ステイホームウイークス-6

 

6.パンデミックに立ち向かうために

 新型コロナウイルスはわたしたちに、否応なく色々なものを見せてくれています。それぞれの地域の自治体の長、それぞれの国のトップやその国の政治体制が有能かどうかや、民主主義の立場からみた危険性などについて、連日のように報道されています。コロナが新しい感染症の恐ろしさをもたらしたと同時に、わたしたちが知らず知らずのうちに見過ごしていたものをあからさまにしてくれていると言えるのかも知れません。

ただ、この際我々が最も自省すべきなのは、中でも内包してしまっていた人間性そのものの病巣についてだとわたしは考えています。その病巣はカミュの小説「ペスト」のモティーフとして一貫して描写した登場人物たちの内面描写に表されています。しかも、彼がペストと言う伝染病になぞらえて描き出した人間性は、時代を隔てた今日まで何も変わらずに繋がっているのです。

流行の初めの頃に起ったトイレットペーパーの買い占め騒ぎや中国政府によるマスクの禁輸措置などを声高に非難することは容易です。しかし、わたしたちひとり一人、胸に手を当てて考える時、誰かを、あるいは何かを非難する側にだけ立つことが、本当に許されるのかとわたしは自問しています。

5月23日、木村花という22歳の女子プロレスラーが亡くなりました。女子プロレスラーのヒール役(悪役)を演じていたとは思えない可愛い子です。未だにはっきりとはしていませんが、出演していたテレビ番組の中での発言に対して、SNSで耐えられないほどの非難中傷を浴びていたこと、メディアでは遺書らしきものがあったこと、硫化水素を発生させたらしい容器があったことなどから自死ではないかと取りざたされています。

わたしは女子プロレスも見ませんし、その問題のフジテレビの番組も知りません。しかし、炎上するほどの非難中傷を浴びていたとの報道を聞いた時、コロナ騒ぎさえなかったら、非常事態宣言下でなかったら、多くの国民に自粛要請下のストレスといら立ちが無かったら、彼女は死ななくてよかったのではないかと直感したものです。

自粛警察なる輩の存在が報道をにぎわせていますが、それは自らの不安や苛立ちを他者への攻撃によって解消しようとする卑劣極まりない行為です。まして、似非社会正義をかざして自らを正当化することが如何に恥ずべきことか省みて欲しいものです。自粛警察などと言う言葉自体、太平洋戦争中の在郷軍人や割烹着姿の国防婦人たちの悪行を彷彿とさせます。人間の弱さの発露ではありますが、それでも憎むべき行為と言わざるを得ません。

また、多くの心無い偽情報をSNS上で拡散し、しかも、それがいじめや差別、個人攻撃につながるという事案も多く発生しています。自然災害の時にも起きる現象ですが、見えない敵と買わざるを得ない疫病の流行の場合には、なおさら根深くその影響も深刻です。

そのような悪意のデマ情報に対して、今訴訟しようという動きが出てきています。確かに法によって裁くことは抑止力として有効でしょうし、実際に被害を受けている方々への補償にもつながるかも知れません。その悪意の情報やデマ情報の発信元であると特定されれば、司法の場で裁かれ、損害賠償請求などを受けることになります。不確定・不正確な情報を拡散しただけであっても、それを誰から聞いたのかを特定することが出来なければ、自分が発信元になるということも覚悟する必要があります。

例えSNS上であっても、その気になれば情報源を辿って行くことは可能です。しかし、考えてみましょう。法律によってSNS情報を監視し、場合によっては個人を摘発しなくてはならなくなるという社会は健全と言えるのでしょうか。自分は安全な場所に隠れながら誰かを攻撃するという輩を見つけ出し罰するためとはいえ、それでは社会生活そのものがさらにギスギスしたものになりかねません。

「自主要請に従わないなら法律で罰せよ」「買い占めに走る消費者や流通業者は罰せよ」と一見当たり前のように見える主張に、わたしは大いに疑問を抱いています。ごく少数の不心得者の存在のために、わたしたち自身がわたしたち自身を縛り上げてしまうことを受け入れるようでは、健全な社会とはいえないでしょう。考えてみてください。新型コロナ対策について「日本方式の奇跡的成功」などと海外メディアが注目しています。まだまだ予断は許されないにしても、確かに日本は新型コロナの蔓延には至っていません。それはひとえにわたしたちの「他者への配慮と思いやり」「衛生観念」「生活環境」などの相乗効果であり、我々が誇れる日本人の特性のお陰です。

そのことは東日本大震災の時にも世界中の人々の称賛の的になりました。何かというとすぐに暴徒化してしまう欧米人の姿と比較されて、日本人が整然と並んで救援物資を受ける姿が称賛されたのです。それでも、日本にだって不心得者がいないわけではありません。その少数の不心得者を糾弾するあまり自縄自縛になることだけは避けなければならないのではないでしょうか。

コロナだけでなく、これからも未知の感染症との付き合いは長いものになります。その見えない敵との戦いに疲れて、わたしたち同士が疑いあい、憎しみ合う社会にだけはならないために、何が必要なのか冷静にみんなで考えましょう。

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