1.政治家の「責任」について
先の総選挙に続いて、今回もまた自民党の惨敗となり、案の定、与野党ともに「石破やめろ」の大合唱である。立民を始め、野党がそれを言うのは当然であり、むしろ、辞めないのなら直近の特別国会で「不信任案」を提出するべきだろう。民主主義の選挙制度で「ノー」を突き付けられたら退陣するのが当然であり、それをしないで政権にしがみつくのを野党が見過ごすようでは、自ら民主主義を否定するに等しい。
問題は自民党である。惨敗という選挙結果に、ここぞとばかり石破おろしを始めたが、元々から石破嫌いの、田川のヤクザはともかく、そのゾンビ政治家の怨念の尻馬に乗っているのは、同じく旧清和会(安倍派)のゾンビたちと自衛隊OBのペット怨霊玉梓だろう。
トップが責任を取るべきだというが、これまでの失われた30年間、アベノミクスをはじめとする政策の失敗の責任は誰が取ってきたというのだろうか。1955年に自由党と民主党(当時)の大合併で生まれたのが米国の傀儡政権のための政党である。それこそが自由民主党ではないか。それが今や米国第一主義のトランプの脅しに乗って平身低頭するだけの体たらくだ。責任を取るというのなら党そのもの、当所属の国会議員全員が取るべきであり、トップの首をすげ替えて利権と裏金で私腹を肥やす実体を誤魔化そうという思惑を見過ごすことは、日本と日本人の未来を危うくするだけである
特に一番騒いでいるのが旧清和会の中堅議員たちであるという。彼らは所謂、安部チルドレンであり、皆が皆、叩かれれば誇りが立つことを恐れた現在の自民党中枢から冷や飯を食わされてきた連中である。石破にやめろというのなら、少なくとも差し違えるくらいの覚悟を持って言うべきだろう。それを大半は顔も出所も隠しての大合唱である。水面下で「党員総会」開催要求のための署名活動をしているというが、厚顔無恥とはこのことだろう。元々自分たちが決まり文句のように「責任の取り方には色々ある。責任を感じているからこそ、職責を全うしたい」「辞任せずに頑張りたい」などと言ってきたのではなかったか。
首相経験者というゾンビと現職首相が雁首揃えて何を話し合ったか部外者には見えてこない。しかし、少なくとも「党を分裂させてはならい」というところで一致したそうだ。逆に言えば、党が割れそうな気配もあったということだろう。参議院選挙は選挙前からの大方の予想通り、与党の過半数割れにはなった。しかし、わたしに言わせると自民も公明ももっと減らしても良かったのだ。むしろ、参政党や保守党、維新の会が不満と批判の受け皿になったため、野党が共倒れの形で、自民に後れを取った選挙区もあった。こんな中途半端な審判ではガラガラポンとまではいかないだろう。元々、地方も国政も、権力と既得権益にしがみつくためにぶら下がってきた今の自民党議員たちに、党を割って出る勇気などあるわけもない。
一方、有権者の政治に対する期待感や要望も価値観の多様性を反映して定まらない。一昔前のように右か左か、保守かリベラルか、与党か野党か、資本家階級か労働階級かといった二者択一という選択ではなくなっている。今回の選挙で躍進したと言っても、野党はどの党も自党の主張だけを声高に唱えるだけで、大同団結しようという考えは見当たらないし、各党のその主張も先鋭化したプロパガンダにしか見えない。逆に「比較第一党」と強がって見せても、自民党にカリスマ性と求心力を持って保守勢力を一つにまとめようという新しいリーダーはいない。ゾンビと怨霊だけが力を持つ幽霊屋敷のような政党だからこそ、これまでの岩盤支持層までがそっぽを向いているのだ。
世界が大きく変わろうとしている中、国際的なプレゼンスを高め、信頼を得るには何より、まずは国内の安定なのだが、しばらくは混とん状態が続くことを覚悟しなければなるまい。
石破が寝業師であれば、その昔、村山社会党を抱き込んで与党であることを継続させたように延命を図るだろう。一方、安部チルドレンやゾンビたちは第一次安倍政権が下野して、政権維持の経験のない民主党のポカを誘い、結局、直ぐに与党に復帰して長期戦権を築いた夢をもう一度と思っているかもしれない。いずれにせよ、与野党の国会議員の眼中に国民の生活などはない
わたしはこの状況がいつか来た道に思えて仕方がない。第一次大戦後の好景気、大正デモクラシーと来て、世界恐慌による国内経済の混迷の中、政治の腐敗に対する国民の政治不信に乗じて、軍部が軍拡々々と走り続けて二度のクーデターまでしかけた挙句、ポイント・オブ・ノーリターンを渡ってしまったのだ。それからの15年、日本がどんな道を辿ったのか、もう一度キチンと振り返らなくてはなるまい。