ステイホームウイークスー9

9.パンデミックでわたしたちの未来はどう変わるか-1

 新型コロナウイルス感染症がもたらしたパンデミックは、世界的にはまだまだ収まる気配を見せませんが、わたしたちはそろそろわたしたちの未来について考えておかなくてはならないのではないでしょうか。とはいっても我々の未来はそんなに明るいものにはならないかもしれませんし、第一先を見通おそうとしてもコロナという霧のおかげで模糊として何も見えません。

 未来に辿る道筋が見えない時は、これまでが歩いてきた過去の道筋を見つめなおせばいいと、わたしはいつも考えています。これまで何度も人類はパンデミックに襲われてきましたが、過去には今ほどのグローバルな人の動きはありませんでしたから、今回のパンデミックが未曽有のものであることは間違いありません。現在進行中の問題が未曽有である以上、わたしたちの過去の道筋についても、どうせならその始原までさかのぼるべきかもしれません。

 何が人間とサルを分けるのかという問題は、様々な視点から論議されてきました。二足歩行という視点で分けると約7百万年前から6百万年前くらいに猿人が登場沿いますが。まだ、猿(ラテン語ではピテクス)という字が見られるように、まあサルと人間の中間という感じでしょうか。道具を使うという事に注目すると2百万年くらい前のホモ・ハビリス(有能なという意味のラテン語)が登場します。わたしたちと同じホモ(人間)属ですから、この辺がヒト属の始まりでしょうか。ただ、日本語では原人というくらいで、まだまだ現在のホモ・サピエンスではありません。

 ところで、人類はもちろん多細胞生物の細胞にはミトコンドリアという細胞内機関があります。ミトコンドリアは卵子にはあるのですが精子にはありません。そのため母方にのみその形質が引き継がれていきます。従って母方のご先祖への道筋はミトコンドリアを通して辿れる事が出来るのです。1980年代になるとDNA解析技術の急速な発達とともに、ミトコンドリア研究が活発になりました。1987年、アメリカでミトコンドリアのDNAの解析から、わたし達の祖先であるイブに行き当たります。約20万年前のアフリカの女性です。勝手に旧約聖書のアダムとイブのイブと名付けたのはともかくとして、彼女は間違いなくホモ・サピエンスの持つミトコンドリアを持っていた最初の女性なのです。

 しかし、彼女ひとりが突然変異によってホモ・サピエンスの形質を持ったとしても、種としてのホモ・サピエンスが生まれた訳ではありません。彼女の形質を引き継ぎながら子孫が進化を続けながら増えていき、ホモ・サピエンスが登場までにはさらに10万年必要でした。つまり、わたしたち人類(ホモ・サピエンス)は約10万年前にアフリカの大地溝帯のどこかで生まれたと言われています。しかも、黄色人種、白人種、黒人種などの区別なく全ての人種や民族は、少なくともミトコンドリアを辿る限り、全て究極のルーツはこのアフリカの大地溝帯あたりで生まれたイブに行きつくのです。

 さて、ホモ・サピエンスはそれまでのホモ属である、親せきたちと大きく違った特性を持っていました。それは現在「グレートジャーニー」などと言われていますが、地球規模の大移動をやり遂げたという事です。約6万年前にはアフリカを出ています。それから2万年かけて4万年前ごろにヨーロッパの西の端まで達し、逆に東側には1万年程度かけて、つまり5万年前ごろまでに東南アジアまでたどりつきました。オーストラリアに進出するのはさらにその1万年後です。同じアジアでも中央アジアを経由してシベリアへ進出するのは今から3万年前、ベーリング海を渡るのはやはり今から1万5千年前、そこから南北アメリカ大陸を縦断して最南端には3千年くらいで到達しています。実は日本列島への人類の到達は3~4万年前と早いのですが、なかでも南アジアからのグループは、シベリア経由で北から来たグループよりずっと早かったようです。

 いずれにしてもイブが誕生してからホモ・サピエンスが種になるまで10万年もかかっているのに、ホモ・サピエンスになって4万年程度でふるさとアフリカを飛び出し、それから5万年程度で世界中に住むようになっているのです。その地質学的には殆ど爆発的と言える生息域の拡大を支えた冒険心の背景となる、継続的で強いモティベーションは何だったのか、わたしはそこに注目しています。

 しかし、わたしたちはそんな昔のことは何も覚えていません。まあ、なんとか思い出すことのできるはせいぜい5千年くらい前からのことです。それをわたしたちは考古学と呼んでいますが、歴史と呼ぶことが出来るレベルであればまあ2~3千年がいいところでしょう。歴史をひも解くという事は、わたしたちの体のどこかに残っているはずの大旅行の記憶を思い出す作業だと考えれば、学生時代、教科としての歴史が嫌いだったわたしも納得するところです。ただ、残念なことにわたしたちは記憶をたどることはしても、それに学んで現在や未来に役立てるという事は苦手です。だからこそ「歴史は繰り返される」という名言も光るのでしょうが。

 コロナやインフルエンザに限らず人類とウイルスの付き合いは永いはずです。それまで何かわからないが「悪いことをする存在」としてしか解らなかったウイルスの姿が確認されたのは電子顕微鏡が発明された20世紀半ばなのですが、それは見ることが出来なかっただけで、人類どころか生物の起源にまでさかのぼって、わたしたちはウイルスと付き合わなければならない宿命を背負ってきました。

 天然痘、ペスト、スペイン風邪などは歴史に刻まれていますが、エジプトの遺跡からはペストで亡くなった人のミイラが発見されていますし、それよりももっと昔から、もちろんその頃は原因不明の「呪い」や「祟り」などと思われていたでしょうが、多くの人が感染症に罹って亡くなってきたはずでしょう。グレートジャーニーを成し遂げたわたしたち人類が、それと同じ期間付き合ってきたはずの感染症という不条理には、どうしてこんなにも無力なのでしょうか。情けないと言うより、わたしは単純に「不思議」でしょうがありません。

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ステイホーム・ウイークスー8

8.パンデミックの陰から忍び寄るもの

 昔から言い慣わされてきた言葉に「為政者は自分の権力を強固なものするために外に敵を作る」と言うのがあります。確かに外に敵を作ることは、わたしたちを国家権力に対して従順にさせてしまう効果があるのかも知れません。今回の新型コロナウイルスという敵は、世界中でわたしたちに国家や国家権力を無意識のうちに受け入れようという心を育む結果となりました。ヨーロッパでは離脱が決まっていたイギリスはともかく、ユーロ内の国同士の軋みむ音が聞こえてきます。米国はトランプ大統領が相変わらず、憎しみと不信感を増長させる言動を繰り返していますし、ブラジルの小トランプ、ボルソナロ大統領にも困ったものです。今はわざわざ外に敵を作らなくても、共通の敵が荒れ狂っているというのに何を考えているんだと言いたくなります。

 およそ国家なぞというものが表に出てくる時代は、歴史上わたしたちにとっていいことは一つもなかったはずなのですが、疫病に対する恐怖心から、わたしたちは自ら進んでその国家に縋り付こうとしています。パンデミックに立ち向かうのは本来、国家ではなくわたしたち自身であり、わたしたちの助け合いの心でなくてはならないのですが、知らず知らずのうちに国や行政のやることだけが有効だとして頼ろうとしています。

 国家は時として常識という名の蛮性を、わたしたちに押し付けます。さすがに日本人は英国の首相や米国の大統領の言うような「適者生存」つまり「生き残れるものだけが生き残ればいいのだ」という考え方にはついて行けません。しかし、そんな極端な表現には反発しても、気を付けないと実はわたしたちの心にもそれに近い考えが形を変えて忍び込んでくるかもしれないのです。生活のため仕方なく営業を続けている店に対する嫌がらせなど、自粛警察などと言う動きなどがそれにあたります。

 わが身が一番可愛いのは誰しも変わりません。しかし、わたしたちは孤独に生きることのできない社会的な生き物です。他者に対する、特に弱者に対する惻隠の情が、実はわたしたちの精神の平衡を保つために必須なのだという事を忘れてはならないのではないでしょうか。

 新型コロナウイルス感染症というパンデミックによって、経済は大打撃を受けています。全世界で経済が停滞し、多くの産業と業種が存続の危機に立たされています。経済の崩壊がわたしたちの精神、心の崩壊につながることをわたしは危惧しています。今、世界中でワクチンや治療薬の開発が急がれていますが、それがわたしたちの手に届くまでにはまだまだ時間がかかりますし、コロナの心配の中、自然災害、熱中症、インフルエンザの流行などにも備えなくてはなりません。そのため、テレビでは連日、政治家、専門家から芸人に至るまで、コロナに関してコメントを発しています。

 そのこともまた、わたしは心配しています。自動翻訳機で翻訳された日本語を読んだ時、スパムメールで送られてくる妙な日本語に接した時、わたしたちは違和感を感じるだけでなく、いらだちに似た心のざわめきのようなものを感じます。微妙に音程のずれた音楽を聴かせ続けると言う拷問があるそうですが、その拷問を続けると人間は狂ってしまうそうです。ちょうどそれに似たことが、今の日本、いや世界中で起っているのかも知れません。自称専門家たちや、ただ有名と言うだけのタレントたちのコメントには、事実に似ているようで事実ではないことも紛れ込んでいるかも知れないのです。また、例え専門家と言う人々であっても、その専門家の所属する学会とか専門家会議、行政組織といった小さな世界の事情によって、公言する情報にバイアスがかかったり、内容の取捨選択をしたりしているかも知れません。

 一方で、わたしたちは宿命的に真実の声を聞く耳を持ち合わせていないのではないかと心配になることがあります。ギリシア神話にカッサンドラと言うトロイ国の王女が居ました。彼女はアポロンの求愛を拒否したため呪いをかけられます。その呪いとは「カッサンドラに将来を予見する能力を与えるとともに、彼女のその予見には誰も耳を貸さない」というものでした。誰もが知っているようにトロイはギリシャによって滅ぼされるのですが、そのことを予見したことにも、トロイの木馬を場内に引き入れていけないという彼女の話にも誰も耳を貸しませんでした。その上、結果として滅ぶことになったその瞬間にも、誰も彼女の予見を思い出すことはありませんでした。真実を語る専門家であっても、権力を持たず、聞いてくれる大衆もいなければ、その専門家は道化役を演じるだけの存在になってしまいます。

 これから、わたしたちはコロナがもたらした新しい社会秩序、それも場合によっては憎しみと絶望感ばかりが蔓延するかもしれない社会を生きて行くことになります。それは戦争も大災害もしのぐほどの恐ろしい時代かもしれません。その心配を少しでも払しょくするために、ではどうすればいいのか。まずはとにかく踏みとどまって冷静になりましょう。その上でみんなで新しい時代を想像していく知恵を出し合うしかありません。どうか皆さん、お互いに手を取り合って頑張っていきましょう。

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ステイホームウイークスー7

7.コロナより怖いもの

 新型コロナウイルスは世界中で猛威を振るい、否応なく我々に現実を直視することを強いています。米国と日本の新型コロナ感染症による死亡者の統計的傾向を比較すると、米国では貧富の差が死亡率に反映しています。貧困層ほど死亡率が高いのです。ブラジルに至ってはその傾向が堅調出ているようです。しかし、日本では死者数にそのような層化現象はありません。まだまだ終息したわけではありませんので、予断はゆるされませんが少なくとも今、日本の社会がいかに健全で強化だったかということだけは言えるのではないでしょうか。それも外務大臣さえ経験したことのある副首相兼財務大臣の、不用意で無配慮極まりない一言で、国際的には台無しになってしまいましたが。

 米国、ミネアポリスという日本人にはあまり馴染みのない都市で、ジョージ・テレンスという黒人男性が警察官に取り押さえられた際、過剰な取り押さえによって殺された事件が起きました。警察官はすぐに解雇され、殺人罪で起訴されましたが、全米でのデモとそれに誘発された暴動が発生し、警察との衝突で多くの死傷者が出てしまいました。米国の人種差別に起因するこの種の事件は後を絶ちませんが、今回、瞬く間に全米に広がった要因に新型コロナ感染症があったことは否めません。繰り返しますが米国では人口当たりのコロナによる死者は貧困層ほど多く、その貧困層の多くを黒人が占めているという現実があるのです。それでも米国社会にも一筋の光が射したと感じることが出来ました。それは死亡したジョージの弟、テレンス・フロイドの涙の演説でした。彼は「みんなの怒りはよく分かる、でもそれはわたしの半分にも満たないだろう」という言葉から演説をはじめ、「それでも自分は暴れたり、物を壊してコミュティーを破壊しようとはしていない」と訴えかけました。暴動を否定し、選挙でつまり民主主義のルールに則って、人種差別を乗り越えようと呼びかけたのです。そして「左手に平和を、右手に正義を」と繰り返し、最後に亡くなった兄の名前を連呼しました。聴衆ははじめ称賛の歓声と拍手を送っていましたが、やがてテレンスの連呼する「左手に平和を、右手に正義を」に唱和し、彼の兄の名前を一緒に連呼しました。

 彼の幾度も中断し聴衆に励まされながらのたどたどしいとも云える演説は、映像で見ていただけのわたしでさえ感激してもらい泣きをするほどでした。彼の着ていたTシャツには「We can’t breath」と書かれていました。それは「亡くなった兄が首を抑えつけられ呼吸できなくなって発した断末魔の「I can’t breath」を代弁したものであると同時に、米国の分断社会の中で息が出来と感じている黒人たちの悲痛な叫びでもあるのです。

 わたしは「正義」という言葉を声高に叫ぶことには抵抗があります。「正義」は往々にして自己を肯定するあまり他者を否定してしまうからです。ただ、テレンスが叫んだ「左手に平和を、右手に正義を」という訴えは素直に心に響きました。弱者の側からの「正義」に望みを託す叫びだからです。その声はわたしたちひとり一人の行動を省みさせ、規範させる力がありました。

テレンスの演説後、少なくともミネアポリスでは暴力的なデモは無くなりました。それどころか、黒人警官だけでなく白人警官たちも一緒になって路上に跪いて、ジョージの冥福を祈るようになったのです。もちろん、それだけで米国の根深い人種差別が解消されるわけではないでしょう。それでも、わたしは若いテレンスのたどたどしいが断固とした意思表示とそれに即応したミネアポリスの民衆の心に、分断社会を修復させようという機運を感じたのです。

コロナでわたしたちの社会は大きく変わることでしょう。しかし、どうせ変わるなら良い方向へ向かって変わるべきです。しかし、米国ならずとも、この日本でさえ社会を分断しようという動きは後を絶ちません。エコー・チェンバー現象の弊害について語られるようになりました。狭い小さな社会に閉じこもっている人びとの発する互いの正確ではない、あるいは悪意に満ちた情報への共鳴現象のことです。ちょうどコロナのクラスターのように、ごく一部の人々の間で共有する間違った価値観や、偏見に基づくゆがんだ情報が増幅され、それが感染症の広がりのように社会全体に伝播しているのです。SNSの普及とともに悪意に基づく情報が、あっという間に広がり、誰かを傷つけ社会の健全性をむしばみ、社会を分断してしまうかもしれません。

医療関係者の子どもと言うだけで保育園が預かりを拒否したり、学校でのけ者にされたりすることが報道されていますが、わたしたちが知らず知らずのうちのその共犯者になってはいないか、まちの噂に過ぎない間違った情報を、SNSの画面にあることで鵜呑みにして信じてしまい、その毒のある嘘の情報を拡散してはいないか。常に冷静になって考えなくてはいけません。その嘘や偽の情報の拡散は、場合によっては疫病と同じように、いやそれ以上にわたしたちの心をむしばんでしまいます。それは本当にコロナより怖い結果をもたらすかもしれないのです。コロナに負けない社会とは、コロナがもたらすかもしれない分断と憎しみ合い、差別や誹謗中傷のための犯人捜しのない社会であるかもしれないことを、わたしたちは常に忘れてはならないと考えています。

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ステイホームウイークス-6

 

6.パンデミックに立ち向かうために

 新型コロナウイルスはわたしたちに、否応なく色々なものを見せてくれています。それぞれの地域の自治体の長、それぞれの国のトップやその国の政治体制が有能かどうかや、民主主義の立場からみた危険性などについて、連日のように報道されています。コロナが新しい感染症の恐ろしさをもたらしたと同時に、わたしたちが知らず知らずのうちに見過ごしていたものをあからさまにしてくれていると言えるのかも知れません。

ただ、この際我々が最も自省すべきなのは、中でも内包してしまっていた人間性そのものの病巣についてだとわたしは考えています。その病巣はカミュの小説「ペスト」のモティーフとして一貫して描写した登場人物たちの内面描写に表されています。しかも、彼がペストと言う伝染病になぞらえて描き出した人間性は、時代を隔てた今日まで何も変わらずに繋がっているのです。

流行の初めの頃に起ったトイレットペーパーの買い占め騒ぎや中国政府によるマスクの禁輸措置などを声高に非難することは容易です。しかし、わたしたちひとり一人、胸に手を当てて考える時、誰かを、あるいは何かを非難する側にだけ立つことが、本当に許されるのかとわたしは自問しています。

5月23日、木村花という22歳の女子プロレスラーが亡くなりました。女子プロレスラーのヒール役(悪役)を演じていたとは思えない可愛い子です。未だにはっきりとはしていませんが、出演していたテレビ番組の中での発言に対して、SNSで耐えられないほどの非難中傷を浴びていたこと、メディアでは遺書らしきものがあったこと、硫化水素を発生させたらしい容器があったことなどから自死ではないかと取りざたされています。

わたしは女子プロレスも見ませんし、その問題のフジテレビの番組も知りません。しかし、炎上するほどの非難中傷を浴びていたとの報道を聞いた時、コロナ騒ぎさえなかったら、非常事態宣言下でなかったら、多くの国民に自粛要請下のストレスといら立ちが無かったら、彼女は死ななくてよかったのではないかと直感したものです。

自粛警察なる輩の存在が報道をにぎわせていますが、それは自らの不安や苛立ちを他者への攻撃によって解消しようとする卑劣極まりない行為です。まして、似非社会正義をかざして自らを正当化することが如何に恥ずべきことか省みて欲しいものです。自粛警察などと言う言葉自体、太平洋戦争中の在郷軍人や割烹着姿の国防婦人たちの悪行を彷彿とさせます。人間の弱さの発露ではありますが、それでも憎むべき行為と言わざるを得ません。

また、多くの心無い偽情報をSNS上で拡散し、しかも、それがいじめや差別、個人攻撃につながるという事案も多く発生しています。自然災害の時にも起きる現象ですが、見えない敵と買わざるを得ない疫病の流行の場合には、なおさら根深くその影響も深刻です。

そのような悪意のデマ情報に対して、今訴訟しようという動きが出てきています。確かに法によって裁くことは抑止力として有効でしょうし、実際に被害を受けている方々への補償にもつながるかも知れません。その悪意の情報やデマ情報の発信元であると特定されれば、司法の場で裁かれ、損害賠償請求などを受けることになります。不確定・不正確な情報を拡散しただけであっても、それを誰から聞いたのかを特定することが出来なければ、自分が発信元になるということも覚悟する必要があります。

例えSNS上であっても、その気になれば情報源を辿って行くことは可能です。しかし、考えてみましょう。法律によってSNS情報を監視し、場合によっては個人を摘発しなくてはならなくなるという社会は健全と言えるのでしょうか。自分は安全な場所に隠れながら誰かを攻撃するという輩を見つけ出し罰するためとはいえ、それでは社会生活そのものがさらにギスギスしたものになりかねません。

「自主要請に従わないなら法律で罰せよ」「買い占めに走る消費者や流通業者は罰せよ」と一見当たり前のように見える主張に、わたしは大いに疑問を抱いています。ごく少数の不心得者の存在のために、わたしたち自身がわたしたち自身を縛り上げてしまうことを受け入れるようでは、健全な社会とはいえないでしょう。考えてみてください。新型コロナ対策について「日本方式の奇跡的成功」などと海外メディアが注目しています。まだまだ予断は許されないにしても、確かに日本は新型コロナの蔓延には至っていません。それはひとえにわたしたちの「他者への配慮と思いやり」「衛生観念」「生活環境」などの相乗効果であり、我々が誇れる日本人の特性のお陰です。

そのことは東日本大震災の時にも世界中の人々の称賛の的になりました。何かというとすぐに暴徒化してしまう欧米人の姿と比較されて、日本人が整然と並んで救援物資を受ける姿が称賛されたのです。それでも、日本にだって不心得者がいないわけではありません。その少数の不心得者を糾弾するあまり自縄自縛になることだけは避けなければならないのではないでしょうか。

コロナだけでなく、これからも未知の感染症との付き合いは長いものになります。その見えない敵との戦いに疲れて、わたしたち同士が疑いあい、憎しみ合う社会にだけはならないために、何が必要なのか冷静にみんなで考えましょう。

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地球に裏側の日本語詩歌にみる日本人と日系人の感性

コロニア詩歌にみる日本人と日系人の感性

(地球の裏側の日本人)

日本感性教育学会研究大会

井手口良一

(日本感性教育学会大分県支部・詩誌心象同人会)

1.はじめに

今から104年前の1908年6月18日に781人の第1回日本人契約移民を乗せた笠戸丸がブラジルのサントス港に入港した。これが日本人のブラジル移住の始まりであり、6月18日は「移民の日」として、ブラジル日系人社会の記念日になっている。

1世紀を隔てた今日、既に日本語をほとんど使うことのない世代が大半を占めるようになり、日系社会も大きく変貌し、日本語による文学、特に日本語詩の仲間として集う人口も激減している。そのため、一つの文化人類学的あるいは比較言語学的な実験テーマが、未解決のまま忘れ去られようとしている。

そのテーマとは日本人独自の情緒や感性が、地球の裏側の亜熱帯、熱帯という四季の変化に乏しい自然環境、1月が真夏で7月が真冬という時差などによって、どう変化するかということである。

私は1974年から1993年まで19年間ブラジルで暮らし、現在も行き来している。その私のブラジルでの経験を元に話したい。

2.コロニア文学

  広義のコロニア文学とは異文化の衝突もしくは出会いの場における文学

 1)植民地時代の特にヨーロッパ系白人による文学

 2)植民地で生まれた人々による本国での文学

 3)植民地独立後の独自の文学

 4)ポスト・コロニアリズム

 「ポスト」という接頭辞は、様々な地域が解放された後に、現在もなお植民地主義の影響のもとにあるということを強調するために用いられている。

 経済や文化、政治に残存する植民地主義の影響を明らかにし、現状を変革するための思想。

 植民地の多くは、第2次大戦後政治的に独立したにもかかわらず、先進国に経済的に依存せざるをえない状況が続いた。グローバリズムの進展に伴い経済的依存はますます高まり、情報や文化資本の流入によって固有の文化を維持する困難にも直面してきた。こうした現実に対して、特に1960年代以、いまなお植民地主義の影響下にあるという問題意識のもとで、旧植民地出身者による不平等や格差の克服への取り組みが現れてきた。

植民地主義の遺制(残した影響)は経済的な側面だけではなく、民族や人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティーなど様々な要因の組み合わせが複雑に関連し合っている。

ポストコロニアリズムには、文学テキストに刻印されている、植民地主義による支配・被支配の相互会計を読み解くもの、歴史における戦争暴力を問うものなど、領域横断的な取り組みが見られる。( 野口勝三 京都精華大学助教授 )

 5)米国や沖縄での文学

 6)ブラジル独自の詩文学の発達

3.ブラジルにおける日本人社会の形成

 1)蒼氓(石川達三1930年・発表は1935年)の時代

(笠戸丸1908年~大正小学校開校1915年)

 2)定着の時代(1929年~1939年日本人学校の廃止)

3)大戦時と敗戦直後の混乱の時代(1941年~1954年)

(日本語新聞の発刊禁止1941年)

   日系社会の分断(収容所、勝ち組負け組)

 4)成長の時代

   大戦後の復興経済:移住者の都市への進出

戦後移民:引き上げ経験者の時代、炭鉱離職者の時代、コチア青年

世代交代:二世たちの活躍

 5)融合の時代

日本人と日系社会に対する高い評価、デカセギ、在日ブラジル人の帰国

 6)コロニア語

   日本では通じない日本語、ブラジル人には通じないポルトガル語

   日系社会の中の一方言(現在も変化の途中→デカセギ語)

4.もう一つのコロニア文学(移民の移民による移民たちの文学)

 日本人移民(移住者)による文学、正史ではない文学史の流れ

ブラジルの大地に生きる日本人たちが日本語を用いて行った創作活動。

移民や戦中経験の苦労談などを主な初期のテーマから出発し、『地平線』(1936)、『文化』(1938)、『コロニア文学』(1966)、『コロニア詩文学』(1988)などの総合文意雑誌に短詩形文学(短歌・俳句・川柳)が寄稿された。

 1)征服者と抑圧者関係でない、新しいコロニア文学の形

 2)日系コロニア(過去と現在)

 3)コロニア文学誌の変遷

 3)日系コロニア文学史上の人物たち

  ①鈴木南樹  ②古野菊生  ③武本由夫  ④横田恭平  ⑤大浦文雄

5.詩誌「亜熱帯」の創刊(1976年)

 1)発刊の言葉(亜熱帯創刊号・ルネ田口)

全文:

 ブラジルに於ける日系コロニアの人口は約70万、日本語で詩を書く人も、読む人も相当あるのに、詩の専門同人誌がないのを、長らくさびしい思いでいた。勿論、推進運動のためにも、専門詩誌の必要が痛感されていたが、この度、1975年度合同詩集刊行を機として、同志相寄って、吾等の同詩誌「亜熱帯」第1号を発行することになった。

 ここに集まった同人は、日本で発行される同人誌のように、詩における主義、主張を同じうするものの集まりではない。もはや生きることが窮屈になったこの地球上に、ただ一つ残された夢のある国、このブラジルで、野放図の詩を書いてやろうという魂胆の人たちの、寄り集まったものである。

 吾々は、長くこの未来形の国に住み、毎日異なる人種の連中とつき合っている。社会環境の差異によって、ものの見方考え方は、おのずから、日本の人たちとは、ずいぶん違うはずである。そうした次元で書かれる吾々の詩は、仮令正確な日本語で書かれていても、素性をさぐれば、まさしくブラジルの詩と称すべきであろう。

詩は文学の主流である

いや、文学なるものの遊戯化した今日に於いて、詩は、真に詩そのものあらねばならない。

吾々はこの矜持をたずさえ、この厖大な大陸で、少なくとも、一つの清純な光芒を放つ仕事をやりたいと思う。

2)「亜熱帯」時代のわたしの詩

  セラード地帯

井手口良一

  クイアバの空港を飛び立つとすぐ

  軽飛行機は突然タイムマシンになって

我々を異次元に運びます

未来かって

そうかも知れません

猿の惑星って手もありますから

過去だろうって

そんなところもありますが

それにしては空中に

懐かしい交流電流が漂っていません

宇宙代の広がりと

無尽蔵の未来と

二足歩行を始めたばかりの

人類の始祖のように

個性をいう名の過去証明をもたない

あらくれ達が

黄金色のモンスターにまたがって

文化という名のバベルの塔を

作り始めたところです

情熱が地平の彼方に沈む時

あらくれ達は

それぞれの過去の末裔にもどり

それぞれの故郷の星を見上げて

幾百万光年の

ノスタルジアにひたります

そして

希望が東の空をもうもうと

蒸気を上げながら昇るのを合図に

モンスター達は生命(いのち)を与えられ

その鼓動に合わせて

時の流れが

今始まったかのように

脈を打ち始めます

宇宙代の広がりと

無尽蔵の未来と

過去証明を朝焼けに焼き捨てた

あらくれ達は

初めて道具を発明したばかりの

人類の始祖のように

ひとりひとりの歴史を耕すのです

            (1980年:亜熱帯19号)

 セラード地帯について(亜熱帯19号に掲載されたわたしの横田氏への手紙)

  ――亜熱帯へ刑された部分のみ――

  サハラ砂漠でさえ掘り起こせば

  人類の化石や遺跡が出てくるというのに

  このセラード地帯には、インディオの

  住処どころか、人類の痕跡なるものは

  何もないのです。

  つまり吾々はここに空間移動することによって

  人類誕生以前の世界へと時間移動できるのです。

  (中略)

  日本を始め、世界中で吾々青年が

  時代そのもの 歴史そのものに関与することが

  できなくなって三十年以上経ちます。

  しかし ここだけは吾々が

  我々そのものが歴史であるという

  充足感を持てるのです

  一日一日が歴史を作る作業なのです。・

  こんな素晴らしいことはないと思います。

  自分が折角の自分の技術を捨てても

  ここを選んだのはそのためです。

6.日本人の感性とブラジル人の感性

   感性を育むのはやはり自然環境である。その自然環境が南半球では全く違う。そのことはヨーロッパからの移民たちにも言えることではあるが、わたしが直に話をしてみて、自然環境の違いの影響を最も受けているのは日本人、日系人ではないかと思う。その自然環境の違いとは、例えば

1)季節感

   亜熱帯には四季はないと言われている。夏(雨期)と冬(乾期)という季節の変化はあるが、細やかな季節の移ろいなどは感じられないと思われていた。ちなみにもっと赤道に近い熱帯地方では夏(乾期)と冬(雨期)になり、亜熱帯とは雨の降る時期と気温が逆転する。。

   単純そうに見える亜熱帯や熱帯の季節の移ろいも、実はそこに住み暮らしてみると見えてくるものがたくさんある。冬の終わり雨期の始まりを知らせる鳥たちの声、海岸山脈に咲く花々の色。竜巻や雹という招かれざる気象現象も季節の変わり目にやってくる。

   ブラジルの国家と言われるイペーは、主に黄色の花を葉に先駆けて満開に花開く。改良種の白や薄桃色のイペーを移民たちはブラジルサクラと呼んでいりが、確かに彿させる木姿をしている。

   亜熱帯の山や森の木々の色は、日本のような温帯に比べてくすんだ色をしていて、特に遠目にはねずみ色がかって見えるほどである。これは常緑樹がほとんどであることと、新葉の更新が一時に起こらないためではないかと思われる。

2)月の満ち欠け

   南半球のためら天空の星座はずいぶんと違って見える。もちろん北極星は見えないし、北斗七星も赤道近くまで行かないと見えない。天の川も北半球とはずいぶん形が違うし、コールサックと呼ばれる天の川の黒く欠けた部分さえある。

さらに、月の満ち欠けが日本と違うことも特筆するに値するだろう。月の満ち欠けする側が北半球からの見るそれとは反対になるのだ。さらに、鳥獣、魚類、昆虫などの生態は雨期乾期、夏季冬季の移ろいよりも月の満ち欠けの影響を多く受ける。したがって、農林業などに従事する人間も、日本よりも月の満ち欠けを農事カレンダーの目安として使っている気がする。

3)虫(コオロギやセミ)の声

   日本人は虫の声に「もののあわれ」を感じるといわれている。虫の声を脳の人の声を感じ取る言語領域で聞き取るかららしい。しかし、ブラジル人は虫の声は無機質な機械音としてしか聞かない。ではこの国に生まれ育った日系人はどうなのか。わたし永い間そのことが気になっている。どうやら日本語の習得の度合いが関係していると、漠然と思うが、誰か言語学か人文科学の専門家にちゃんと調べてもらいたいテーマである。。

4)ホタル

   日本ではホタルと言えばはかないものと言うイメージがある。しかし、ブラジルでは「もの凄い」という表現の方がぴったりである。日本で我々が普通に見るホタルの多くと同じく、ブラジルでも幼虫期を水中で過ごすホタルたちは、大きさは変わらない。しかし、その一度に飛ぶ数が全く違うのだ。正しく幾万という言う数のホタルが一斉に羽化して飛び立ち瞬くのだから、もの凄いと言うしかないのだ。

   さらに、タマムシやコメツキムシの仲間のホタルがいる。これらの陸生ホタルと呼ばれる種類は日本でも生息しているが、ただ大きさが凄う。日本のタマムシより二回り位大きく、しかも、肩のところの2か所が、まるで仮面ライダーの目のようなに光る。さらに、腹側に飛ぶ時だけ光る大型の発光器を持っていて、数こそ単独で飛んでくるのだが、その光の強さはこれまた「もの凄い」と言うしかない。いずれにせよ、ホタルを見て「もののあわれ」を感じるという境地からは程遠い。

7.これからの日系社会とニッケイコロニア文学

1)日系人によるポルトガル語詩

   ブラジルの日系社会は現在すでに7世の時代に入ったといわれている。もともとブラジルは、その建国の時から混血を嫌うことはなかったのだが、一部の移住者や宗教的な集団の中には純血主義もあった。日系社会も戦前から戦後のある時期までは、ガイジン(本当は自分たちが外人なのですが)との婚姻に反対する傾向が強かったようだ。

   しかし、現在ではそんな社会的なバリアーはなくなり、人種のるつぼの中に日系人も溶け込んでいる。勢い、日本語を習得する機会もモティベーションもなくなりつつある。その分、日本人の感性をいささかでも持ちながらポルトガル語で詩を書く人が多くなっている。それが今後のブラジルに文学にどのような影響を与えていくのか、逆に楽しみである。

2)ルーツへの回帰

   混血が進むことによって、少なくとも顔つきは日本人離れした日系人が多くなってはいるのだが、逆に自分たちのルーツについての関心は高まっている。ブラジル社会での日系人への信頼度の高さもあり、西洋的な文化や資本主義の行き詰まりとともに、東洋のそれも特に日本の文化や日本人の思想、信条にについて真摯に学ぼうとする傾向も出てきた。日本語という特異な言語についても、それにつれてかえって日常生活とは切り離されたところで学ぼうとするモティベーションも生まれている気がする。

3)小野リサ

   彼女は言わずと知れたボサノバのシンガーソングライターで、ブラジルでも数々のヒット曲を飛ばしている。ブラジルの国籍を持ち、幼少期をブラジルのサンパウロで育った彼女の感性が、ボサノバを通してブラる人に受け入れられていることを、うれしく思うとともに、今後の彼女と彼女に続く日系の歌手たちの可能性に期待したい。

8.参考文献

 亜熱帯詩社  亜熱帯創刊号                 1976.8

        亜熱帯19号                 1981.10

半田知雄         ブラジル日本移民・日系社会史年表  1996.10

清谷益次、栢野桂山(共著) ブラジル日系コロニア文芸      2006.5

安良田 済        ブラジル日系コロニア文芸      2008.8  

大浦 玄         子供移民大浦文雄          2011・10

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ステイホームウイークスー5

5.コロナがもたらしたもの

 新型コロナ感染症に対して、世界中がパニックを起こしています。確かにパニックになる事態だということは論を待ちません。疫病に対する恐怖の要因はいくつもある上に、それが複雑に絡み合っているのですから。欧米のリーダーたちは今回のコロナ禍を「戦争」だと譬えています。確かにわたしたちは見えない敵と戦うことを強いられています。しかし、戦争だと言ってのけることにわたしはどこか抵抗感があります。

 欧米の政治家たちの喧騒は、まるで戦時下のようでした。しかし、戦争は人間同士が殺しあうものであり、憎みあうものです。戦争戦争とことさらに言いつのるのは、自分に国民の不信や不満が集中するのを回避したいからではないかと疑ってしまいます。国家間を分断し、相互不信を招こうとしている事だけは、確かに戦争の産物に似ているのかも知れませんが。

 それでも冷静になって考えれば、今回の疫病の原因がウイルスであり、誰か、あるいはどこかの国に責任を押し付けることが出来るようなものではないことぐらい誰でもわかることです。確かに人類はSF映画の「ザ・デイ・アフター」や「エイリアン」「プリデター」のように不条理でしかも目に見えない敵を相手にしています。だからこそ、人類がワンチームにならなければならないはずです。国家間や、人種間、宗教間、あるいはイデオロギー間のいさかいをしている場合ではないのです。

 実は疫病による犠牲者の数は戦争よりもずっと多かったと、人類の歴史が教えてくれています。さらに、戦争ならば、多くの戦争ならば敗者とともに勝者もいます。戦争そのものはそれがどんなに悪であっても、戦争に勝った側にとっては、自分たちの正義を具現したという達成感を感じたり、新しい領土、賠償金や獲得権益など経済的なメリットの恩恵も受けるかもしれません。何より戦争を指導して戦勝に導いたリーダーは、覇権を確立することでしょう。だからこそ、戦争をしたがる政治家が後を絶たないのかも知れません。

 しかし、疫病を相手の戦いに「勝者」はいません。目に見えない敵に突如として攻撃されますし、その攻撃目標に国境も人種も、老若男女も貧富の差もありません。立ち向かうための武器を準備しておくことは不可能ですし、停戦協定や降伏によって終結するということは望めません。しかも、疫病の攻撃は繰り返され、そのたびに多くの犠牲者をだして目を覆うような悲劇を繰り広げることになります。

 さらに不幸なことには医学的な命の危険だけではないということです。もちろん、わたしたちの不安と苛立ちは防御法も治療法もなく、知らぬ間に体内に侵入し死に至らしめる見えない敵、ウイルスにあります。しかし、その不安といら立ちは社会的に増幅されて、必要以上の恐怖、いら立ちを引き起こし、それによって誰かのせいにしたり、他者を攻撃してしまったりします。そしてそれがまた、社会的な不安や苛立ちを増幅してしまう悪循環さえ繰り広げられているのです。

 コロナ禍は世界中で、これまで人々が見ることが出来なかった社会の矛盾や、政治家の能力などを白日の下にさらすことになりました。日本では政府のトップがコロナ禍が始まる前からデータの改ざんや隠匿を繰りかえしてきたため、政府の施策やコメントに対する国民の信頼を失わせてしまいました。医療分野だけでなく社会経済的な大ダメージを小さくすることもできなかった現政権の迷走ぶりに、多くの国民があきれ返っています。水際作戦での侵入を防ぐことに失敗したのは、外交日程への配慮から対応を遅らせてのではないか、蔓延防止に有効な手段を打ち出せなかったのは、オリンピック開催への影響を恐れたからではないか、検査体制や診療体制が遅々として進まなかったのは、過去の民主党政権の施策を認めたくないという面子にこだわったからではないかなどなど、国民の疑いがじわじわと広がっています。医療崩壊を心配する医療現場の悲鳴もまた、わたしたちをさらなる不安に陥れました。

 国や首都圏の政治リーダーに対する不信と不満は、国民をパニックに陥れ、トイレットペーパーの買い占めに走ったり、風評に惑わされてわたしたちの命を守るために頑張ってくれている医療関係者の子どもが、保育園に通うことが拒否されたりしました。一方で、自粛要請に従おうとしない一部の人々の存在と、それをむやみに避難する「自粛警察」などです。  政府による非常事態宣言が解除され始め、一応収束への出口が見えてきました。しかし、繰り返しますが疫病の攻撃は我々の油断を見計らって繰り返してやってきます。しかも、致死性の疫病はCOVID-19だけではありません。今後とも、どんな新しい見えない敵が攻撃を仕掛けてくるか、常にその影におびえながら、その恐怖とさえ共存していかなくてはならないという事を、わたしたちは肝に銘じなくてはならないのかも知れません。

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ステイホームウィークスー4

4-パンドラの箱

 人類の歴史は戦争と伝染病の歴史といっても過言でないほどです。欧米の指導者たちはいち早く新型コロナ感染症対策を「これは戦争だ」と言ってのけました。感染症の中でも天然痘やペスト、コレラなどは一つや二つの戦争どころでない死者を出しています。14世紀に猛威を振るったペストは数度の波状流行で1億人以上の命を奪ったとされています。当時の世界人口が4~5億人くらいだったことからすると、その脅威は想像を絶したことでしょう。中世ヨーロッパではモンゴル軍の襲来に端を発し、その後は十字軍の東方遠征の際の大型船によって持ち込まれたネズミに寄生していたノミが、ペストを媒介したことは広く知られています。

 そのペストでさえ決して過去の伝染病ではありません。現にWHOの報告では2004から2015年までの12年間で世界の感染者数は56,734人でしたし、そのうち4,651人がなくなっています。天然痘は現代では撲滅したとされていますが、3千年以上も前の古代エジプトのファラオが天然痘で亡くなったことが歴史上最初の犠牲者であったことは有名です。それ以来、つい数十年前までの3千年間人類の脅威であり続けたのです。アステカやインカ帝国が滅亡したのも、スペイン人の殺戮ではなく侵略者自身や彼らが連れてきたアフリカの奴隷たちによって持ち込まれた、天然痘の爆発的流行によるものだったと言われています。

 ギリシア神話の成立する時期にも「ギリシアのペスト」と呼ばれる疫病が流行し、それによってギリシア文明そのものが衰亡する一因とされています。「ギリシアのペスト」はペストではなかったというのが定説になっていますが、もともと地中海地方ではどこでも、致死性の強い伝染病のことをペストと総称してきました。その伝染病が何であれ、一大文明を脅かすほどの威力があったということだけは理解できます。

 カミュの小説「ペスト」は時代背景もモティーフも違いますが、伝染病によって人間が何を考え、どう行動するかという事を根源から考えさせてくれます。その物語からは、わたしはどことなく「パンドラの箱」をイメージしてしまいます。有史以前から人類を何度も襲ってきた伝染病が人間にはどうしようもない災厄であることであり、そのすさまじい脅威がギリシア神話に「パンドラの箱」として、記述されたのではないかと想像するのです。。

 パンドラは、ギリシア神話に登場する人類最初の女性です。パンドラの「パン」は「全て」あるいは「ありとあらゆるもの」という意味であり、「ドラ=ドーラー」は「与えられた」という意味です。つまり、パンドラは「ありとあらゆるの贈り物」となります。この「パン」は「パンデミック」の「パン」と同じ意味です。

 パンドラの箱の話は時代や訳者によってその解釈は結構違っています。大方のあらすじは「プロメテウスが天界から火を盗んで人類に与えたため、神の言うことに反抗的になった人間に怒ったゼウスが、人類に災いをもたらすために初めて「女性」パンドラを作らせて人間界に送り込んだ」というところから始まります。「神々はパンドラにありとあらゆる贈り物を与え、最後に決して開けてはいけないと言い含めたうえで箱(原意では壺または甕)を持たせて、人間界に送り出す」のです。

 ある日パンドラが好奇心に負けて箱を開くと、そこから疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど様々な災いが飛び出してしまいます。パンドラは驚いて急いで箱のふたを閉めようとしましたが、その時はこの底にいたエルピス(予見、希望、期待の意)を見つけるのです。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになりました。

 さて、箱の底にいたエルピスをどう解釈するか面白い命題になっています。古典ギリシャ語のエルピスは本来「予兆」や「期待」のことであり、英語の「希望Hope」の語源になっています。ただし、原義では「災厄は辛い。それが逃れられないのに予知することはもっと辛い」「全ての厄災が入っていたというのであればエルピスも厄災にひとつのはずだ」として、エルピスとは「悪い予感」と解していたようです。それが時代とともに「数多くの災厄があっても、希望が残ってくれたので人間は絶望しないで生きる事が出来る」という意味の「希望」に変化していったようです。

 新型コロナウイルスはわたしたち人類にこの物語について、改めて思い起こさせてくれました。プロメテウスが展開から盗んで人類に与えたという「火」とは文明でしょう。その結果、神々の怒りをかうことになったのは「環境破壊」や「差別・偏見」などのことだといえます。新型コロナウイルスは単に感染症としてわたしたちの生命を脅かしているだけでなく、「国際間の対立と分断」「貧困や格差の拡大」「イライラからくる他者への攻撃やいじめ」などなど、ありとあらゆる厄災をもたらしています。

 日本では自粛と呼ばれていますが、世界的には行動規制や都市封鎖によって、ありとあらゆる産業が大きなダメージを受けました。人々は弱い者から狙い撃ちにされ、国々は貧しい国ほど深刻に、抜き差しならないほどの被害と損害を被っています。そして直接的なものだけでなく、普段は目に見えない人々の心の奥底に潜む暗黒に至る人間のエゴイズムを白日の下にさらしてしまいました。どんな自然災害でも地球上のどこかに限定して発生するのであれば、残りの国々や仲間たちの力で助け合うことができます。しかし、パンデミック(あらゆる人々)の上に降りかかる災難となると、わたしたちは他者を思やる心を忘れてしまいがちです。その点で我々日本人はいち早く我に返って行動できたのかも知れません。

 さて、パンドラが箱の底に見出した「エルピス」とは、今回の新型コロナウイルスという厄災に苦しむ我々にとって、「希望」になるでしょうか。それとも単に「悪い予感」になってしまうのでしょうか。我々人類すべての英知が試されているのかも知れません。

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ステイホームウイークス-3

3.いつか来た道

 新型コロナウイルス感染症が直接的にわたしたちの命を脅かしています。すでに多くの方が亡くなりました。さらに社会経済に大きなダメージを与え、それによってコロナが人々の命を奪うかもしれません。しかし、それだけでなくもっと深刻な現実を突き付けているとわたしは感じています。中でもわたしが最も恐れているのが、特に欧米各国で「民主主義」が否定され始めていることです。

 新型コロナに関する韓国や台湾の対応と成果について称賛の声が聞かれます。わたしもそれはそれでそれぞれの国の政治のトップの決断と行動力は称賛に値すると考えています。しかしながら忘れてはならないのは韓国も台湾も現在、戦時下にあるということです。

 わたしは韓国では38度線の板門店に行って現地の休戦ラインの緊張感を直に感じてきましたし、仕事で台湾海峡に浮かぶ澎湖島のホテルに滞在した時、普通のホテルの非常口の掲示板に当たるところに空襲の際の防空壕へ避難路となっていました。欧米の政治リーダーたちは「コロナ禍は戦争だ」と公言しています。戦時下であればこそ、「戦争」への対応は迅速で徹底したものにできたとも言えるのです。

 新型コロナはわたしたちの社会生活の矛盾や不条理について、今更ながら思い知らせてくれています。国のトップやその周辺の政治家たちの無能さ、機能停止をしているとしか思えない政府機関、本質を見抜こうとしない報道機関、折角大枚を払ってやろうとしている支援施策の数々も、目的と手段をはき違えているとしか思えない手続きの煩雑さで、本当に必要な人のところに必要な日までに届くのかどうかも心配になります。

 更にはインターネットの普及で情報の拡散が飛躍的に早くなったことで、デマや未確認情報があっという間に拡散してしまうことも心配です。トイレットペーパー騒ぎなどはまだ罪の軽い話でしたが、デマや悪意のある噂話で傷ついたり、差別を受けたりする人がたくさん出ているのです。保育園で医療関係者の子どもたちが、いわれのない差別やいじめにあったことなどは、何度思い出してもわたしは腹が立ちますし、当事者である医療者とそのお子さんたちの心に受けた傷を考えると涙が出ます。

 それでもわたしは、この日本という国を今、改めて誇りに思っているところです。多くの国民は外出を自粛し、手洗いやマスクの着用を励行しています。ごくわずかの、本当に一握りの不心得者たちの行動をテレビが報道していますが、銃器や警察権力で都市封鎖をしなくても、あるいは法で縛り上げ、違反者を逮捕しなくてもすんでいる国は、世界中を見渡してもそんなに多くはありません。しかも、感染者数も不幸にしてお亡くなりになった方の数も人口割で、群を抜いて少ないのです。

 もちろん、油断は禁物であり、いつ日本でも爆発的な感染拡大や医療崩壊が起きるかもしれません。わたしは今夏一度収束した後、第2波が来るかもしれないことに備えるよう提言しています。6月議会ではそのことについて論議する準備もしています。それでもまずは冷静にならなくては、感染防止も社会経済活動の維持もままならないと自分に言い続けています。政府や地方自治体の自粛要請に耳を貸さない、ごく少数の不心得者を憎いと思うあまり、国の強権力行使を求めるような発言も聞かれますが、それこそこの国が取り返しのつかない禍を、わたしたちにもたらしかねません。

 わたしは今の日本で言われている3密自粛には「治安維持法」の時代の「集会禁止令」のニュアンスを感じてしまいます。国が毎日公表するコロナ関連情報も、少し穿ってみれば分母と分子の関係が定かでなかったり、情報の出どころがばらばらであったりしています。国が情報を一元管理すると言っていたのに、今では地方に責任をかぶせようとしています。感染者数、感染率、罹患率、致死率、死亡率などなど、そのどれをとっても国民はうさん臭く感じています。まるで「大本営発表」の戦果や状況分析に見えてしまうのです。さらに、SNSなどで独断と偏見に基づいて、他者を攻撃する自粛警察も社会問題化していますが、それは太平洋戦争当時、白い割烹着を着て贅沢や遊興を取り締まっていた大日本婦人会や在郷軍人会の活動と重なります。コロナによってこの国が「いつか来た道」を辿ることのないよう、声を上げていかなくてはならないと考えています。

 今、わたしたちにできることは、まず冷静になること。少なくともわたしたち日本人特有の謙譲と惻隠が、世界中から称賛されていることを思い出しましょう。コロナとの付き合いは例え一時的に収束しても、長くなることを覚悟しなくてはなりません。まだまだ未知の敵ではありますが、新型コロナへのワクチンや治療薬が確立するまで、このウイルスに対して正確に恐れ、正確に自分のできることを粛々と実行していきましょう。

 三密とは本来、弘法大師の御教えであり、身密(しんみつ)=身体・行動、口密(くみつ)=言葉・発言、意密(いみつ)=こころ・考えのことです。それぞれ僧の修行の目安のようなもので、身密とは手に諸尊の印契(印相)を結ぶことであり、口密(語密)とは真言を読誦することだそうです。そして心密とは心に曼荼羅の世界を思い描くことです。わたしたちが今、最も心に銘じておかなくて行けないのは、この弘法大師の「三密」の御教えではないでしょうか。

「身体の密」は「手を洗い、清潔に保ち、ソーシャル・ディスタンスを意識すること」、「口の密」は「常にねぎらいと感謝の言葉を発すること」、「心の密」は「他者を慮る惻隠の情をもち、生活必需品などを独り占めにしないこと」。この三密を忘れずに、災厄の先にきっと来る、いつか来た道ではなく新しい社会を待ち望む「希望」を持ち続けましょう。

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ステイホームウイークスー2(b)

大分市のコロナウイルス関連補正予算の主な内容

4月補正予算

 4月27日に開催した臨時議会で新型コロナウイルス感染症への対応のため大分市独自の取り組みについて補正予算総額28億4千3百万円を可決しました。また、国の緊急経済対策への対応(国からの支出金・交付金の受け込み)のための専決補正予算総額492億円を承認しました。

 それぞれの主な内容は下記のとおりです。

大分市独自の取り組み       (単位:千円)

1)医療機関支援と検査・感染防止体制の強化

  • 発熱外来整備事業                    70,000
  • PCR用検体採取場整備事業                47,000
  • 保健所PCR検査体制強化事業              27,670
  • 医療関連物資確保支援事業               344,332
  • 医療機関運営資金貸付金利子補給金            13,000
  • 消防局感染防護敷材整備事業              224,000

2)生活支援

1.  住宅困窮者対策事業                  100,000

2. 母子父子寡婦福祉資金貸付金利子補給金           100

3. 就学援助事業                      35,100

4. 学校給食費等返還事業(4月分)            150,000

3)中小企業支援

1. 小規模事業者店舗家賃支援事業             778,000

2. 商店街活性化事業補助金                108,580

3. 中小企業等利子補給金                 484,000

4. 高齢者施設運営資金貸付金利子補給金           5,000

5. 障がい者施設運営資金貸付金利子補給金          5,000

6. 農業振興資金信用保証料等補助金         1,000

国の緊急対応策

  • 特別低額給付金事業(国民一人当たり10万円) 48,210,000
  • 子育て世代への臨時特別給付金          717,720
  • 住宅確保給付金事業                41,250
  • 高齢者福祉施設個室化支援事業          24,450
  • 障がい者福祉施設感染症対策事業         20,000
  • 児童福祉施設感染症対策事業           154,900
  • 幼稚園・小中学校等感染症対策事業        31,680
  • 学校給食費等返還事業(3月分)         150,200
  • 学校給食衛生管理改善事業            38,800
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ステイホームウイークス-2(a)

大分市のコロナウイルス感染症関連施策ー1

大分市の支援策については大分市のホームページなどで手続き方法などを公表しています。

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