わたしの政策談義 11.外交について(その1)

11.外交について(その1)

 平和を保つために最も重要なのは軍備ではなく外交であることは言うまでもありません。しかし、戦争を避け平和を保つための外交は、知恵と忍耐によってのみ叶えられるものであり、時には悪魔の所業にも匹敵するほどの駆け引きと誑かし合いを覚悟する必要があります。まして今日の世界情勢の中では「敵の敵は味方」という論理が複雑に絡み合って、外交の場に快刀乱麻の手腕を期待することはできなくなりました。

 戦争は外交の一形態と言われています。内実はともかく表面上は静かな戦争が外交であり、それが破たんした時に起こる熱く激しい外交が戦争なのです。トルストイは19世紀に大河小説によって「戦争と平和」という永遠の命題を世に問いました。人間が定住生活を営むようになってから今日に至るまで、いかにして戦争を回避するかということは政治にとっての最も重要な課題でした。しかしまた、その裏で実は戦争と平和は正しくあざなえる縄の如く表裏一体であり、不可分な事象ともいえるのです。

 平和状態を保つ頃がどんな状況下においても最優先され、なおかつそれが最善の防衛策であることは論を待ちません。何があっても、どんな状況下でも戦争にならない状態を保つことが平和ということです。そしてその平和を維持できるかどうかは、須くその国の外交能力の如何に掛かっていることは今更あらためて確認するまでもありません。言い換えれば、どんな状況下であろうとも、またどんな背景があろうとも、先に引き金を引き、先にミサイル発射のボタンを押した方が、自らの外交能力の無さを露呈したことになり、より強く避難されるべきです。

 近代までの戦争はもっぱら専門職である軍人兵士の戦いであり、市民が犠牲になることはほとんどありませんでした。戦争に最小の犠牲で勝利することが当時の政治家にとって、最も重要な手腕だとされ、それがその国の外交力だとされていました。そのため、戦争に勝つためにはどうすればいいかと考えるばかりで、戦争を回避するにはどうしたらいいかという考えに多くのエネルギーを割くことをしていませんでした。

 第二次世界大戦を勝利したチャーチルやF.ルーズベルトなどでさえ、外交交渉を戦争回避のためにするのではなく、戦争に勝つための戦略の一環として展開した政治家でした。しかし、核兵器のみならずドローンやAI兵器などが登場するに至って、戦争は始めたら最後、市民を巻き込み市民を犠牲にして、終わることのない殺戮と破滅でしかなくなりました。正義の戦争などはありません。愛国心によって引き起こされた戦争などというものもあり得ないのです。戦争は破壊と殺戮の応酬以外の何物でもなく、そこから生み出されるのは悲しみと憎しみ、絶望と怨恨の連鎖であり、地球を破壊し果ては人類の破滅なのです。

 外交に3つの思考段階があるとしたら、それは1)国の未来をかけた戦略、2)状況を見極めて取るべき方向性を見出す戦術、3)人心(国際世論)を掴みつつタフネゴシエーターとして臨む交渉術だとわたしは考えています。

 ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まってから以来1年以上を経過しても、収束の気配すら見えません。それどころかプーチンは未だに核戦争をちらつかせて国際社会を脅しにかかっていますし、極東では北朝鮮の挑発的な示威行為も激しさを増してきました。トルコでは犠牲者が5万人を超す大地震が発生しましたし、新型コロナ感染症がやっと一息つきそうだという矢先、今度は中東の火薬庫にまた火がついてしまいました。今後、世界がどうなっていくのか五里霧中の日々が続くばかりです。

 国会議員でも外交官でもないわたしには、ここで結論めいたことを言える資格も能力もありません。さらに外交とは流れる水と同じで刻々と移ろいでいく国際情勢と、その時々における隣国との関係を、どう観察し、どう判断し、どう行動するかも変わっていくものと考えています。それでも日本の自主外交について語るためには少なくとも周辺の状況について、少し学んでおこうと思い、これまで日本とその隣国である米国、ロシア、中国、朝鮮半島の2国について、わたしなりに調べてきました。

 その上でもう一度言いますが、外交というものは刻々と移ろいでいるものであり、その都度、臨機応変に即座に判断していかなくてはならないものです。つかみどころがないとも言えます。しかもそれは5年10年という短いスパンの話ではなく、一国の、そしてそこに暮らす億万人の国民の未来を左右するものです。刻々と変わる状況の変化に即応するということと、長期の展望に立って判断していくべきということは矛盾しているようですが、それが外交というものではないでしょうか。

 では何が最も大切かというと、まず、国のリーダーが些事に動じない不動心を持つことではないかと考えます。しかしながら、封建社会から君主制社会へ移行しつつあった時代ならともかく、民主主義の世にそのような外交の最高責任者など望むべくもありません。また、一人の人物に何もかも委ねるというのは、かえって怖い話でもあります。また、民主主義社会の国民が、只でさえ商業主義にどっぷりつかっているマスメディアやSNSに、どれだけ扇動も誘導もされやすいかを、わたしたちはこれまでいやというほど経験してきました。

 本来なら国としてのポリシーというか哲学のようなものから考えて行くことが基本とは考えますが、基礎自治体の行政ばかりを念頭に活動しているわたしには、形而上学的に外交をとらえる力はありません。そこでそこを飛び越して、まず戦略的な考察をしていけば、自ずとわたしたちの国の本質にまでたどり着けるのではないかと、いささか居直りではありますがそう思っています。

 では、わたしの考える外交戦略とは何か。それは①3ず外交(侮られず、嫌われず、疎まれず)日米安保条約とその付属文章である日米地位協定という昭和の「不平等条約」の改正③アジア重視(脱欧入亜)④平等に視点を置いた人権重視主義という四つの柱です。そこでその一つ一つについて、わたしの考えを書いてみたいと思います。

①3ず外交(侮られず、嫌われず、疎まれず)

徳川300年(実際には270年)の封建制度下の太平の世から目覚めた時、玄関のドアをけ破って入ってきた黒船4艘に彼我の軍事力の差を見せつけられたことで、日本人の多くは恐れおののき、また別の多くは過剰に攻撃的になりました。また、開明的な少数の日本人は冷静でしたが、それでも「侮られてなるものか」という意識を抱きました。

 明治維新後も日本人の確固たる信念は何より「侮られてなるものか」であり、「国」のかたちを急ぎに急いで欧米と同じ「国家」に建て替えようとしたのも、幕府が屈服する形で結ばされた「日米通商修好条約」をはじめとする不平等条約の改訂に力を注いだのも、欧米列強に「侮られてなるものか」という矜持のなせる業であったと言えるでしょう。

 その当時、中国大陸は欧米列強から「侮られた」結果、蚕食状態に植民地化されていました。朝鮮半島はまだ太平の眠りについたままでしたが、既にロシアなどが虎視眈々と狙っている状態でした。その後、今日までの日本と朝鮮半島のささくれだった関係を考える時、3ず外交はまた、「侮らず、嫌わず、疎まず」と言えるのかも知れません。

②日米安保条約とその付属文章日米地位協定という昭和の「不平等条約」の改正

2010年6月、当時の民主党政権の首相だった鳩山由紀夫氏が辞任しました。いくつかの問題が背景にあったとはいえ、辞任を余儀なくされた最大の理由は普天間基地の辺野古への移転計画でした。「最低でも県外」という彼の発言はまるで流行語のようになり、当時の野党(自民党や公明党)側からの鳩山降ろしの攻撃の格好の材料とされました。同時に民主党が「脱官僚政治」という基本施政方針を掲げていたことによって離反していた霞が関のサボタージュと相まって行政府が機能停止状態に追い込まれ、さらには与党側の社会民主党の政権離脱にとどめを刺されました。

 彼の「最低でも県外」という発言が鳩山政権の致命傷になったのは、日米安保条約であり、日米地位協定の存在なのです。現在、沖縄県知事の玉城デニー氏が沖縄県民の総意と国の強引な姿勢の間で板挟みとなって、孤軍奮闘していますが結果は見えています。沖縄県民以外の本土に暮らすわたし達が沖縄の現状を理不尽と思い、その思いを政治にぶつけて行かない限り、安保条約と地位協定を憲法よりも上位と判断している最高裁のもとでは、司法の場でも勝ち目はないのです。

 そうなんです。日米安保条約や日米地位協定は、実はいつの間にか日本国憲法より上位の法的根拠となってしまっているのです。1951年当時、日本はまだ占領下にあり勿論自衛隊のような自前の国防軍も持っていませんでした。その状況下で締結された安保条約は、日本に独立を認める代わりに米国のそれまでの権益(特に軍事上の)を全て保障することを目的としていました。60年の条約更改、70年の条約更改の時も米国による実質的な占領と支配であるということへの、多くの日本人の抵抗はありましたが、結局肝心の部分はそのままになりました。

「日米安全保障ガイドライン」が共同宣言という形で公表され、1991年の冷戦終結時には沖縄の負担軽減についても、日米でまじめに語られるようになっていました。しかし、2001年に起きた米国同時多発テロによって、そのムードもあっという間に凍り付いてしまって、今日に至っています。

 日本は世界第2位の経済大国などとおだてられ、のぼせ上っている間に、「思いやり予算」などといういい加減な名称で、米国の一方的な都合で日本に駐留してきたはずの米軍の駐留費まで肩代わりするようになりました。今では肝心の経済力ですら、人口の多い中国だけでなく、人口も国土も日本よりずっと小さいドイツにさえ後れを取るようになってGDP世界第4位になりましたが、在日米軍を日本の予算で支えているという構図は変わりません。

 在日米軍の人数は正確なところは判りません。なぜなら、彼らは日本の出入国管理の外にあり、いつでも何人でも自由に出入りできるからです。それでも陸海空に海兵隊を合わせた人数は約4万5千人ほどだと公表されています。その内約2万3千人、つまり約半分が沖縄に駐留しています。

 わたしは普天間基地に駐留する海兵隊に特に注目しています。沖縄にいる米軍2万3千人の内1万5千人が海兵隊員です。その数は日本に駐留する海兵隊員の約9割に達しています。また、米国の海兵隊員の数は全体で約18万人ですから、約8%が日本に駐留していることになります。

米国の海兵隊はアメリカ独立戦争中の1775年に設立された大陸海兵隊を起源とする軍隊ですが、現在では本土の防衛ではなく外征専門部隊になっています。第2次世界大戦では敵地に強行上陸を行う水陸両用作戦を担ったことなどから「殴り込み部隊」とも呼ばれています。その敵地に殴り込むことだけを任務とする特殊部隊が、日本のそれも沖縄に集中して駐留していることの異常さについて、わたし達本土の日本人はずっと知らぬ顔をし続けてきたのです。

 米国は建国以来の民主主義の国であり、理想主義の国だったはずです。しかし、今世紀初頭に起った同時多発テロによって米国は一変してしまいました。それでもわたし達は日本国政府だけでなく米国世論に対して、日米安保条約とその付属文章である日米地位協定の持つ矛盾と理不尽さを、粘り強く訴えていかなくてはなりません。日米が本当の意味で良きパートナーであり続けるためにも、両国が世界の国々から信頼される国であるためにも、それが残された唯一の方法だとわたしは考えています。(続く)

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