ステイホームウィークスー4

4-パンドラの箱

 人類の歴史は戦争と伝染病の歴史といっても過言でないほどです。欧米の指導者たちはいち早く新型コロナ感染症対策を「これは戦争だ」と言ってのけました。感染症の中でも天然痘やペスト、コレラなどは一つや二つの戦争どころでない死者を出しています。14世紀に猛威を振るったペストは数度の波状流行で1億人以上の命を奪ったとされています。当時の世界人口が4~5億人くらいだったことからすると、その脅威は想像を絶したことでしょう。中世ヨーロッパではモンゴル軍の襲来に端を発し、その後は十字軍の東方遠征の際の大型船によって持ち込まれたネズミに寄生していたノミが、ペストを媒介したことは広く知られています。

 そのペストでさえ決して過去の伝染病ではありません。現にWHOの報告では2004から2015年までの12年間で世界の感染者数は56,734人でしたし、そのうち4,651人がなくなっています。天然痘は現代では撲滅したとされていますが、3千年以上も前の古代エジプトのファラオが天然痘で亡くなったことが歴史上最初の犠牲者であったことは有名です。それ以来、つい数十年前までの3千年間人類の脅威であり続けたのです。アステカやインカ帝国が滅亡したのも、スペイン人の殺戮ではなく侵略者自身や彼らが連れてきたアフリカの奴隷たちによって持ち込まれた、天然痘の爆発的流行によるものだったと言われています。

 ギリシア神話の成立する時期にも「ギリシアのペスト」と呼ばれる疫病が流行し、それによってギリシア文明そのものが衰亡する一因とされています。「ギリシアのペスト」はペストではなかったというのが定説になっていますが、もともと地中海地方ではどこでも、致死性の強い伝染病のことをペストと総称してきました。その伝染病が何であれ、一大文明を脅かすほどの威力があったということだけは理解できます。

 カミュの小説「ペスト」は時代背景もモティーフも違いますが、伝染病によって人間が何を考え、どう行動するかという事を根源から考えさせてくれます。その物語からは、わたしはどことなく「パンドラの箱」をイメージしてしまいます。有史以前から人類を何度も襲ってきた伝染病が人間にはどうしようもない災厄であることであり、そのすさまじい脅威がギリシア神話に「パンドラの箱」として、記述されたのではないかと想像するのです。。

 パンドラは、ギリシア神話に登場する人類最初の女性です。パンドラの「パン」は「全て」あるいは「ありとあらゆるもの」という意味であり、「ドラ=ドーラー」は「与えられた」という意味です。つまり、パンドラは「ありとあらゆるの贈り物」となります。この「パン」は「パンデミック」の「パン」と同じ意味です。

 パンドラの箱の話は時代や訳者によってその解釈は結構違っています。大方のあらすじは「プロメテウスが天界から火を盗んで人類に与えたため、神の言うことに反抗的になった人間に怒ったゼウスが、人類に災いをもたらすために初めて「女性」パンドラを作らせて人間界に送り込んだ」というところから始まります。「神々はパンドラにありとあらゆる贈り物を与え、最後に決して開けてはいけないと言い含めたうえで箱(原意では壺または甕)を持たせて、人間界に送り出す」のです。

 ある日パンドラが好奇心に負けて箱を開くと、そこから疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど様々な災いが飛び出してしまいます。パンドラは驚いて急いで箱のふたを閉めようとしましたが、その時はこの底にいたエルピス(予見、希望、期待の意)を見つけるのです。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになりました。

 さて、箱の底にいたエルピスをどう解釈するか面白い命題になっています。古典ギリシャ語のエルピスは本来「予兆」や「期待」のことであり、英語の「希望Hope」の語源になっています。ただし、原義では「災厄は辛い。それが逃れられないのに予知することはもっと辛い」「全ての厄災が入っていたというのであればエルピスも厄災にひとつのはずだ」として、エルピスとは「悪い予感」と解していたようです。それが時代とともに「数多くの災厄があっても、希望が残ってくれたので人間は絶望しないで生きる事が出来る」という意味の「希望」に変化していったようです。

 新型コロナウイルスはわたしたち人類にこの物語について、改めて思い起こさせてくれました。プロメテウスが展開から盗んで人類に与えたという「火」とは文明でしょう。その結果、神々の怒りをかうことになったのは「環境破壊」や「差別・偏見」などのことだといえます。新型コロナウイルスは単に感染症としてわたしたちの生命を脅かしているだけでなく、「国際間の対立と分断」「貧困や格差の拡大」「イライラからくる他者への攻撃やいじめ」などなど、ありとあらゆる厄災をもたらしています。

 日本では自粛と呼ばれていますが、世界的には行動規制や都市封鎖によって、ありとあらゆる産業が大きなダメージを受けました。人々は弱い者から狙い撃ちにされ、国々は貧しい国ほど深刻に、抜き差しならないほどの被害と損害を被っています。そして直接的なものだけでなく、普段は目に見えない人々の心の奥底に潜む暗黒に至る人間のエゴイズムを白日の下にさらしてしまいました。どんな自然災害でも地球上のどこかに限定して発生するのであれば、残りの国々や仲間たちの力で助け合うことができます。しかし、パンデミック(あらゆる人々)の上に降りかかる災難となると、わたしたちは他者を思やる心を忘れてしまいがちです。その点で我々日本人はいち早く我に返って行動できたのかも知れません。

 さて、パンドラが箱の底に見出した「エルピス」とは、今回の新型コロナウイルスという厄災に苦しむ我々にとって、「希望」になるでしょうか。それとも単に「悪い予感」になってしまうのでしょうか。我々人類すべての英知が試されているのかも知れません。

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