ステイホームウイークスー7

7.コロナより怖いもの

 新型コロナウイルスは世界中で猛威を振るい、否応なく我々に現実を直視することを強いています。米国と日本の新型コロナ感染症による死亡者の統計的傾向を比較すると、米国では貧富の差が死亡率に反映しています。貧困層ほど死亡率が高いのです。ブラジルに至ってはその傾向が堅調出ているようです。しかし、日本では死者数にそのような層化現象はありません。まだまだ終息したわけではありませんので、予断はゆるされませんが少なくとも今、日本の社会がいかに健全で強化だったかということだけは言えるのではないでしょうか。それも外務大臣さえ経験したことのある副首相兼財務大臣の、不用意で無配慮極まりない一言で、国際的には台無しになってしまいましたが。

 米国、ミネアポリスという日本人にはあまり馴染みのない都市で、ジョージ・テレンスという黒人男性が警察官に取り押さえられた際、過剰な取り押さえによって殺された事件が起きました。警察官はすぐに解雇され、殺人罪で起訴されましたが、全米でのデモとそれに誘発された暴動が発生し、警察との衝突で多くの死傷者が出てしまいました。米国の人種差別に起因するこの種の事件は後を絶ちませんが、今回、瞬く間に全米に広がった要因に新型コロナ感染症があったことは否めません。繰り返しますが米国では人口当たりのコロナによる死者は貧困層ほど多く、その貧困層の多くを黒人が占めているという現実があるのです。それでも米国社会にも一筋の光が射したと感じることが出来ました。それは死亡したジョージの弟、テレンス・フロイドの涙の演説でした。彼は「みんなの怒りはよく分かる、でもそれはわたしの半分にも満たないだろう」という言葉から演説をはじめ、「それでも自分は暴れたり、物を壊してコミュティーを破壊しようとはしていない」と訴えかけました。暴動を否定し、選挙でつまり民主主義のルールに則って、人種差別を乗り越えようと呼びかけたのです。そして「左手に平和を、右手に正義を」と繰り返し、最後に亡くなった兄の名前を連呼しました。聴衆ははじめ称賛の歓声と拍手を送っていましたが、やがてテレンスの連呼する「左手に平和を、右手に正義を」に唱和し、彼の兄の名前を一緒に連呼しました。

 彼の幾度も中断し聴衆に励まされながらのたどたどしいとも云える演説は、映像で見ていただけのわたしでさえ感激してもらい泣きをするほどでした。彼の着ていたTシャツには「We can’t breath」と書かれていました。それは「亡くなった兄が首を抑えつけられ呼吸できなくなって発した断末魔の「I can’t breath」を代弁したものであると同時に、米国の分断社会の中で息が出来と感じている黒人たちの悲痛な叫びでもあるのです。

 わたしは「正義」という言葉を声高に叫ぶことには抵抗があります。「正義」は往々にして自己を肯定するあまり他者を否定してしまうからです。ただ、テレンスが叫んだ「左手に平和を、右手に正義を」という訴えは素直に心に響きました。弱者の側からの「正義」に望みを託す叫びだからです。その声はわたしたちひとり一人の行動を省みさせ、規範させる力がありました。

テレンスの演説後、少なくともミネアポリスでは暴力的なデモは無くなりました。それどころか、黒人警官だけでなく白人警官たちも一緒になって路上に跪いて、ジョージの冥福を祈るようになったのです。もちろん、それだけで米国の根深い人種差別が解消されるわけではないでしょう。それでも、わたしは若いテレンスのたどたどしいが断固とした意思表示とそれに即応したミネアポリスの民衆の心に、分断社会を修復させようという機運を感じたのです。

コロナでわたしたちの社会は大きく変わることでしょう。しかし、どうせ変わるなら良い方向へ向かって変わるべきです。しかし、米国ならずとも、この日本でさえ社会を分断しようという動きは後を絶ちません。エコー・チェンバー現象の弊害について語られるようになりました。狭い小さな社会に閉じこもっている人びとの発する互いの正確ではない、あるいは悪意に満ちた情報への共鳴現象のことです。ちょうどコロナのクラスターのように、ごく一部の人々の間で共有する間違った価値観や、偏見に基づくゆがんだ情報が増幅され、それが感染症の広がりのように社会全体に伝播しているのです。SNSの普及とともに悪意に基づく情報が、あっという間に広がり、誰かを傷つけ社会の健全性をむしばみ、社会を分断してしまうかもしれません。

医療関係者の子どもと言うだけで保育園が預かりを拒否したり、学校でのけ者にされたりすることが報道されていますが、わたしたちが知らず知らずのうちのその共犯者になってはいないか、まちの噂に過ぎない間違った情報を、SNSの画面にあることで鵜呑みにして信じてしまい、その毒のある嘘の情報を拡散してはいないか。常に冷静になって考えなくてはいけません。その嘘や偽の情報の拡散は、場合によっては疫病と同じように、いやそれ以上にわたしたちの心をむしばんでしまいます。それは本当にコロナより怖い結果をもたらすかもしれないのです。コロナに負けない社会とは、コロナがもたらすかもしれない分断と憎しみ合い、差別や誹謗中傷のための犯人捜しのない社会であるかもしれないことを、わたしたちは常に忘れてはならないと考えています。

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