったでしょう。しかし、遊牧民族の側から見れば、農耕民族は自分たちの生存権を脅かす悪であり、脅威だったわけです。それが現在のモンゴルからほぼ古代のシルクロードの道筋に沿って攻防を繰り返した遊牧民たちの部族や国家であり、その最も強大だったのがチンギスハーンのモンゴル帝国です。

 モンゴルに攻め込まれる前の9世紀末、ロシアに初めてわたしたちの考える国という概念での国家が誕生したのは、今のウクライナ国の首都キエフを中心にしたキエフ大公国ということになっています。それまでももちろん、その一帯で農業と牧畜を展開していた所謂スラブの人々は、東から絶えずやって殺戮と破壊を繰り返す黄色人種(モンゴロイド)に虐げられていたのです。しかも、その侵略者たちは国家という概念からは程遠い、指導者とその家族や血縁者など少数の貴族と、それに付き従う部族の構成員で成り立つだけの集団でした。「タタールの軛」の軛は本来は動物の自由を制限してコントロールし易くするための道具ですが、侵略され征服され収奪される側にとっては、遊牧の民の存在はそれだけで軛どころか悪魔そのものだったのでしょう。

ようやく対抗するだけの十分な国家としてキエフ大公国が生まれた時、その建国を成し遂げたのは、実はスカンジナビアからバルト海を渡り、南下してきたバイキングでした。バイキングもまた、農業民族ではありませんでした。狩猟や漁業を中心として、あとは南下して裕福な先進農業地帯を襲う侵略者でした。つまり遊牧民から海賊に支配者が変わっただけです。国が成立したというよりは独裁者が交代しただけで、人々が虐げられるということには変わりはありませんでした。その後にロシアに生まれたロシア人による政権もまた国家としての統治機構を、それまでの遊牧民国家やバイキングによる国家と同じく、基本的に征服者とその仲間(貴族)と、農民(奴隷と同じなので農奴と呼ばれています)だけの構造としていました。そして、そのような社会構造は19世紀になって共産革命によってロマノフ王朝が倒れるまで続いたのです。

 遊牧民は馬に乗って高速移動でき、かつ馬で高速移動しつつ強く正確な弓を射ることが出来ました。それが彼らが一時は世界征服した力の源だったのですが、やがて、西側世界で鉄砲が考案されたことで、遊牧民は優勢を失うことになり、東方に押し返されます。なんだか日本の戦国時代の長篠の闘いの顛末のようです。ともあれ、ロシアが鉄砲という新兵器によって力を得ると、ウラル山脈を越えて逆に東側に攻め込むことになるのですが、この時、ロシアの皇帝(王)は金持ちの一人に貴族の地位と権益を条件に東征させます。その貴族(ストロガノフ家)は貴族ですから自分の軍隊など持っていません。それで傭兵を使いました。その傭兵はイェルマークというリーダーに率いられたコサックです。イェルマークは当時ウラル山脈の東側にかろうじて存在していたシビル・ハン国という遊牧民国家を滅ぼした余勢をかって、シベリアを東へ東へ進むことになり、時代が下がるとロシアの領域はベーリング海を越えてアラスカに及びましたが、さすがにそこまでは管轄することが出来なかったのか、1867年3月、720万USドル(2016年現在の貨幣価値に換算すると1億2300万ドル)で米国に売却しています。

 冒頭、ロシアは「憧れ」と書きました。特にイワン雷帝からロマノフ王朝にいたる帝政時代において、憧れの対象はローマ帝国であり、その後継である東ローマ帝国(ビザンチン)だったと、わたしは考えています。但し、その政治体制は皇帝と少数の貴族階級による独裁という単純なもので、元老院制度や護民官制度などは取り入れていません。18ごろからのロシアはウラル山脈を東に越えて、ロシアは領土を拡大し、そこに砦を兼ねた都市を建設していきます。それらの都市はわたしは訪れたことはありませんが、ロシアとは思えないほど緻密で機能的だそうです。それはローマ帝国が版図を広がて行った時、新たに手に入れた領土に軍事拠点と入植者のための居住値を兼ねた都市を建設していったことと重なります。それもまたわたしがロシアの憧れがローマに通じているとわたしが考える理由の一つなのです。

 ロシアは少なくとも人が住み始めた時からずっと農業国でありながら、遊牧民族による彼らから見れば過激で支離滅裂な攻撃と略奪に晒されました。その恐怖から抜け出すことが出来たのは鉄砲という新兵器でした。長い長い略奪と被征服の時代を経て、スラブ民族の国を立ち上げてからも、最後の王朝ロマノフ王朝が革命によって倒されるまで、絶対権力者である王と少数の貴族、聖職者、名誉市民以外は、必要最低限の商人と職人、兵力としてのカザーク(コサック=傭兵)そして大多数の農民(実質は奴隷=農奴)しかいないというような単純な統治機構しか持っていませんでした。そしてロシア革命を迎えソヴィエト連邦を建国しました。やがて、その瓦解と共に元のロシアになったということがそれがあの国の歴史のあらすじです。そこから現在の西側諸国の国際感覚や国際社会常識との乖離が生まれるべくして生まれたと考えることは出来ないものでしょうか。

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2.自由と正義の国米国

 米国は自由と正義の国というと、首を傾げてしまう方もいることでしょう。わたしも本当にそうなのかについては疑問に思う一人です。しかしながら、米国はピルグリム・ファーザーズによって建国された国です。そのことを思えば、現状がどうであれ米国のアイデンティティーでもありコンセプトでもあるのは自由と正義であると言わざるを得ません。

 ピルグリム・ファーザーズのメンバー総勢102人を乗せたメイフラワー号が北アメリカ大陸に到着したのは1620年11月です。彼らは英国国教会からの分離を求め、国王の弾圧を逃れるために母国を離れたキリスト教徒(清教徒・分離派)で、彼らの信じる教理に基づいた理想的な社会を建設することをめざして新天地を求めたのです。英国国教会の軛から逃れることはつまり自由を求めたことになりますし、彼らの信じる教理とは彼らにとっての正義にほかなりません。

 余談ながらピルグリムとは巡礼者という意味だそうです。彼らのすごいところは船がまだ北米大陸に到着する前に、自分たちの政治体制を確立する契約書(メイフラワー誓約)を作り、署名を取り交わすことによって国を成立させていることです。つまり、彼らが新天地に足を下した瞬間から、彼らの国は成立していたということになるのです。この時に多数決という民主主義の根幹をなすルールさえも確立していました。但し、ピルグリム・ファーザーズ中61人は女性と子供だったのですが、子どもは勿論、女性にも投票権はありませんでした。102人中、この建国の契約書ともいうべき、メイフラワー誓約に署名したのは成人男性41名だけだったのです。

 1620年と言えば、日本では徳川幕府の黎明期で2代将軍秀忠の時代、翌年には島原の乱が勃発しているという頃です。その同じ時に米国ではたった102人の国が、契約書に基づいて産声を上げました。ただ、わたしが注目する人物が一人います。それは41人の署名者の一人なのですが、彼の名はマイルス・スタンディッシュといい、実はピルグリム(巡礼者)ではなく、れっきとした英国軍人で、軍事の責任者として雇われて参加しています。つまり、米国はその国としての産声を上げた時から、軍事部門を明確に有していたということになるからです。

 その後、英国の植民地としての紆余曲折を辿って、1776年7月4日に米国は正式に独立を宣言しました。その頃、日本は第10代将軍家治の治世で、有名な田沼意次が老中として権勢を誇っているころでした。米国の独立の際の宣言文で注目すべきは前文で謳われている「全ての人間は平等」と「生命、自由、幸福を追求する権利は不可侵・不可譲の自然権」でしょう。しかし、わたしは米国を自由と正義の国とは言いましたが、その宣言文の第一に掲げられている「平等」の国とは思っていません。平等について高らかに宣言していることに、むしろ、米国の正義の矛盾と手前勝手さを感じるのです。その当時の女性の権利はどうだったのか、やがて始まる奴隷制度によって連れてこられた黒人たちの権利はどうだったのかと思わざるを得ないのです。そのことは米国の病巣の一つとして黒人差別、LGBTQ迫害など根深い社会問題を今日に至るまで引きずって来ているのですから。

 17世紀の建国当時に理想としていたもの、さらには18世紀の独立当時に理想としたものそのものについても、その時から破綻する宿命を抱えていたわけですが、それはそれとして理想を掲げて合意に基づいて建国し独立しようとする姿勢は、同じ民主主義の国である日本とは対極にあるとは言えるでしょう。

 わたしたちが生きる二十一世紀の時代において、当時の理想の追求によって生まれた米国のコンセプト「自由」と「正義」は、今日「横暴」と「偽善」の誹りをうけるようになりました。しかしそれは今に始まったことではなく、米国の国としての成り立ちそのものが成せる業であったと言えそうです。ピルグリム・ファーザーズのコミュニティー結成段階で、軍事の専門家をその部門の責任者として、雇い入れてまで同行させているのです。新天地で遭遇するかもしれない外敵からの防衛に必要だからということでしょうが、専門家は専門家の立場上、常に戦闘を意識せざるを得ません。自身の存在意義を追求しようとすれば常に仮想敵を想定し、あるいは防衛のためにと称して先制攻撃を仕掛けることもいとわないことになりかねません。ベトナム戦争、イラク侵攻などなど、そのことを証明する戦争には枚挙にいとまがありません。

 その米国は敗戦後の日本にとって最も関係の深い隣人でした。太平洋戦争の終結後、日本が復興期にあった時には、米国は正に聖書の教え通りの良き隣人でした。ララ物資によって始まった学校給食一つとっても、わたしたちの今日あるを助けた大きな要因であったと言っても過言ではないでしょう。しかし考えてみると、日本と米国の出会いは、その始まりからして、決して幸福なものではありません。日本の歴史に初めて華々しく登場した米国人であるペリーにしても、世界史的に俯瞰してみればその登場の仕方は滑稽でさえありました。彼のやったことには米国の建国以来の精神である善意と力を背景にしたおせっかいの好例であったと言えでしょうか。米国側の都合や理屈はともかく、当時の日本側の視点に立てば、それまで270年間もの間、長崎という例外を除いて、外国を意識せずに安穏に暮らしてきた人々の、その中心である江戸の下町の長屋住まいの家族がちゃぶ台を囲んで夕餉の団欒を楽しんでいる時に、突然、テンガロンハットのガンマンが引き戸を蹴破って侵入してきて、拳銃をぶっぱなしたのです。その時の江戸の庶民の慌てようを想像するだに、不謹慎ながら可笑しみさえ感じさせてしまいます。そこから幕末・維新のてんやわんやが始まり、結局は明治維新となり日本の近代国家へのルネサンスが始まったのではあるのですが。

 米国は確かに自由と正義の国です。しかしながらその自由とは一面、圧迫を受けていた清教徒が、その束縛から解放されるために得ようとしたものであり、その正義とは自分たちの信じるキリスト教の本義に忠実であろうとしたものだったといえるのです。信教に於ける正義がそれを信じない人々には容赦のないものであることは、昨今の国際、国内紛争の多くが示してくれています。同時に米国における自由が一切の束縛を受けることを、もはや本能的ともいえるほど忌避ことも、建国の謂れを考えれば何となくうなづけることではないでしょうか。

 わたしは正義という言葉が好きではありません。ひとつの共同体の正義が別の共同体の正義と拮抗したり真逆であったりすることがあるという現実に、そのどちらの側の共同体の構成員であっても、結局は皆が苦しめられてしまうと感じるからです。また平等あるいは公平公正を伴わない自由も認めるわけにはいきません。米国がこれまで国際社会で犯した数々の過ちももちろんですが、むしろ自国内に内包する矛盾と軋轢について特にそう思います。

ともあれ米国は第二次世界大戦終了後、冷戦時代を含む20世紀後半を通して、誰が頼んだわけでもないのに自由主義世界、資本主義世界のリーダーを自任してきました。それが21世紀に入ってすぐ9.11が起こり、少なくとも世界の警察としての権威が失墜し、トランプが登場するに至ってアメリカ・ファーストを言い出し、自ら世界のリーダーも世界の警察の任も降りてしまいました。結果として米国に引きずられるようにして、G7が本来の意味通りの単なる7か国の仲良しグループ(Group of seven)なってしまいました。G7がgroup of sevenではなくgreat sevenだと世界中から認められて、尊重されていたからこそのG7だったのです。そのG7の筆頭である米国が自らリーダーを降りたため、他の6か国とEUも自由主義世界、資本主義世界の先頭集団ではなくなったわけです。G7がGゼロになって良くも悪くも、これまであったはずの秩序を失ったのです。

 ではどうすれば新しい秩序を生み出せるのかですが、その前にもう少し、日本を取り巻く国々について、わたしなりの考えを再確認させてください。米国の次はやはりロシアでしょうか。

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1.模倣と忖度の国日本

 プロローグで日本は「模倣」と「忖度」の国だと書きました。模倣は真似ということであり、独創性に欠けるという意味であまり尊重される言葉ではありませんし、忖度についても例の安倍政権時代の数々のスキャンダルについてまわった言葉となったため、ネガティブな言葉に貶められてしまいました。しかし、わたしはこの二つの熟語をネガティブな視点からとらえてはいません。むしろ、わたしたち日本人の自慢すべき能力だと考えています。

 模倣と言えばまず中国から朝鮮半島経由で導入された(あるいは紹介された)漢字のことを思い浮かべます。ご存じのように本家の中国でさえ漢字の複雑さというか難解さということから解放されるべく、現在台湾を除いて簡体字を採用していますし、直接日本に漢字を伝えた朝鮮半島に至っては、南北とも人と土地の固有名詞以外はハングル文字となっています。

 日本が初めて漢字に接したのはいつかというと、漢委奴国王印と彫られた金印が後漢から贈られた1世紀頃には間違いないなく目にしているはずです。それ以外にも同時期に出土した銅銭も見つかっています。もっともこれらは国外から贈られた文物に彫られていたものであり、日本人が文字として認識していたかどうかも不明です。その後、3世紀には漢字の彫られた土器が出土していますが、この場合も文字をむしろ文様として使ったに過ぎないのではないかと言われています。

 その後、古墳時代には国産の銅鏡や太刀・刀剣の銘などに意味のある言葉として漢字が彫られ始め、仏教の伝来とともに仏典として漢字が伝来しました。やがて大和朝廷の成立と共に漢字が公式記録として使われるようになって、それが8世紀初頭の古事記と日本書紀につながっています。ここで特記すべきはわたしたちが高校の時に習ったように漢字の使い方が違うことです。日本書記は所謂、漢字を表意文字として漢文の文法通りに描かれているのに対して、古事記は和化漢文で書かれているのです。和化漢文とは漢字を表音文字として、日本語の言い回しをそのままに著しているのです。つまり日本書記までは外来の文字として漢字を模倣していたものを、古事記からは漢字を表意文字から表音文字するという独自の活用法を見つけ出しているのです。その後、数十年を経ずして成立した万葉集ではその表音文字化は仮借、仮字と呼ばれてさらに進歩し、後世「万葉仮名」と呼ばれ、この段階では既に一部の学者や学僧だけではなく、多くの一般人が文字を使うようになったと考えらえます。そこから仮名やひらがなが生まれていくのです。

 漢字の熟語の持つ意味はそのまま用いながら、日本語の特性を漢字使用のために変えることなく、日本語の特性を保持するために助詞などを漢字から派生した仮名やひらがなで文章を構成するようになりました。さらに明治以降は外国語を漢字の熟語で新しく日本語化したり、それが出来ない場合は仮名で音を表記することで直接日本語化することもできるようになったのも、和化漢文→仮借・仮字(万葉仮名)→仮名・ひらがなと、漢字を元にして新しい文字を生み、さらに漢字そのものも否定せずに駆使することで、独特の文章表現を確立してきたのです。

 中国は中華思想の国ですから、日本が中国の真似ばかりしてきたと主張することもありますが、実は漢字の本家である中国が日本から多くの単語を逆輸入していることも知られていることです。文字はともかく自動車、家電その他数えきれないほどの日本製品はその出発においては模倣だったことは否めません。しかし、その全てが単なる模倣品でないことは最近までの世界での消費者が証明してくれています。もっとも、1990年代あたりを境に日本の商品開発も技術開発も停滞していることも事実で、心配ですが。

 忖度という言葉についてですが、忖度とは本来「追従」や「阿り」とは違うもののはずです。正確な意味での忖度は、文章であれば「行間を読む」とか、対談であれば「阿吽の呼吸」などと表現される日本人の特性だったはずです。現代では「空気を読む」という言葉にも対比されます。忖度とは少し違いますが、もう一つ「惻隠の情」というのもあります。単にあわれんだり、悼んだり、あるいは同情するというだけでなく、「今はそっとしておこう」とか「いつも黙ってそばにいてくれる人がいる」などということも、特に日本人だけの特性というわけではないにしても、わたしたちがわたしたちの共に生きる小さな社会の中で、人間会計を維持するための術として身に着けているものだと言えるのかもしれません。

 しかし、確かに「模倣」も「忖度」も、国内的な、あるいはもっと小さな社会においては、独自に何かを開発する努力を必要とせず、その分を工夫や改善にまわすことが出来ますし、コミュニティー内の人間関係を滑らかにするには必要なことではありますが、事、時代が革命的に大きく変わる変革期に差し掛かった時、それを乗り越える知恵や、国際的な関係において協力するべきことは積極的に協力を惜しまないと同時に、タフ・ネゴシエイターとして主張するべき主張はするという姿勢で臨めるかどうか、疑問に思わざるを得ない時もあります。日本人の「そこまで言わなくても、やるべきことさえやっておれば、わかってもらえる」という考えは国際社会では通用しません。特に米国という国を相手にする場合、容れるべきは容れ、言うべきことは言う。時として共に行動することを拒否するという、毅然として姿勢が望まれます。

 そこで次に米国について考えてみるつもりです。

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わたしの政策談義

プロローグ

 わたしのブログ「私的安倍晋三論」はそれなりに反響がありましたが、話が長すぎて論旨が分からないというご不満も頂いたし、項目として独自外交と掲げながら中身を書いていないため、どんな独自外交なのか分からないじゃないかと言うお叱りも頂きました。

 そこでまだ言いつくしていないわたしの政策提言各論④~⑦について語る前に、総論の承前としてわたしの思いをもう少し掘り下げてみようと思います。しかし、それでかえって皆さんを五里霧中の道に誘い込んでしまうことになるかも知れませんが、それはそれでご容赦下さい。

 別に弁解をするつもりではありませんが、外交は流れる水を見ながらその時々の最良の選択をしていたなくてはならないものです。その上、水の流れ行く先の百年、千年の時を見通すだけの世界観も持っておかなくてはならないものでしょう。自主外交、独自外交と言う括りで簡単には言い尽くせません。ではどうすれば独自外交を志向できるのか、それには迂遠とも思われるかも知れませんが、まず、わたし達自身の国の成り立ちを知り、関係の深い隣人である国々についてきちんと認識することから始めなくてはならないと考えます。

 日本という国は良くも悪くも「模倣」と「忖度」の国です。その模倣と忖度の対象として最も影響を受けてきたのが隣人であり、隣国からです。日本にとってのその隣人、隣国とは、今日何と言ってもまず米国を指折らなくてはならないでしょう。次が朝鮮半島(現在は2国に分断されていますが)であり、さらには中国と台湾、そしてロシアであることは論を待たないのではないでしょうか。米国はともかく、これらの国々は国境で接することのない日本が、少なくとも一衣帯水の海で接している国々です。もちろん、ASEAN諸国、APEC諸国のうちの東南アジア諸国やオーストラリアなども忘れてはなりませんし、ヨーロッパとの関り移民を通しての中南米との関係を大切です。しかし、やはり米、韓・朝、中・台、露の4国(ここでは敢て4国とさせてください)をもって、わたしたちの隣国とすることを前提に考えてみたいと思います。

 まず初めに、その4つの国々について、わたしがどんなイメージを持っているかを始めにお断りしておきます。それは米国=「自由」と「正義」(その裏返しとして「横暴」と「偽善」)、朝鮮半島の2国=「矜持」と「正論」(その裏返しとして「ルサンチマン」と「強弁」)中国の2国=「人民」と「秩序」(その裏返しとして「混沌」と「強権」)ロシア=「憧れ」と「開拓」(その裏返しとして「独裁」と「侵略」です。

 ところで、この話を書くために4つの国について年末年始にかけて勉強しましたが、中でもわたしに取って一番興味深かったのは朝鮮半島の歴史であり、我が国との交流の歴史についてでした。なにせ、年末年始の慌ただしく、またアルコール漬けでもあった中のにわか勉強ですから、どれほど身についたのかわかりません。ともあれ、この4つの国について集中して比較しながら本を読んだことは、わたしにとって得難い勉強になりました。

 以下、この間に書き散らした文章を推敲しながらアップしていきますのでご期待ください。

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私的安倍晋三論(4)

一地方議員の政策提言-2(各論-1)」

総論で上げた3点を別の表現で言うとすれは、それはわたしたち自身、わたしたち国民の意識改革である。それがなくては全ては机上の空論となると、わたしは思っている。。そのことを前置きとしながら各論に入ろう。

①モラルハザードの解消

1)公平で公正な意思決定過程についての透明性の確立

それまでも日本の政策決定は国民の目に見える場でなされることはなかったが、安倍政権になるとお友達コネクション政治がはびこるとともに、政策決定過程は国民から全く見えなくなった。あまつさえ政府の報告書に嘘と改竄がまかり通るようになった。

 少なくとも全ての会議録を含めた公文書は開示されるべきであり、外交問題など直ぐには開示できない場合でも、10年とか30年とか期限を切って開示し、報告書や統計情報を改ざんした場合は、それを命じたものを処罰するよう法改正をする必要があろう。

2)歴史認識の確立と共有化

 安倍晋三元首相の国葬について反対の声が上がると、賛成論者はしきりに「死んだ人を鞭打つことをするべきではない」と言うようになった。

 この日本人の意識こそが過去の誤謬を誤謬として評価せず、国として犯した過去の過ちや失敗をなかったことにしてしまい、また同じ轍を踏ませてきたのだ。あれだけ太平洋戦争を肯定し続け、韓国民の心を逆なで続けた安倍晋三が、裏では日本の朝鮮半島への戦争犯罪を糾弾し、それを理由に信者から金を巻き上げている統一教会を、自分の権力基盤にしていたということを見ても、彼の歴史認識はご都合主義でしかなかったと糾弾しなくてはならない。

 今からでも遅くはない。自民党の政治圧力の影響を受けない専門部会を立ち上げて、国として昭和史をきちんと清算しなくてはならない。戦争を引き起こした要因、戦争中に集団ヒステリー化した国民の引き起こした多くの事案や事件はもちろんだが、戦争中の教育現場についても総括することを忘れてはならない。子どもたちを戦場に送り込みあるいは銃後の守りに駆り立てていた教員たちの、保身からくる事なかれ主義や軍部への積極的な追従と協力についてもきちんと評価を下さなくてはなるまい。

 1945年8月15日を境に、それまで使っていた教科書をGHQに言われるままに黒塗りにして授業を続けた教員たちの中にも、それまでの自分を恥じ自己批判したものは少数とは言え居た。しかし、文部省(今は文科省)や各自治体の教育委員会が公式声明で過去の過ちを認めたという話は今もって聞いたことはないが、どこかにそれがあるのだろうか。。

②公的教育費の拡大(未来への投資)

 日本も批准している児童の権利に関する条約(通称は子どもの権利条約)は子どもの生きる権利・育つ権利 (教育を受ける権利、そのために必要な生活への支援などを受ける権利)・守られる権利 ・参加する権利(意見を表現しそれが尊重される権利、自由に団体を作る権利)の4つの権利を保障することを求めている。

 しかし、日本はこの条約が発効した1994年以降も、条約の精神に反する状況を改善しようとしていないどころか、特に安倍政権の誕生以降、子どもを取り巻く環境は悪化の一途辿り、さらには大学進学の入り口にまでこぎつけることが出来ても、高額な学費とそのための奨学金という名の借金に押しつぶされる若者を生み出し続けている。子どものための公的資金出動は、建物などのハード面の整備ばかりに重きを置いて、ソフト面については自由競争の原則を盾に、子どもたちへの直接の就学支援がおろそかになっている。

 わたしは教育格差の解消こそが日本の未来を保障することになると考えている。そこでその方法として、

1)大学など高等教育機関の学費を大幅に軽減すること。

 旧国立大学は学費無料とし、私学についても国の支援割合を大幅に増やして学費軽減に結び付ける。社会人となった後でも学ぼうとする学生への社会的理解と経済的支援制度を充実させる。学費が軽減されれば競争率が上がることになるのではないかと心配するかもしれないが、悲しいかな少子化の影響で、今日の子どもの数は高度経済成長期のそれよりずっと少ない。分母が小さくなっている以上、進学競争が過熱することはそれほどの社会課題とはならない。

 大学間格差はどうであろう。これもまた首都圏や大都市圏と地方とのギャップは存在し続けるだろう。しかし、それは単に「都会の昼寝は田舎の猛勉強」的な前時代的発想でしかなくなってきている。大学間のレベル格差は20世紀に比べて小さくなり、むしろ解消しつつある。解決できていない格差の問題は大都市への一局集中によって引き起こされる他の多くの社会問題と同じで、この国の根本的な宿痾として取り組み、解決することが求められるのだ。

2)初等中等教育については、まず公立小中学校の教員の数を現在の2倍まで増員し、小学校ではクラス担任を複数性にする。中学校では教科選択制を強化する。

 全ての高校を単位制にして、それに合わせて大学入試制度を改革する。特に公立の進学校の教員の勤務評定から受け持ちの子どもの進学率・合格率をなくすことで、教員の受験対策の負担を軽減する。

③労働形態間の経済格差の解消

1)同一労働同一賃金を実現することによる真の働き方改革

 小泉政権当時に決定した「働き方改革」は実は働かせ改革であった。この働かせ改革は雇用する側のコストを大幅に削減させた。そのことによって企業は内部留保資金を飛躍的延ばすことは出来た。しかし、その見返りに貿易立国だったこの国は、国際競争力を失い、日本の給与水準は下降の一途をたどっている。

 もともと19世紀の産業革命の本質の一つに労働力の商品化ということがあった。つまり、人件費とは他の原材料と同じ製造コストと同等と捉えられ、従って安ければ安いほどいいという企業理念が働くようになった。その労働力イコール商品という考え方は、技術の習得と積み上げを軽視し、技術のそのものの改善や技術開発を労働者に期待するのではなく、特許やロイヤリティーに依存すること、労働者階級を単純労働に固定化することになったといえる。

 日本の戦後の高度経済成長期、日本の工業生産を支えたのはいやゆる熟練工を呼ばれる働き手であった。どんな技術もそうだが、特に製造現場ではその持ち場持ち場の技術を習得することへの達成感があってこそ、技術水準を高めることが出来た。

 しかし今日、雇用者側のコスト意識から正規雇用よりも非正規雇用の方が有利とする考えが定着し、非正規の臨時の労働者すぐにも製造ラインに着けるよう、習熟や熟練を必要としない製造工程を開発している。それでは単に労働者階級内の更なる階級の分断化となるだけでなく、企業の技術的な前進よりも、コスト軽減を人件費という製造原料コストによってのみ図る方向へと走らせることになるのは当然の帰結である。今日、日本の国内労働者の収入と一人当たり生産力が世界的に見て低迷しているのも、原因は掛け声だけの「働き方改革」にあった。安倍晋三のアベノミクスはそれを踏襲した。

 現在、政府のうわべの掛け声とは裏腹に、正規雇用と非正規雇用の賃金格差は倍以上の開きがある。非正規雇用者への待遇や社会保障を正規雇用と同レベルにすることで「働かせ改革」でない「真の働き方改革」に舵を切り、雇用形態の正規か非正規ということを、働く側が自らの生活スタイルや志望に合わせて選択できるものとするべきである。

2)外国人労働者処遇のパラダイムチェンジ

 どんなに言い繕ってみたところで、今日の日本の外国人労働者政策は、安い労働力の確保こそが目的である。そのことはどこの国でも同じあることが少なくとも20世紀初頭からの歴史が証明している。

 この分野でも日本は世紀遅れで、国内の人口減少からくる産業界の労働者不足に直面したことで、特に所謂3K(危険、汚い、きつい)職場への就労者が不足することへのカンフル剤として政策決定された。

 初めは外国籍の日系移民やその子弟の就労を認めるところから始まったが、やがて、就学ビザで入国してくる所謂留学生のアルバイト許可、技術習得を目的とする研修生へのビザ発給などで、なし崩し的に外国人の就労を認めてきた。留学や研修という見せかけだけの制度で、内実は全く違うことを、国・地方の行政機関だけでなく、多くの国民も知りながら黙認してきた。そのくせ、本音と建て前があることを理解しない外国人を苛酷に扱い、ついには入管施設で死亡者まで出している。

 単純労働者への差別的な扱いを見せつけながら、高度な技術や技能、経営手腕を有する外国人の定住を勧誘しても、そう簡単には外国人は騙されない。しかし、この問題はそう単純ではない。人種、宗教、本国の政情不安など外国人の抱える個人的な問題は単純ではない。今後、日本の将来を見据えた時、さらなる国際化の進展とともに、日本がさらなるグローバル経済圏の一角に繰り込まれていくことは明らかであり、外国人に労働力を期待する以上、一日も早く、外国人の子弟の初等・中等教育をどうするか、各種社会保障をどうするか議論しておく必要がある。

 その他、わたしの政策提言は以下のように続く。

④地方分権の復活(人口減少時代における社会構造の再建=医療・福祉・地域経済)

1)医療改革

2)福祉改革

3)地域経済改革・地域税制改革(消費税率の県単位化、軽減税率の導入)

4)都道府県・市町村制度の見直し

⑤安全保障

1)農業を中心とした食料安全保障=環境安全保障、水資源の保全と窒素過多による環境汚染防止

2)エネルギー安全保障(原子力政策・一日も早い脱原子力)

3)独自外交

4)防衛大綱の見直し(専守防衛の堅持) 軍隊というものは自らの存在感を自覚するために戦争をやりたくなる。

⑥金融構造改革(金余り経済の立て直し、官製相場形成=一億総ばくち打ちの是正)

1)公的基金を使っての株式相場支えの是正

2)日銀で買い上げた国債の取り扱い

⑦インフラ整備のパラダイムチェンジ(公共交通機関、電力、通信システムetc.)

1)鉄道網の再編成(都市型・近郊型・都市間型、上下分離方式、JR株式の取り扱い)

2)都市内のバス輸送システムの再編成、新しいモビリティーの創生

3)電力

4)通信システム

5)上下水道

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私的安倍晋三論ー3

私的安倍晋三論(3)

「一地方議員の政策提言-1(総論)」

 政治家を批判し、現状を嘆くばかりでは前進はない。これから日本を立て直すために何が必要なのかを我々一人ひとりが考えなくてはならないはずである。片田舎のこれまで一度も政党員になったことのない屋根裏部屋の一市議会議員でしかないお前が何を大それたことを言うのかとの誹りを覚悟しつつ、はなはだ不遜であると自覚しながら、それでもこの国に対するわたしの気持ちは、黙っていることを許さない。わたしがこの国の中枢にいたとしたらという夢のような仮定に立って、わたしなりの提言をまとめたい。広く友人知人のご意見ご批判をお待ちする。

 まず総論的提案をさせてもらう。ここでは批判や非難を展開するのではない。わたし自身のとして、わたしなら現状をどうとらえ、それをどう打破するつもりかということを考えてみたい。

①日本独自の政治手法への回帰

 日本は少なくとも明治維新を迎えるまで、蓄積された独自の文化を誇る国であった。ヨーロッパ諸国もその意味で文化創造の国であった。産業革命以降もその急激な社会変化の負の部分を植民地支配や人種差別という形に変えて、世界中に害毒を垂れ流し続けてきたし、今回のエリザベス女王の厳かな中にもきらびやかな国葬でも、その裏側に英国によって搾取されてきた国々の怨嗟の声は聞こえていた。中国も20世紀以降の混迷はともかくとして文化大革命以前は文化創造の国であった。

 ところが米国は文化創造の国だっただろうか。わたしは米国を人工の国であると考えている。文化もまた人が造ったものには違いはないが、文化は創造と蓄積によって、さらにそれが発酵して幾分の酒精を含むようになって初めて成立するが、単に人工という場合、それは力の創造というところに収束するし、その力の創造とは結局のところ経済の力というところに収束している。

 19世紀後半、米国はすさまじい成長を遂げつつあったが、それでもまだ欧州列強の後塵を拝する地位に甘んじていた。その頃の米国は所謂西部開拓史時代であり、やがて南北戦争を経てやっと近代国家としての形を成し始めるという頃である。その頃、銀行強盗であれ、逆にそのアジトを急襲する保安官であれ、入り口のドアを蹴破って扉を開けるという乱暴さを、わたしたちは西部劇の映画の中で痛快に感じながら見てきた。江戸末期の日本という太平の国は、ペリーという一軍人のドア蹴破り型の接触を受け、熊に襲われた蜂の巣のような大混乱を引き起こしてしまったのだが。

 その時から、日本は文化創造の国から文化模倣の国になってしまい、その後の変遷はわたしたちは教科書で習ってきた。技術や法体系を模倣するだけなら良かったのだが、文化的・伝統的思考をも模倣しようとしたことに問題があった。しかも、模倣は模倣でしかなかったことで問題はさらに深刻化してきたのだ。特に敗戦によって第二の開国を占領国による支配という特殊な環境下で、その模倣を迫られてしまったため、日本の伝統的美徳である「行間を読む」「惻隠の情」などという言葉が、その意義を失い「行間を読む」は「勝手に解釈する」に変わり「惻隠の情」は「忖度」に変わってしまった。

 米国では建国以来、力こそが善であり正義であるというポリシーのもとに政治が行われてきたが、日本もそれに倣うように政治の世界では「数の力」、社会では「金の力」が善である正義であるということになってしまった。それによって、日本の政治に最も求められてきたはずのマイノリティーや弱者への惻隠と配慮に基づく政治は、少なくともこの政治の論議の場からはしばしば切り捨てらることになってしまった。あまつさえ株価の高止まりを保障するためには国民の年金基金を株式市場につぎ込んで良しとする風潮を生んでしまった。

 今更ながらの感はするが、それでも今からでもやらなくてはいけないのは、わたしたち日本人がもう一度きちんと「惻隠の情」を取り戻すことであると、わたしは強く思っている。岸田首相の「耳を傾ける」とか「丁寧な説明」というのが如何に空疎な言葉かを実感するたびに、そんなことをしなくても、わたしたちは言葉や文字にならない心情をくみ取り、少数者や弱者の思いを惻隠する心を持っていたはずであり、誰より政治家にそのことを望みたい。

②コミュニティー意識の醸成

 近年、特に労働組合運動の退潮傾向が激しくなっている。連合が結成された1987年には既に27.6%まで落ち込んでいた組織率は、昨年(2021年)にはとうとう16.9%まで落ち込んだ。労働者の労働組合活動への期待度や信頼性はまだまだ低下傾向にある。

 労働組合の組織率が低下する要因は専門家の分析に任せるとして、わたしはこの傾向を嘆き、日本の将来に暗雲の立ち込めるのを感じさえしている。労働組合は賃上げによって労働そのものの価値を高めること共に、雇用環境や職場環境の保障を求め、家族を含めた社会全体の生活環境の改善を図ろうとするために、同じ職場で働くものが連帯して活動するための組織である。労働組合はそれぞれの会社や団体に共に働く者同士の共同体=コミュニティーである。

 コミュニティーと言えば、地域においては自治会・町内会の存続が困難になっているというし、学校ではPTAへの加入者が減るとともに活動ができなくなっているという話も聞く。いじめや不登校の要因の一つに、学校というコミュニティーの求心力の低下が有るのではないかと専門家は声をそろえていっているが、いずれもその背景に同根の問題がある。さらに言えばコミュニティーの最小単位である家庭、家族さえも絆が薄れ、そのためマタニティーブルーや産後鬱が社会問題化している。

 人間は社会的動物であると再確認するまでもないが、小さな単位から国単位の大きなものまで、わたしたちはコミュニティー社会に属して生活している。であればこそ、そのコミュニティーを健全な結束力・求心力で維持していくことは、わたしたちが生きて行くためだけでなく、わたしたちの子々孫々の暮らしを保障するためにも必須である。そのためにそのコミュニティーの構成員である我々一人ひとりが、それぞれの役割分担をこなしつつ、相互に信頼し合い、相互扶助の精神で協働していかなくてはなるまい。

③政治家への意識改革

 各級選挙のたびに、投票率の低下が問題になる。その一番の要因は政治家自身が有権者に期待を裏切り、失望させてきたことにある。「どうせ、自分のことしか考えない政治家だ。誰がやっても同じじゃないか」「自分が一票投じようと投じまいと、世の中には何の影響もない」という気持ちにさせてしまったのは、当の政治家たちである。一地方議員であるわたし自身を含めて、政治に志をおく強く全ての人間は、そのことを深く自省しなくてはならない。

 しかし、政治家の出来不出来を嘆くだけでは、わたしたちの生活が良くなり、未来が開けることにはつながらないことも明白である。しかも、安倍晋三と統一教会の野合で明らかになったように、国民が政治不信をかこっている間に権力は国民を無視して自己を肥大化させ国をあらぬ方向へ導こうとする。昭和初年の日本が軍部の自己肥大を許したばかりにその後、国民がどんな境遇に立ち至ったかを考えなくてはなるまい。

 よく言われるように「政治家は有権者の鑑」である。としたら、まずは我々が政治家を見る目を養い、私心を捨てた評価をする力をつける必要がある。さらに言えば、わたしたち自身が政治家を育てようとしなくてはなるまい。まずは手始めに現政権与党があぐらをかいてよしとしている権力の裏付けを見直すことが必要である。そのためには300議席という衆議院での議席を、少なくとも与野党拮抗するところまで減らさなくてはならない。「自由民主党員でなくては政治家にあらず人にあらず」という風潮を「自由民主党員だけには投票しない」というくらいの意気込みをもって、これからの各級選挙に当たらなくてはならない。「そうは言っても、地域の義理がある」とか「ほかにふさわしい政党がない」などと考えず、とにかく法的根拠もないままに「閣議決定すれば何でもできる」という状況を是正するための投票行動を起こすべきということである。

 「閣議決定すればなんでもまかり通る」が如何に怖いことであるか、それは閣議決定とはいえ結局首相にすべての閣僚の任免権がある以上、閣議決定はイコール首相の政治判断ということである。「閣議決定万能論」を許せば、次に来るのは一党独裁への道であり、一国自滅への暴走でしかないことを、わたしたちはいやというほど思い知らされて、まだ100年もたっていない。

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私的安倍晋三論ー2

私的安倍晋三論(2)

「一地方議員から見た安倍晋三と彼の政治・政策-2」

 安倍晋三と彼の政権が、日本という国に拭いきれないモラルハザードを引き起こしてしまったことは前章で書いたが、では安倍政権は政策の面でどんな影響をこの国に残していったのか考えてみたい。

 まずは総論から始めよう。ただ、初めに断っておかなくてはならないが、全ての安倍政権の失策は独り安倍政権だけの、あるいは日本だけの責任とは言えない。格差社会の到来を産む直接的きっかけを作ったのは、1997年の小泉政権の「働き方改革」ならぬ「働かせ改革」にあったし、金融における量的規制緩和政策は米国のリーマンショック危機によって泥沼化したものである。さらに言えば、政治と政府の無責任体質の固定化は、第2次安倍内閣の下、2014年に「内閣人事局」が創設されてからだとされているが、政治による行政人事支配のための強権浸透圧力の始まりは、民主党政権発足直前の2009年、小沢一郎が脱官僚を掲げて霞が関人事を政治主導する方向に舵を切ったことが節目になっていると言える。

総論

①新自由主義という名のうわべだけの市場原理至上主義と自己責任論

 前々から日本国民は政治家について信用しなくなっていたし、期待もしていなかった。その政治家が霞が関人事を牛耳るようになって、行政もまたモラルハザードを起こし、それとともに機能不全に陥ってしまった。さらにその場しのぎの無責任体質は大企業にも伝染してしまい、長期的な見通しに立った戦略の構築や展開を怠るようになった。結果として日本経済の硬直化と停滞を招き、世界第2位の経済大国として国際社会に存在感を確保していたこの国が、今では先進国(OECD加盟国)中の下位にまで落ちぶれてしまった。その過程で勝ち組負け組と言われる格差社会を現出し、拡大させ、固定化してしまった。

②地方分権改革を崩壊させたこと

 明治維新以降、敗戦を経験してもなお日本は中央集権体制を維持してきた。1990年代から2010年頃まで、中央集権体制に対する疑問から、地方分権改革の必要性が政治課題の一つになっていたのだが、それを安倍政権は全否定してしまった。日本より人口の多い先進国は米国であるが、周知のごとく合衆国であり、地方分権を確立させている。人口8400万人のドイツもまたラントと呼ばれる16の地方自治体によって構成される連邦国家である。英国やフランスは県の相当する単位が基本になっており、日本の地方自治体形を似ている。しかし、日本国の人口は1億3千万人と英仏の2倍近い。しかも、南北に長い列島で構成された国土を考えると、何もかもを中央で決定するということに軋みが出来てきている。だからこそ、地方分権改革が叫ばれたのだ。

 しかし、安倍政権はそれまでの地方分権への流れを方向転換してしまった。国会もまた、安倍に率いていた絶対多数与党である自民党議員は、一票の平等性において違憲状態とされた選挙区の再編成に、自分たちの既得権を重視するばかりで、地方がなぜ人口を減らし、衰亡しているのかという本質論には踏み込もうとはしなかった。

 地方は疲弊する一方であるだけでなく、それによって医療体制などの基本的人権にかかわるハードソフト両面の地域インフラが崩壊してしまった。特に医療体制の崩壊は新型コロナ感染症パンデミックで露見したように、地方にとってはまさに存亡の危機的状態に甘んじることを余儀なくされている。

③政治と行政組織のモラルハザードを引き起こしたこと

 繰り返しになるが、モラルハザードは政治機構、行政機構内部の機能停止を生んでしまっただけではない。政権トップのゆがんだコンプレックスから来るルサンチマンによって、良識や常識をことさらに捻じ曲げ、自分を阿諛追従してくれるお友達の世界に閉じこもり、その中から宣伝コピーのような空虚なスローガンの列挙、連発して、国民を目くらましにかける政治に終始し続けた。

 日本銀行でさえ例外ではなかった。厳格に政治からの独立性を保障されてきたはずの日銀を政治の道具にしてしまい、この国の経済を金融市場至上主義という覚せい剤中毒患者にしてしまった。勤勉さに裏付けされた技術立国、工業立国であったはずの日本を、あっという間にマネーとストック(株式)が経済を席巻する国にしてしまった。結果として、国全体の活力を喪失させ、国際的な影響力を低下させ、国の真の安全保障を脅かし、この国の未来への可能性すら危うくしているのだ。

 これも繰り返しになるが、国民はこれまでも政治家を信用してこなかった。そのことは相次ぐ各級選挙のたびに投票率が大きく低下していることが、もっとも如実に物語っている。

④教育基本法改正案を強行採決で成立させたこと

 安倍晋三のポリシーに戦前回帰の傾向が潜んでいることはよく言われてきたが、それが政策面で実際に表に現れたのが、教育基本法の改正である。この改正によって本来基本法の宛名人(それぞれ法律を守ることを求められている対象。憲法や基本法の場合は国または国権)を国または国権から国民にすり替えてしまった。国の国民対する義務であるものを、国民が国に対して義務を負うという方向に切り替えようとする試みの、この改正が始まりであるといえよう。

 教育の基本精神は世界子どもの権利条約の前文にあるように、あくまで「子どもの健全な成長と未来を保障する」ことにあり、決して「国や産業界に都合の良い国民、労働者を確保する」ためではない。だからこそ、教育基本法の名宛人、つまり誰がこの法を遵守しなくてはならないかは「国」でなくてはならない。それを安倍の教育基本法改正では、改正された部分の全てにおいて、名宛人が国から国民にすり替えられている。それが何を意味し、どんな影響がこれからのわたしたちの身の上に関わってくるのか、すでに多くの専門家が語り始めているが、手遅れにならないうちにわたしたちは目を覚まさなくてはならないだろう。

各論

  • 経済政策

アベノミクスの3本の矢はつまるところ、「期限も出口もない金融緩和」「日銀による国債の無制限な買入れ」「公的年金基金を株式に投入することによる株価の維持」という3本である。彼は実質経済の成長ではなく、バブル経済の再現を目指していたのである。1980年代のバブル経済が異常であっただけでなく、それから今日に至るまでの年月で、我が国の国際競争力は喪失し、産業の空洞化を招いてしまった。彼の特異な目くらまし発言でトリクルダウンなどという言葉を連発したが、その結果として残ったのは、国の莫大な借金、大企業のこれもまた莫大な企業内留保資金、そして国民相互の経済格差である。その結果、この国は世界第2位の経済大国から、先進国の最下位にまで経済力を陥落させ、国民の、特に若い世代の未来への希望をむしり取ってしまった。

  • 国際関係・外交政策

 長期政権を維持するとそれだけで例えばG7などに出ると古参としてプレゼンスを強めることが出来る。誰でも一度も会ったことのない人よりも、一度でも言葉を交わした人に対しての方が心を開きやすい。しかし、それはあくまで顔を覚えられるということであって、相手から畏敬や尊敬の念を得られるかどうかは、また別の問題である。実はここでも、彼のコンプレックを背景とした、組みしやすい相手とのみ組むという国内政治でのやり方が悪い方に働いていたとわたしは考える。

 その一番の例がプーチンとの関係だ。「ウラジミール」「シンゾー」と親密ぶりを誇示しながら、北方領土をまるで馬の鼻先にぶら下げた人参のように使われて、日本の官民の資金をむしり取られ続けた。

 2018年9月10日に行われた日ロ首脳会談は、通算22回目となる安倍首相とプーチン大統領の会談であり、2人だけのテタテ(tête-à-tête)に加え、少人数会合、拡大会合と通常通りの組み合わせで両者の親密な関係を演出しつつ、これまで事務方が積み上げてきた、様々な経済協力プロジェクトの進捗を確認し、新たに5つのプロジェクトのロードマップに合意して、11-12月に日ロ首脳会談を開催することまで約束した。安倍政権の悲願であり、長年の懸案である北方領土問題返還交渉そのものはなんら進展はなく、まず経済協力を拡大して、その実績から領土を巡る交渉に入って平和条約の締結へと繋げるというそれまでの日本政府の方針を大きく変えることは出来なかった。

 安倍首相は2日後日ロの共催で行われた東方経済フォーラムの中の日ロ両首脳の公開討論の場で、プーチンに向かって北方領土を巡る問題が日ロ両国だけでなく極東アジア地域の障害になっていると訴え、「もう一度ここで、たくさんの聴衆を証人として、私たちの意思を確かめ合おうではありませんか。今やらないで、いつやるのか、我々がやらないで、他の誰がやるのか」と問いかけ「一緒に歩んでいきましょう」と提案をした。その時は彼が総裁選に出馬してその党内地固めの最中にいたことを考えると、安倍は外交で成果を上げようという彼一流の大風呂敷にも似た目論見があったと思わざるを得ない。

 プーチンはここでも安倍の足元に付け込んでいる。彼は「今、思いついた」と前置きした上で「あらゆる前提条件をつけず、年末までに平和条約を結ぼう」「争いのある問題はそのあとで、条約をふまえて解決しようじゃないか」と突然の提案を行った。しかも「ジョークではない」とわざわざ断りを入れている。安倍はそれに即妙に反応することが出来なかった。

 この会談で日本は結局、総額3000億円規模という史上最大規模の対ロシア経済協力を約束させられ、なんの信用保証(権益保障)も担保も得られないままに、政治主導の形で日本企業のロシア進出が加速することになり、今日に至っている。

 欧米からの経済制裁に苦しむロシアに対して、積極的に経済協力を先行させて領土問題で譲歩を引き出す環境を整備するのが狙いということであったが、国民の貴重な税金がここでもただむしり取られただけであった。しかもプーチンのウクライナへの侵攻によって、その3000億円のうち、すでにロシアに渡った分は何の見返りもないまま、全て頓挫してしまったことになる。

  • 安全保障政策

安倍晋三の安全保障とは憲法9条の縛りを解くこと、軍備を拡大することに尽きる。

 敵基地に届くミサイルの配備などと声高に言っていたが、それこそ彼の思考の浅薄さを物語る。敵基地に届くミサイルを配備すれば敵はそのミサイルが届かないところから打つことのできるミサイルを持つだけのことである。軍備による国民保護を考えるなら、敵がミサイルを打っても全て撃ち落すことができる防空システムを持つことである。中・長距離弾道ミサイルの配備などは米国の軍需産業を喜ばすだけでしかない。しかし、安全保障とはそんな単純な盾と矛の論議で語られるものではあるまい。

 さらに敵とはどこの国、誰を指すのか。安倍晋三とその後継者たちはなぜ日本国憲法の前文と憲法9条の精神をなし崩し的に改変してまで軍備増大を増大して、どんな戦争に国民を巻き込もうとしているのだろうか。

 そもそも安全保障は軍事力によってのみ確立するものではない。戦争が外交の一形態である以上、外交力、政治力が最も重要ではなかろうか。また、安全保障という以上、食糧安保、情報安保、独自の産業技術開発なども考えなくてはならないのに、安倍の頭には憲法9条改編以外何もなかったのではないか。

 他にも社会保障・福祉政策、医療・保健政策、資源エネルギー政策での失敗や行き詰まりがあった。そのことは既に安倍政権の評価について多くの専門家が語り始めている。中でも教育政策はこれから何十年もこの国に負の効果を与えかねない失策である。モリ・カケ問題などは「安倍お友達コネクション」によって政治と行政がどれほど捻じ曲げられたかという事件であり、教育行政に限らず安倍晋三の政治の実態の何たるかを物語っている。わたしたちははそのことの重要性に着目して、一にも早く信頼のおける政治家を探し出し、育てていかなくてはならない。

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