わたしの政策談義 12.外交について(承前)

12.外交について(承前)

 外交について語ろうとして、現在のパレスチナの状況の背景に思いを馳せるのは、外交というものが、それほど悪魔も顔負けするほどの非人間的策略でもあると言いたかったからです。しかも、その欺瞞と裏切りをも厭わない策略の行使である外交が破たんして戦争ということになれば、非人道的連鎖が果てしなく続くことになることを、ガザの子どもたちの命を代償にしてわたしたちに教えています。

 さて、嘆くばかりでは未来は見えてきません。そこでわたしなりに日本の外交について提案したいと思います。キーワードはポリシーとして「平等主義」、手法として「脱欧米入アジア」の二つです。

 平等主義は「人権」と「多様性」の平等ということです。歴史は文字が生まれてからのものしか、わたしたちは接することができませんが、その歴史の始まりからずっと人間同士の争いは、自分たちの属しているコミュニティーの外にいる人間の生存権、つまり基本的人権を否定もしくは軽視することから生じてきました。その一方でいつの時代にも指導的役割を果たす人々の中には、その他者の人権をも認めることこそが自分たち自身の平和を保障し、生活の安定を図ることに通じると考える人々も少数ながら存在してきました。その少数の人々の声を、他の大多数の人々が聞くかどうかが、そのコミュニティー、国や民族や同盟国の平和が実現するかどうかにかかってきたこともまた、歴史が証明しているだけでなく、現在進行中のユダヤ人の宿痾が世界中の人々の心に直接示しているところです。

 他者の人権を認めることは、実は「言うは易く実行するは難し」です。わが身を削って他者を養うということは、ある意味生き物としての性から言えばあり得ないことかもしれません。しかし、わたしたちは人間です。人間としての知恵と情を持っています。その知恵はわたしたちに他者と物を分け合うということを教えてくれますし、情は惻隠の心を抱かせてくれます。もちろんそれが施しであったり、哀れみであったりすることもあるでしょう。それはそれでかまわないのですが、平等かどうかという視点からは施しではなく、助け合いであり協力でなくてはなりませんし、哀れみではなく共感や同情でなくてはならないとわたしは考えています。それが国レベルの関係において普遍の感覚になれば、この地球上から戦争も侵略もなくなるはずなのです。そんな夢みたいなことと思われるかもしれませんが、実は侵略も戦争も突き詰めていけば、国レベルの、国の指導者レベルで、その知恵と情を喪失するところから始まるものであり、だからこそ、というかそれほど単純なところから始まるからこそ、人間の歴史は戦争の悲劇に血塗られることから逃れられないのだとも、わたしは考えています。

 今、SDGsの考え方が広がっています。もともとは地球環境を守るということを目的にした考え方なのですが、常々、わたしは17あるSDGsの目標を一言で言うならば「他者を慮る」ことだと説明してきました。その目標の最初は「貧困をなくそう」であり、以下「飢餓をゼロに」3「すべての人に健康と福祉を」4「質の高い教育をみんなに」5「ジェンダー平等を実現しよう 」と続いています。これらSDGsの目標こそが、つまりは世界レベル、地球レベルの平等主義であり、人権尊重なのです。

 ロシアとウクライナの確執の歴史、中東の置かれている複雑な事情などを考える時、そう一筋縄でいくものではありませんし、それどころか周辺国や大国の思惑も次第に危険域に入ってきているかもしれまでん。それでも、今こそわたしたちは人間としての知恵と情を発揮して、命を守り、地球を守らなくてはならない時です。そして、その目安としてSDGsの17の目標をそれぞれの立場で考えなくてはならないと考えています。

 そこで日本人であるわたし達について考えると、迂遠ではありますが「脱欧米入アジア」を提唱したいと思います。「脱欧米入アジア」とは明治期の日本が唱えた「脱亜入欧」のアンチテーゼです。とは言っても昭和初期の軍国主義から生まれた「八紘一宇」の考え方とは一線を画すものだと考えます。「八紘一宇」についてはいずれ考えるとして、ここでわたしが言う「脱欧米入アジア」とは、要するにご近所と仲良くしましょうということです。

 もちろん、明治の日韓併合や昭和初期の中国侵略、満州国建国などなど、日本人が犯した多くの過ちを、隣国の国民に中には未だに許す気のない人々が少なくありません。日本人の側も、半島を蹂躙していた関係者が未だ存命であったことを理由に、なかなか過去の清算をしようとしません。昭和史、特に太平洋戦争の経緯について多くの書籍が出版されているにも拘らず、未だに昭和初年から敗戦までの日本史は公式見解ともいうべき結論は出ていません。それどころか、ややもすると戦争を肯定し美化しようとする勢力が、未だ後を絶たないのは国際常識からするとはずかしいばかりか、この国をまたあの戦争の狂気と混乱に導こうとしているのを絶対に許すことはできません。

 1997年に「働き方改革」なる「働かせ改革」が始まって以来、その政策によって、わたしたち日本人の特に若者の生活を苦しめ、未来への希望を摘み取ってしまいました。それ自体も由々しき問題ではありますが、結果として、それまで日本にあこがれさえ感じていたアジアの国々も日本に失望するとともに、そのためにアジア全体が混迷さを増している今になって、日本はよい意味での影響力を発揮することができなってしまいました。 しかし、わたしは思い出しています。1981年7月16日にマレーシアの第4代首相に就任したマハティール・ビン・モハマドが同年の12月15日に表明した「ブミプトラ政策」が、その内容から「ルック・イースト」と呼ばれるようになりました。ルック・イーストのイーストが日本を示す言葉であることは有名です。当時、マレーシアは国際的には旧宗主国イギリスとの間で対立があり、国内的にはインド系と中国系の住民たちとの間での確執、経済が低迷するなどの問題が深刻化しつつありました。その時にマハティールは「日本人を見よ」と自国民に呼びかけたのです。「日本人は敗戦後の社会の混迷を克服して今の繁栄を創出した。それは自分たちを卑下することなく、誇りと信頼を糧にして、一丸となって前進したからこそである。わたしたちもマレー人としての誇りを取り戻し、胸を張って国の繁栄のために働こうじゃないか」というのが「プミプトラ政策」の根幹であり、それが「ルック・イースト」と呼ばれる事になったのです。ベースボール世界大会の時に大谷翔平選手が「もうあこがれるのはやめにしよう」とチームメイトに呼びかけたと聞いたとき、マハティールの言葉と通じるものがあるとわたしは感じたものでした。

 敗戦から10年で「もはや戦後ではない」と言うコンセプトが生まれ、20年で経済成長、さらに「高度経済成長」が始まりました。1ドル360円に固定されていた対ドルレートが、1973年から変動制に移行しました。その当時は1ドル307~8円くらいでしたが、1995年のピーク時には1ドル=79円75銭を記録しました。マハティールは「ルック・イースト」と自国民に呼びかけた時の円ドルレートは1ドル230~240円でしたから、日本はまだまだ成長期だったのです。マハティールは金持ちである日本人に学べといったのではなく、自分たちと同じ境遇でありながら、自助の精神で成長を続けているその姿勢に学ぼうとしたのです。

 残念ながら、現在の日本は政治の混迷、経済の停滞で、とてもアジアの優等生ではなくなってしまいました。しかし、それでもわたしたちがアジア人の一角にいることは変わりありません。今こそ、経済力に頼るのではなく、自分たちの矜持を取り戻さなくてはならないのです。その上で欧米へのあこがれを捨て、正々堂々と正しいことを互いに学び、自らの過ちを含めて間違ったことは、間違っていると真摯に正確に指摘するという姿勢を見せることが、アジアの仲間の信頼を強固にする最善の方法だと考えるのです。

 第2次世界大戦後、ことに米中、日中の国交が回復した1970年代当時と現代では、中国の存在感は大きく変わりましたし、台湾をめぐる情勢も様変わりしています。また、インドの成長は著しいものがあり、しかも今後数十年はその成長を続けることでしょう。日本がアジアのリーダーであるとの自尊心は捨てなくてはなりませんが、それでも、日本がアジアの優等生であるという認識は、ほかならぬアジアの人々が未だに強く抱いているのです。その期待に応えるために、わたしたちはどうあるべきかを考える。それがわたしの言う「脱欧米入アジア」です。

カテゴリー: エッセー集, 政治・時評 パーマリンク