「雨の日のお客様」
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ちょうど一年前の夏、熟年夫婦2組で年代物のキャンピングカーを駆って、歴史をたどる旅に出ました。これはその思い出の旅日記です。
15.わたしたちの未来
5)グリーンリカバリー
わたしたちはコロナによって改めて人類共通の問題を気付かされました。コロナ・パンデミックの真の原因が、実はこれまでも繰り返し繰り返し言われてきたのに遅々として進まない問題ではないかと、世界中の多くの人々が思い当たるようになったのです。
感染症のパンデミックに人類は繰り返し襲われてきました。紀元前から人々が広範囲に移動することによって感染症が蔓延してきたことは歴史の証明するところです。古代エジプトでは天然痘やペストの犠牲者がミイラになっていますし、古代エジプト王朝による周辺国との攻防戦、アレキサンダー大王の東征、フン族、モンゴル族のヨーロッパへの侵入、十字軍の聖地侵攻などなど、人間の大規模な移動と共に人間はパンデミックに襲われてきたのです。
その度に伝染病・感染症そのものは一応収束期を迎えましたが、一部の人々を除いて人間は収束期を迎えるたびに「のど元過ぎれば熱きを忘れ」てしまったようです。遠い昔のペストやコレラどころか、近い昔のスペイン風邪やもっと近くの新型インフルエンザの驚異すら忘れてしまっていたのです。そうでなければ今回の騒ぎにはならなかったのですが。
新型コロナウイルス感染症もいずれは治療薬や対処方法が確立し、有効かつ簡便なワクチンが開発され普及することによって収束する日が来ることでしょう。しかしそれは感染症全ての終息を意味することではないことを、コロナが嫌というほど示してくれました。新型コロナウイルス感染症もまだ驚異の真只中にありますが、わたしたちはコロナを契機にして今後も繰り返し人類を襲ってくれであろう感染症パンデミックにどう準備し、どう立ち向かっていくのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。
さらに、一見感染症対策とは直接関係のない分野についても、おろそかにできません。医療一つをとっても、高度な医療技術の発達、医薬品の開発には、実は土壌学、動物学、植物学、地球物理学などの分野の基礎的研究の成果がなくてはならないのです。さらに公衆衛生や集団のパニック現象などを考える時に、実は哲学や論理学、思想史などと言った人文科学の分野が必須であることも忘れてはならないでしょう。
現代社会はコロナ以前から「マネー論理」に世界的に汚染されていたことを今、わたしたちは実感として気付かされています。米中の軋轢を見るまでもなく、マネーの論理に支配された政治家たちが如何に安易に自国第一主義に走るのか、その政治家たちが、実は国と国のつながりを分断するだけでなく、自国内のコミュニティーさえ破壊しようとしていることさえ、コロナ問題というスクリーンに影絵のように投影されています。
自由経済における市場原理とは少し次元の違うところで、マネーの論理は世界中に浸透し侵し続けてきました。悲しむべきことに、特にこの日本という国では自然科学でさえマネーの論理に席巻されていると言わなくてはなりません。基礎科学そのものはわたしたちの実生活に直接的なつながりを感じさせません。わたしたちの生活は医学、薬学はもちろん、建築工学、土木工学、気象学などの応用化学の成果によって保障されています。わたしたちは安全で快適な生活環境を全て応用科学とそこから派生する技術によって得てきたのです。その技術も応用化学も基礎科学の研究成果なしでは成り立ちません。その意味で基礎学問は科学のインフラを受け持つ分野であり、文字通り文明進歩の基礎のはずです。
インフラのないところには都市の発展はありません。インフラの保障のないままに、無理に開発を推し進めれば、やがて地滑り的な崩壊が起るという事を、わたしたちはこれまで何度も思い知らされてきました。それを防ぐためには、実は地球の成り立ちや生命の起源にまで遡って、科学的真理を謙虚で根源的な視点で希求することが重要であるはずです。その科学や基礎的研究でさえ、マネーの論理に席巻されてしまっていました。
短期に成果の見える研究や、薬品開発のように産業的な収益が見込まれる研究、国際的な競争に勝つためといった目標を定めることのできる技術開発には国も企業も資金提供しますが、莫大な資金が必要な割に我々の実生活には影響が見えない大学などの基礎的研究には資金が不足しているというのが現実です。基礎的研究の成果があってこそ応用科学も技術も張ってしてきたというのに、学問や科学の分野にまでマネーの論理が浸透してしまえば、科学そのものを脆弱なものにしてしまいかねません。
コロナ後の未来社会をどの様な世界にするのかという動きは既に始まっています。本年3月26日にEU加盟国の首脳がいち早く、新型コロナウイルス感染症によって疲弊し停滞している経済を復興させるための、ロードマップや行動計画の策定を求める共同声明を発表しました。この時、復興政策の要となる基本的な考え方として「グリーントランジション」を導入することを明示しました。さらに5月27日には「今日の危機を乗り越えるための連帯を示すだけでなく、将来に向けた、世代を超える協定」として復興基金「次世代EU」を創設し、次の世代の人々が復興策の展開を通じた利益を享受できるように「欧州グリーンディール」を復興の中核的な政策のひとつに位置づけました。制度設計の詳細はこれからの交渉に委ねられていますし、既に経済的に余裕のある国とUE内でも経済的に困窮している国の間で、欧州内南北問題が取りざたされていますから予断を許しません。しかしグリーントランジションの具体的な戦略として、復興計画案の公表前というのに既にEU加盟国や欧州の産業界から様々な提案がされています。
その中でフランスとドイツは、5千億ユーロ規模の復興基金を提唱するとともに、産業別に「グリーンリカバリー」ロードマップを策定するよう共同提案しました。「グリーントラディション」「グリーンディール」「グリーンリカバリー」というように、コロナ後を見据えた欧州での復興計画のキーワードに「グリーン」という言葉が繰り返し伝われています。中でも「グリーンリカバリー」は最も新しい言葉として、わたしたちの前に登場しました。
グリーンリカバリー(Green Recovery)とは、直訳すれば「緑の回復」となります。本年4月にドイツがパリ協定参加国中の主要国の閣僚などを招いて開催した「ペータースベルク気候対話」と呼ばれるweb会議での中心的論議となったことで知られるようになりました。新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延によって大きなダメージを受けた世界中の経済と社会を復興させるためグリーンリカバリーの考え方のもと「脱炭素と生態系と生物多様性を保全によって、災害や感染症に強靱な社会・経済を実現」して行こうというのです。それはパリ協定のコンセプトであるSDGs(持続可能な開発目標)の延長上の考え方であるとも言えそうです。
欧州で「グリーンリカバリー」という概念が生まれるには、それまでいくつもの伏線があったと思われますがいずれにしても、地球規模での気候変動そのものを問題視し、コロナ後の復興政策の中止に据えようとしているところに注目しなくてはなりません。コロナ後に未来を考えるのに、医療・医学の整備と振興、経済復興などではなく気候変動を食い止めるための国際協力を第一に掲げ、そのために日本円で60兆円を超える共同基金を設立しようというのです。
独仏のこの提唱には首をかしげる指導者も多く、これからまだまだ紆余曲折を重ねていくのでしょうが、あのグレタ・ツーンベリさんのメッセージに独仏の指導者が応えたことに少なくともわたしは歓迎しています。わたしたちは今こそ技術開発や経済発展の歩みを一度止めても、もう一度人間とは何か、地球とは何か、地球にとっての人間とは何か、人間にとっての地球とは何かというところから思考を進めるべきではないでしょうか。
コロナはこれまでも何度も繰り返されてきた、地球からわたしたち人間への警告です。この警告でも行為を改めなければ、さらに新たな警告を地球は発するでしょう。世界的に発生している異常気象などもその警告の一つだと言えます。手遅れにならないうちに、地球の発している警告に真摯に向かい合おうという独仏の提唱が「グリーンリカバリー」なのです。その考え方に、わたしはビヨンド・コロナの世界を照らす希望の光を見た気がしています。
14.わたしたちの未来
4)SDGsとSustainable future
これまでも変革の必要性を言われながら遅々として進まなかった社会構造が、この新型コロナウイルス感染症を契機に大きく変わりつつあるようです。そのコロナ後の社会を指してウイズ・コロナの未来社会などと言われていますが、わたしはそれをむしろビヨンド・コロナと名付けておきたいと思います。
一度でも中国に行った人ならわかるでしょうが、大都市の中心部を除いてあの国の衛生に対する考え方の遅れはひどいものでしたし、公衆トイレの不衛生さには辟易させられたものです。大気や水質などの環境に対する考え方もまだまだ遅れています。米国では世界一の経済大国でありながら、国民の健康意識、衛生観念のなさには驚かされますし、医療体制の格差に至っては途上国並みかそれ以下でした。それがコロナを契機にそれぞれの国内で論議されるようになりました。今後、見直しのスピードが加速されるかもしれません。
日本ではこれまでデジタル化の遅れが言われながら特にインフラ部門の整備が遅れていると言われながら遅々として進んで来ませんでした。コロナ禍によって俄かにビジネス界での在宅勤務やアバターの導入、教育界でのオンライン授業の普及の必要性が語られるようになり、そのためのインフラ整備が急務であると言われるようになりました。医療の分野でも遠隔治療についての論議が活発になり、ワクチン開発や治療薬について、国際的に見て規制緩和の遅れが指摘されています。今後、これらに対する是正が進むことがこの国でも期待されます。
もちろん、これからの課題解決は、決して一国で完結できるものではありません。コロナ・パンデミックによって、世界中が共通の危機感を持つこととなった今こそ、世界中が一つになって人類共通の敵と向かい合うことが出来るのではないでしょうか。しかし現実はかえって一国利益主義に走る政治家の何と多いことかとあきれるとともに、いまさらながら暗澹たる気持ちになっているのは、わたし一人ではないでしょう。それでも気を取り直して、何とか未来社会に希望をつなぐために考えられること、できることはないかと探し求めなくてはならないこともよく分かっています。
サステイナブルということを聞くようになって、もうずいぶんと立ちました。日本語には「持続可能な」と訳されています。最近よく耳にするようになったSDGsはSustainable Development Goalsの頭文字で、持続可能な開発目標ということになります。2015年9月の国連サミットで採択され、国連加盟193か国がそれぞれの国の実情に合わせて2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標です。SDGsには17の項目があり、それぞれの項目に目標とすべきターゲットが明示されています。ターゲットの数は合計169あり、それらの進捗状況を管理し、実行されていくために国連統計委員会が管理する指標が244(重複を除くと232)用意されています。
ただ残念ながら、国連加盟国193カ国の総意として決議されてからもう5年たったことになるというのに、当初の計画通り進んでいるとは到底思えません、それどころかトランプの登場以来、SDGsは後退しているとさえ思えて仕方がありません。それがコロナによってもう一度、多くの政治家や人々が思い出してくれたような気がしています。
新型コロナウイルス感染症とSDGsがどう関連するのか、まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論議ではないかと思われる方もいるかもしれません。また、「溺れかかっている人に岸からどうしてそんなところに行ったのか」と説教するような話ではないのかと感じる人もいるかもしれません。それでもわたしは今回の新型コロナウイルス感染症パンデミックはSDGsの実現に向けた世界的なコンセンサスを醸成する契機になると期待しています。
確かに現下の急性症状としての社会状況の大きな変化・変動は、決して良い方向に向いているとは思えません。経済は実体経済と金融危機のダブルパンチが襲ってきて、誰しもが長期不況の恐怖に駆られています。それに伴う倒産、大量解雇は人々の社会不安をあおり、貧富階層間の軋轢を生じさせ、自己防衛のための過剰反応、それによる買占め、魔女狩りヘイト、医療関係者などへの根拠のないバッシングに走るかも知れません。政治家はここぞとばかり大衆迎合のための自国第一主義に走りつつ、その陰で強権的な経済至上主義政治を選択しようとしています。中国の国際関係への主権などは、まるで火事場泥棒的に周辺国を強権的統合下に置こうという風にしか見えません。
そこでわたしはSDGsに期待するのです。SDGsつまり持続可能な開発こそが、これからの世界を支えていく唯一の目標だと考えているのです。SDGsの根幹をなすのは「共生」という考え方です。地域社会における共生や人と人、国と国の強生という事だけでなく、地球上に共に生きる森羅万象全ての自然との共生という考え方です。わたしは「地球に優しい」というキャッチフレーズは好きではありません。その言葉にわたしはどうしてもわたしたちのおごり高ぶった思い違いを感じるからです。わたしたちはこのかけがえのない地球の専制君主ではないはずです。われわれの方こそ「地球に優しくしてもらう」立場であり、そのためにこそ、この地球という星に乗り合わせた全てと仲良く共生していかなくてはいけないはずなのです。
人間の作り出した農薬などの合成化学物質による地球規模の汚染、人間の生産活動によって生成される炭酸ガスによる地球温暖化、さらには南氷洋に住む生物さえマイクロプラスチックスによる汚染が進んでいる事が、地球全体の調和を壊してしまっているという事について、コロナが警告しているのではないかと、わたしはこれまで事あるごとに発言してきました。
今回の新型コロナウイルス感染症COVID-19はいずれ終息するでしょう。しかし、新たなウイルス感染症の恐怖を、我々はこれからも受け入れて共に生きて行かなくてはなりません。何度も言いますように細菌性の伝染病、ウイルス性の感染症など、我々人類はこれまでも何度もその恐怖に襲われ、そのたびに大きな間違いをして人間同士の傷つけあい、自然破壊を繰り返してきたことが歴史に刻まれています。これからの我々はウイルスの恐怖とさえ共生していかなくてはならないとしたら、新型コロナウイルス感染症の蔓延の前に提起されているSDGsの、その目標を達成したから成功しているというような考え方にとどまらず、常に注意深く持続不可能な問題を取り除きながら、社会の進歩を考えていかなくてはならないはずでしょう。
その意味でやがて来るであろうポストCOVID-19は「ポスト・コロナ」ではないといえます。毎日の報道で報告される数字に不安を募らせながら生活する「ウィズ・コロナ」が終息し、「アフター・コロナ」となってもわたしたちの身の回り、わたしたちの生活スタイルから地球規模の状況まで、持続可能な世界に変えていかなくてはなりません。だからこそわたしは新型コロナウイルス感染症後の世界の未来に向かう方向の転換と、それによって実現するであろうSustainable future(持続可能な未来)に期待し、「アフター・コロナ(コロナ後)」ではなく「ビヨンド・コロナ(コロナを越えて)」というキーワードを使っていきたいと思っているのです。
SDGs17項目

13.わたしたちの未来
3)コモンズの悲劇から抜け出すために
わたしの大学時代の同郷の同級生S君は、学生時代は空手部の主将として活躍し、卒業後に水産庁に入省し行政官として数々の実績を挙げました。キャリアには珍しく天下りすることを拒否して定年まで奉職し、退職後は伊勢湾に浮かぶ小さな島で漁師の仲間入りをしています。2013年、彼が北斗書房から「コモンズの悲劇から脱却せよ」という本を出しました。副題に「日本型漁業に学ぶ、経済成長主義の危うさ」と付いているとおり、水産業・漁業だけに関わらず、現代社会の矛盾について箴言となりうる言葉が散りばめられており、深く考えさせられる力著です。因みにS君の名前は「力生」ですが、その名に恥じぬ役人生活を送り、今も漁師仲間と共に「力生」という名にふさわしい人生を体現しています。
コモンズの悲劇(The Tragedy of the Commons)とは直訳すると「共有地の悲劇」という事です。社会学の専門用語として知られていますが、実は1960年代に最初に提唱したのはギャレット・ハーディンという米国の生物学者でした。
例えば村人みんなが好きなだけ家畜を放牧できる放牧場(コモンズ)があるとします。放牧場の牧草の生産力に見合うだけの家畜が放牧されているのなら問題は起こらないかもしれませんが、村人は家族が増えると自家の収入を増やすため、次第に放牧する家畜を増やそうとします。いずれは共有地の収容可能数を超えてしまいます。そうなると家畜は成長しませんから、期待していた収入は得られません。そこで気が付けばいいのですが、村人は利益を確保しようとさらに放牧する家畜を増やしてしまいます。その結果、放牧場は回復不可能なほどのダメージを受け、村は貧困化し崩壊に進んでしまうというがコモンズの悲劇なのです。
では放牧場を村人の数で分割して、それぞれの私有地にしてしまえば大丈夫かというと、問題はそう簡単なものではありません。1970年代から国連機関がアフリカで行った定着自作農育成の一大プロジェクトでは、かえってアフリカの牧草地帯は疲弊してしまい、農民たちは流民化するしかありませんでした。さらに、米国の牛肉輸入自由化によって、アルゼンチンやウルグアイで過放牧状態に陥り、あれだけ豊かな生産力を誇ったパンパ(放牧地として使ってきた草原地帯)の砂漠化が進んで生産力を落としてしまったという事実が、わたしたちに改めて「コモンズの悲劇」の根の深さを警告しているのかも知れません。昨今アマゾン流域での森林伐採と山焼きが問題になっていますが、これにも同根の病巣が見え隠れしています。「コモンズ」が村の共有地や入会地であるうちは、まだ問題も大きくはならなかったのでしょうが、今や「コモンズ」とは地球そのものだという事を、わたしたちは理解することを強いられているのです。
中国が世界の工場と言われてきました。所謂改革開放路線をひいた中国の安い労働力と大きな市場を目指して、世界中の先進国が殺到しました。それは途上国が経済成長しようとするエネルギーを、先進国が吸収しようとしているという見方もできます。年老いて活力を失った熟年世代が、元気な若者たちと付き合うことで、なんとか元気を補えないかと思うのは仕方のないことかもしれませんが、そんなことが実は出来るわけはないことを、わたしたちはそろそろ理解しなくてはならないでしょう。
グローバルという言葉は、活発な貿易や外国人観光客の誘致を意味するインバウンドと表裏一体です。貿易とは本来輸出入のことであり、国というレベルを考えるなら、輸出が輸入を常に上回ることが求められ、戦後の高度成長期の日本はそれを国家の目標としてわき目もふらずにやってきました。ところが中国の急激な経済成長を見ていると、今日の国際経済は20世紀型の貿易中心の経済ではなくなってきたと思うのはわたしだけでしょうか。人件費や環境対策費などの製造コストが自国で製造するより低く抑えられるという事で、自国内需要を市場とした製品をわざわざ他国で製造するというようなことは、20世紀型の貿易の考え方では理解できません。そこには先進国と途上国の経済・社会の格差が見えます。先進国はより人件費の安い、より環境対策の甘い国を目指して進出していきますが、その結果として「コモンズの悲劇」を生み出してしまいました。しかも、この場合のコモンズでは先進国が村人、共有地・入会地が途上国ですから、悲劇は地球規模で起るという事です。
今回のコロナ禍が始まった頃、医療用マスクの不足が問題化しました。それは中国がマスクを輸出することを禁じたからです。しかし、その中国で医療用マスクを作っていたのは日本国内の市場での競争力を確保するために人件費などの安い中国に工場を立てた日本の企業でした。それが如何に危ういものあったか、コロナが教えてくれたことになります。マスクは曲がりなりにも何とかなりました。しかし、今後、似たような事態が発生して世界中で食料の輸出を禁じたとしたらどうなるでしょう。日本の食糧の自給率は40%を切っています。さらに畜産業で使う飼料用の農産物も輸入していますし、水産養殖で使う餌料でさえ国外に頼るようになってしまっているのです。鶏肉や鶏卵でさえ農産物の輸入が出来なくなったら危ういのです。
江戸時代の2百数十年の太平の眠りをペリーの砲艦外交で破られた日本は、その後先進国に追いつけ追い越せという事をスローガンに掲げました。そのために最も効率のよい方法として、官主導・公権力主導、民間はトップランナー優先主義をとるという国是を形成してきました。一度は軍国主義に乗っ取られてそれまでの努力を灰燼に帰させてしまいましたが、結局戦後もまた同じ路線をとり、少なくとも20世紀後半はそれなりに順調だったと言えるでしょう。しかし、その一見順調だったと言われる経済成長の結果、確かに世界有数の経済大国になりましたが、その結果として21世紀の日本では、国内に深刻な経済格差を生み、この国で貧困に苦しむ子どもたちを生み出してしまいました。
現代社会におけるコモンズとは何か、コモンズの悲劇はどんな形でわたしたちを脅かしてくるのか、S君のおかげでわたしも考えるようになりました。その考察の中でどうしてもコモンズという言葉とグローバルという言葉が重なってしまいます。「コロナ後の社会の在り方」という事が言われ始めました。コロナ後の世界を考える時、特に日本においてのグローバルという言葉の意味を、このコモンズの悲劇というヒントによって見直してみたいと思っています。
少し経済的に余裕があるからと言って、自分の都合だけでコモンズに我勝ちに家畜を放牧してしまえば、単にコモンズを枯渇させたり、それによって土壌侵食や土砂災害を引き起こし、果ては気候さえ変えてしまうという事を、そろそろわたしたちは身辺の深刻な問題として考えなくてはならないのではないでしょうか。
12.わたしたちの未来
2)グローバル社会の中でモノプソニーをどう克服するか
モノプソニー(Monopsony)とは「買い手独占」と訳される経済学の専門用語だそうです。買い手が市場を実質的に支配している市場構造を意味しています。売り手が市場を独占している場合、その独占企業は買い手が購入する時の価格を決定することができます。逆に買い手側が商品やサービスの唯一の買い手となった場合、売り手が売ろうとする価格を買い手側が決定する力を持つことになるというのがモノプソニーです。これだけ聞けば、消費者にとって有利な感じがして問題を感じません。
しかし、売り手と買い手の関係を働くものと雇い入れる側とに置き換えてみましょう。労働力市場では売り手とは労働力の提供側、つまり働く人であり、買い手とは雇用する企業側という事になります。モノプソニーの労働市場では企業側が一方的に労賃の決定権を握るという事であり、それは労働者にとって労働生産性、つまり働いて稼ぐ給料が過小評価され、働く環境や福利厚生が尊重されないという事に結びついてしまう事になってしまいます。
コロナ禍で解雇される労働者、働いていた職場が閉鎖や倒産、合理化の対象となって職を失う人が出始めました。しかし、実はコロナ禍が襲ってくる前から、日本の労働市場は買い手市場、つまり雇用する側である企業の方が一方的に、価格つまり賃金を決めることが出来る状態にあったのではないでしょうか。
人口減少期に入った日本のことですから、自然仕事を求める人の数も減っているはずですし、人口減少の分だけ国内消費市場が縮小しているとしても、供給側がその分だけ縮小すれば均衡は保たれていくはずです。もちろん、世界の人口は相変わらず増え続けていますし、特に日本は世界を相手にしながら今日の経済力をつけてきたのですから、一国の国内事情だけで物事が決められているわけではないことは分かっています。しかし、そうれあればこそ、純粋に国産の消費であるはずの労働力への対価が低迷することはないはずです。ところが現実は失われた20年の間、日本の賃金はいわば過少評価され続けてきたと言えます。
先進国という言葉は好きではありませんが、G7参加国、OECD加盟国などが先進国でしょうか。その中でも日本はGDPでは米国に次ぐ第2番目(世界全体では中国が2位となり日本は3位)の経済大国です。G7内でのGDPの順位は1.米国2.日本3.ドイツ4.英国5.フランス6.イタリアですが、一人当たりGDPになると順位が入れ代わり、1.米国2.ドイツ3.カナダ4.フランス5.英国6.日本7.イタリアとなります。さらに労働者の平均給与所得の順位は1.米国2.カナダ3.英国4.ドイツ5.フランス6.イタリア7.日本で日本が最下位です。最低賃金比較ではイタリアにはその制度がありませんが、最も高いのがフランスとなり以下、2.ドイツ3.英国4.カナダ5.日本6.米国です。
コロナ禍で最も社会を揺るがしているのが米国ですが、その社会的要因にこの順位の生み出す問題が潜んでいるのではないかと考えるのはわたしひとりではないでしょう。年間の労働時間の違いもありますので単純比較はできませんが、年間の給与所得の平均は米国の約6万3千ドルに対して日本が4万1千ドル、しかし最低賃金となると日本の1万7千ドルに対して米国は1万5千ドルでしかありません。
もう一度商品の値段に戻りますが、本来自由主義社会の自由経済・市場経済では物の値段は需要と供給のバランスによって決まるはずです。しかし、仮に買い手の方がある商品の値段に上限を設けて、それ以上は絶対に払わないと言い出したらどうなるでしょうか、売り手や作り手はその価格に合わせて商品を売るしかなく、当然ながらそれを作るコストは著しく制限されることになります。それがモノプソニーの問題点です。デフレ経済の裏側にこのモノプソニーという怪物が潜んでいるのです。
商品を労働の対価に置き換えてみると、モノプソニーの別の問題点が見えてきます。これ以上は払えないと雇用者側が言えば、雇用される側はその賃金で働くか、別の仕事を探すかという事になります。労働力という商品を提供する側が労働者であり、その商品を買うのが雇用者側だからです。市場経済・自由経済の需要と供給のバランスに基づけば、労働者が不足すれば賃金は上がり、失業率が高くなれば賃金は下がるでしょう。しかし、実際はそうなっていません。そのことは米国の平均給与と最低賃金の大きな開きからも見えてきます。では、なぜ米国の最低賃金は国の経済力や生産性に比して低いのか、それは隣国メキシコに代表される米国を取り巻く多くの途上国からの労働力移入が要因の一つなのです。
米国の平均給与が年6万3千ドルに対してメキシコのそれは年1万6千ドル、最低賃金は年ベースで米国1万5千ドル、メキシコ2千2百ドルです。トランプ大統領がどんなに国境を厳重に閉鎖しても、これでは米国に流入しようとする地続きの隣国人が後を絶つはずはありません。同じことが日本でも始まっていました。所謂3K職場と言われる職業を中心に労働力不足を外国人労働者で、なんとか補ってきたのです。
本来、人が嫌がるような3K仕事であれば、エアコンの効いた部屋で汗もかかずに働くことできる一般事務職より高い給料を払って人集めをすることになるはずです。国が労働力について厳密に鎖国状態であれば、そうなったことでしょう。しかし、実際はどんなに人手不足に悩んでいる経営者でも、では給料を大幅に上げて求人しようとはしません。そんなことをしたら、企業間の競争に生き残っていけないからです。そんな企業側の窮状を救済してくれるのが、途上国の労働力というわけです。
労働力という商品を買う側にしてみれば、そのおかげで価格の上限を勝手に決めることが出来るとも言えるのです。売る側、つまり労働者側に立てば、売値が限定されればそれに従う事しかできません。だからこそ、何らかの技能や資格を得ようと必死になることになりますが、これも労働力のモノプソニー下にあっては無事ではありません。既に若い医師や弁護士の収入の低迷が社会問題化しているのです。
日系移住者の子弟への解禁をはじめとして、研修制度、日本語学校など、日本でも国は大企業の圧力に負けて、外国人労働力の占有率を引き上げてきました。ついには単純動労者の就労さえ認めようとしています。外国人労働者が日本滞在中の収入や経験、取得した技能を帰国後本国で活かすことが出来るのなら、日本の国としての世界レベルでの社会貢献も評価されるでしょう。しかし、日本の給与水準を低く抑えるためだけに外国人労働者を受け入れる(それが政府財界の本音でしょうが)ことは、単に賃金のモノプソニーを定着させてしまうだけです。それでは日本国内の労働環境を悪化させることはもちろん、実は外国人労働者の母国の社会環境にも、良い結果はもたらしません。そのことは先進国への労働力の輸出国が、いつまでたってもその労働市場構造から抜け出せないでいることが、如実に物語っているのではないでしょうか。
わたしたちがグローバルな世界で生きて行くしかないことは、受け入れるしかない現実です。しかし、インバウンドにだけ依存する観光産業が新型コロナウイルス感染症によって、如何に脆弱だったかという事と同じように、途上国からの労働者に頼ってモノプソニーな労働市場を生み出している日本社会の現状もまた、人材の空洞化という病疾に侵されつつあるのかも知れません。
だからこそ今、コロナ禍によってもたらされた、わたしたちの来し方とわたしのたちの生きる意味という本質的な命題を、立ち止まって考えることが出来る機会を活かすためにも、もう一度、自分の生活する小さな社会を見直し、自分たちの依って立つ狭い意味での共同体意識を維持するための信頼関係を強固にしながら、その連帯感をもって近隣の共同体、近隣の国々へと惻隠の情を広げていかなくてはならないと、わたしは考えています。
1)シンギュラリティーの見え始めた時代に生きる
シンギュラリティ(Singularity)とは未来学者が提唱してきた概念で「技術的特異点」のことです。人工知能が自分で繰り返し自分のバージョンアップが繰り返すようになると、人間の知性を遥かに超える知性を獲得するという、聊かSFの世界の様な仮説です。要は人間の作り出した人工知能が人知を超えるということであり、AI(人工知能)が生み出す技術や知能が、人類のためではなく人工知能自身のためにその能力を発揮して、現在では想像もつかない、まったく違う新しい文明を生み出してしまう事態になるかもしれないということです。1993年にヴァーナー・ヴィンジという人が初めて自分の著作の中でシンギュラリティーという言葉を使い「30年以内に技術的に人間を超える知能がつくられる」と表現しました。AIの発明家で未来学者のレイ・カーツワイル、「2029年にAIが人間並みの知能を備え、2045年に技術的特異点が来る」と提唱し、シンギュラリティーは2045年問題と呼ばれるようになっています。その2045年問題の根拠となっている理論が、「収穫加速の法則」です。
収穫加速の法則とは「技術の一つの重要な発明は次々に他の発明を呼び込んで、次の段階への技術上の進歩までに要する時間を加速度的に短縮し」その結果として「技術の進歩と性能のバージョンアップは直線的に進むのではなく指数関数的に向上する」という法則です。ひとたび技術的な進歩が始まると、その技術そのものが次の進歩までの期間を短縮させ、ますます技術の進歩が加速するというわけです。
新型コロナウイルス感染症対策の手段としてリモート・ワークなどが普及していくと、当然AIと情報ネットワークが前提の技術開発はこれまで以上に加速されるでしょう。第4次産業革命の進展度は確かに指数関数的にそのスピードを増すことになります。それと共に、シンギュラリティーが刻一刻と迫ってきているということを、AI技術に縁遠いわたしでさえ実感として感じ始めています。
手塚治虫が1967年に発表した「火の鳥」という連載漫画があります。その中の「未来編」は本来、「火の鳥」シリーズの結末の話ですが、そのままシリーズの始まりの話である黎明編へ繋がるような展開となっていて、「火の鳥」の一つのテーマである「生命の永遠の輪廻」を、読者に伝えようとしているようです。
物語はこうです。「3404年、人類はマザーと呼ばれる超巨大コンピューターに独裁的に支配されていました。25世紀を頂点として文明も芸術も進歩が衰退期に入っています。他惑星に建設した植民地もすでに放棄してしまい、地球も地上はおろか生物が殆ど住めない世界となっていました。滅亡の瀬戸際にあった人類は『永遠の首都』と呼ばれる5つの地下巨大都市『レングード』『ピンキング』『ユーオーク』『ルマルエーズ』『ヤマト』に住んでいます。やがて些細なことから超巨大コンピューター同士でいさかいが起き、ヤマトとレングードの対立から核戦争が勃発します。その結果、残りの3都市までもがなぜか超水爆で爆発し、地球上に5つあった全ての地下都市が消滅し人類が滅亡してしまうのです」
シンギュラリティーという言葉を聞いた時、わたしは若い頃に子どもたちと読んだ、この手塚治虫の火の鳥・未来篇を思い出しました。人口知能が人知を超えると言ってもチェスや将棋、囲碁でコンピューターがプロと対戦して勝利するというような単純なことではありません。人間が人工知能の支配下で生きて行かなくてはならない世界であり、そうなれば人類は滅亡してしまうかもしれないという事なのです。
もっと昔には1936年に封切られたチャップリンの代表作「モダンタイムズ」という映画ありました。大きな工場で働くチャーリーは単純作業のために雇われている工員でしたが、仕事場はテレビモニターで監視され、休む暇もなく働かされているという設定です。ある日、チャーリーは労働者の食事時間を節約するために作られた自動給食マシーンの実験台にされ、そんな生活を続けるうちについにチャーリーは発狂して精神病院に入れられてしまいます。最後はアメリカ映画らしくハッピーエンドで終わるのですが、この映画は機械に人間が使われるという話でした。チャップリンの偉大さは、その映画を戦雲の立ち込め始めた1936年、日本では昭和11年に制作したという事です。
「コロナ禍がわたしたちに何を教えようとしているか」という論議が始まりました。もちろん新型コロナウイルスと言えどもたかがウイルスです。わたしたちに何かを教えようというような親切心は持っているわけではないでしょう。この不条理極まりない見えない敵に遭遇して、何に気づき何を学ぶのかは、わたしたち自身の感性次第であり、人間の本質の問題でしょう。幸いにも、経済至上主義や生産効率万能主義について、これまでの流れを考え直す動きも出てきましたが、まだまだ世の主流というほどにはなっていません。
部分的なシンギュラリティ―は既に起りつつあるのでしょうが、まだまだ未来学のレベルを超えてはいません。まして、人工知能に人類が支配されて滅亡に向かうなどというSFは次元の違う想像の域のレベルかも知れません。しかし、それが人工知能であれ生身の人間であれ、ひとりの独裁者に支配される国や世界の恐ろしさについて、大国と言われる国々で現に今起っている出来事を見せつけられると、シンギュラリティ―にならなくても人類が滅びの方向へ進みかねないと心配させられます。
人間とは、ホモ・サピエンスの本質とは何であるか、サルの時代から受け継いできた闘争心や征服欲などもまだまだ、わたしたちは抱え込んで手放していませんが、一方で、サルからヒトへ進化する過程で身に付けた、家族や友人、郷土の仲間たちへの惻隠の情、未来を予測する想像力と、その予測に基づいて生活を改善しようとする創造力などがあります。今こそ、立ち止まり、来し方を振り返り、それによって行く先を見据えるよすがにするべきではないでしょうか。
シンギュラリティ―が実現する世の中を、少なくともわたしは迎えたくありません。そのためにはわたしたちが何を思い出し、何を大切にしながら生きて行かなくてはならないか、じっくりと考えていこうと思うこの頃です。
「逆動物園」の戒め
もうずいぶん昔のことですが、ブラジルが今よりずっと物騒だった頃(といっても今だって大都市を中心にまだまだ物騒なことは当時とかわりませんが)、人々が柵を巡らせた家や高層アパートに住むようになっていました。玄関とは別に車の出入り口は2重扉になっていて、車の通行の隙に誰かが侵入するということがないようになっています。何百、何千ヘクタールという大農場でも、居住区だけは高いフェンスで囲み、同じく2重の自動門扉で守られていると暮らしぶりでした。
友人のアパート(日本ではどういうわけかマンションと呼んでいますが)を訪問するとなると大変です。まず、門のところでモニター越しにガードマンと話をします。ガードマンはアパートの住人に確認を取り、訪問者の周りに不審者がいないことを確認して、門扉のカギを開けます。次にアパートの玄関であらかじめ聞いていた番号で部屋の住人に電話をかけ、自動ドアを開けてもらいます。各室の玄関もドアに4つくらいカギがついているのは当たり前で、覗き穴やモニター越しに誰が来たか、周りに不審者がいないかを確認してからドアが開きます。そのあとはお決まりの大袈裟な歓迎の挨拶、抱擁、頬への接吻の交換などとなるのですが。
分譲住宅団地でも少し高級なところになると、団地全体を高い塀で囲み、出入り口を同じように固めたうえで、24時間団地内をガードマンが車で巡回パトロールしています。わたしはその社会を「逆動物園」と皮肉交じりに評していたものです。動物園でトラかライオンが逃げ出し、檻の外をうろついているとしたら、わたしたちはどうするでしょう。空いている檻の中に逃げ込んで、しっかりと鍵をかけ大人しくしていることでしょう。猛獣が闊歩しているまちでは、わたしたちの方が檻の中で生活するしかなくなるのです。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起きて、わたしはそのことを思い出しました。いつどこで誰から移されるかわからないという恐怖心が、わたしたちを大人しく自粛という檻の生活をさせています。わたしたちに移すかもしれない感染者は見ただけでは分かりません。でもその数は正確にはカウントできないにしても、わたしたち健常者よりずっと少ないはずです。感染のメカニズムもまだ正確には不明です。不幸にして感染してしまった人をトラやライオンのように恐れ、まるで感染したことが罪悪であるかの如く、寄ってたかって非難するというのも、実は本当のトラやライオンがどこかに潜んでいるという恐怖心のなせる業なのかもしれません。檻に閉じ込められて暮らさざるを得ないわたしたちのストレスが苛立ちに変わり、それが引き鉄となって逆に攻撃的になるという事もあるでしょう。ただ、絶対に間違ってはいけないのは戦う相手は新型コロナウイルスという目に見えない猛獣であって、その感染者という目に見えるわたしたちの仲間ではないということです。
わたしはブラジルでも最も物騒だと言われていたリオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ海岸に3年暮らしました。色々と危険な目にも会いました。それでもリオ・デ・ジャネイロの住民の方たちを弁護するなら、無法者たちの数は人口に比して圧倒的に少ないのです。そのごく少数の無法者が町に放たれているばかりに、住民たちの方が前述のような檻に入る生活を強いられているわけです。
同じように、わたしたちは今、コロナという目に見えない猛獣を相手にすることになりました。東京で急激に感染者が増え始め、いよいよ第2波が来るのではないかとか、そもそも第1波は終わっていなかったのではないかとか言われています。こんな時、わたしたちは自分たちの恐怖心の捌け口を、他者を攻撃することに求めてしまうかもしれません。もちろん、トラやライオンがうようよいるような街に出歩くことは命知らずの行為ということになるでしょう。ましてそのトラやライオンは自分たちの姿を決して見せないばかりか、わたしたちの体の中に潜んで、次なるターゲットを狙っているのですから厄介です。
わたしたちが檻の中に暮らすのではなく、トラやライオンが檻の中に入るようにならなければ、わたしたちの安心できる暮らしは望むべくもありません。しかし、それは予防薬や治療法が確立するという事であり、言うは易く実現するにはまだまだ時間のかかることでしょう。ウイルス感染症としては最も有名な天然痘でさえ、1796年にエドワード・ジェンナーによって種痘というワクチン接種による予防法が開発され、1958年にWHOが「世界天然痘根絶」を決議してから、実際にその天然痘根絶の戦いに勝利したとWHOが発表できたのは1980年だったのです。細菌性の感染症であるペストに至ってはいまだに確実な予防法は実は「逆動物園」しかないというのが実情です。2004年から2015年までの12年間で、ペストは世界中で約5万7千人に感染し、4651人を死に至らしめています。リオ・デ・ジャネイロの治安の悪さの原因が貧困や階層差別であることが分かっているのに、その社会不安を取り除くための予防法も治療法もないままに、何十年たっても人々は「逆動物園」の暮らしに甘んじているのと同じです。
しかも今回の新型コロナウイルス感染症にしても2009年の新型インフルエンザにしても、ウイルスが突然変異して全く新しい病原体として、突然人間を襲うようになるのです。これから時代、わたしたちはその見えない新しいトラやライオンがわたしたちを獲物として常に狙っていることに、怯えながら生きていくしかないのかも知れません。
自宅自粛やソーシャルディスタンスはつまるところ「逆動物園」状態という事ですが、それがずっと続くようではわたしたちは生きてはいけません。檻から出て暮らすためには、まず冷静に周囲に気を配り、見えないトラやライオンが襲って来ないかどうか確認しながら行動しなくてはなりません。人との物理的な距離を保ちながらも、心と心の距離が離れることのないようにしなくてはなりません。さらに言えば、もしかしたら自分の体の中にもう、トラやライオンが隠れているかも知れない、それを人に移してはいけないという注意を常に払うことも大切でしょう。
今回の新型コロナウイルス感染症はワクチンや治療薬の開発によって、いずれ姿を消すでしょうが、また新しい感染症が襲ってくることも覚悟しておかなくてはなりません。そのたびにわたしたちが誰かを攻撃し「魔女狩り」をしていては、わたしたちの人間社会は取り返しがつかないほど破壊されてしまいます。その恐怖から少しでも解放されるためにも、わたしたちは人間本来の特性、つまり共同体を形成して、その中で暮らしていくという事を忘れてはならないのです。何度も言いますがコロナに負けない社会とは、人間同士の心のつながりの強固な社会だと、わたしは常に考えています。
10.パンデミックでわたしたちの未来はどう変わるか-2
コロナやインフルエンザだけでなく、ウイルスはわたしたち人類にとって最も恐れるべきものだと言われています。ウイルスは人類に限らず全ての生物種そのものの生殺与奪の権をにぎっているとも言われ、神にすらなぞらえている科学者もいるくらいです。ウイルスがどれだけの脅威かということを、新型コロナウイルス感染症が改めて思いださせてくれただけのことかも知れません。
わたしたちの社会は今、大きな転換期を迎えています。そのことは新型コロナウイルス感染症の発生前から言われていたことですが、パンデミックによってその転換期がより早く、よりドラスティックになるかも知れません。これまでも世界的な転換期は、大航海時代や産業革命など何度もありましたが、これまでの歴史の中のそれは常に世界のグローバル化が引き金になっていたような気がします。シルクロードをラクダでテクテク歩いて交易していた時代から大航海時代に移った時などが、その典型だったのではないでしょうか。しかし、いかに大航海時代といえども動いていたのは一部の冒険商人たちと、商品価値の高い交易品(その中には現代にまで悲しい影響を引き摺っている黒人奴隷もいましたが)だけでした。
21世紀のグローバル社会ではヒト・モノだけでなくマネーと情報そのものが地球を駆け巡るようになりました。ヒトといっても商人や船乗り、軍人だけでなく観光客という大集団がつい半年前までは駆け巡っていましたし、日本の田舎の観光地でさえ「インバウンド」なる観光客需要に期待して、地方経済までが回っていました。
特に中国というヒトとトリとブタの距離が近く、親和度の高い生活感覚の持ち主たちが人口に見合うだけの観光客を世界中に送り出すようになって、人類がパンデミックにさらされる危険性は大幅に増していると言えます。トリとはニワトリのことですが、インフルエンザはもともとシベリア辺りの水鳥が持っているウイルスであり、渡りで南下してニワトリに感染させてしまうと、それが鳥インフルエンザとして養鶏に大打撃を与えてしまいます。そのニワトリとブタが同じ場所で放し飼いになっていたりして、トリからブタにウイルスが居場所を移すと、ブタの体内でウイルスが増殖したり、突然変異を起こしたりして人間にも感染する怖いウイルスになる可能性が高いのです。中国も生活環境そのものは経済成長とともに大きく変わってきましたが、生活する感覚そのものが変わるまでにはまだまだ時が必要でしょう。グローバル世界、あるいはインバウンド経済などという動きには、そんな陰の部分もあることを、わたしたちはコロナウイルスに改めて教えられたのかも知れません。
これまでの世界的な人口増加と科学技術の進歩、市場を駆け巡るマネーと情報の氾濫の中、沸騰する社会の中で見えなくなっていた、あるいは見なくても済んで来た多くの課題や未来への付けのようなものが、コロナという鞭を振るわれたことで、はっと気が付いて見えてきた、あるいは見ようとし始めているのかも知れません。
ではコロナで早まるかもしれない転換期の次にどんな世界が待っているのか。いえ、どんな世界をわたしたちは現出していかなくてはならないのかと考え込んでしまいます。確かにこれまでの経済至上主義、金融マーケット至上主義、生産性至上主義というパラダイムから、命と心を尊重し、家庭と地域社会の健全性を追求する方向性は見えてきたような気がします。正しくGDP(国民総生産)からGDH(国民総幸福度)へと、社会生活の指標が変わりつつあるのかもしれません。
そこでいくつかのキーワードを挙げて、ひとつずつ考えてみることにしました。そのキーワードは、まだまだ日本語になじんでいません。知ったかぶりの誹りを覚悟のうえで、あえてこれまで見えなかった問題点として「シンギュラリティー」「モノプソニー」「コモンズの悲劇」の3つ、これからの世界を変えていくためのヒントとして「グリーン・リカバリー」、先ずはこの4つのキーワードを考えてみようと思います。その4つのキーワードについて、少しだけ、わたしの知っているところをお話ししましょう。
シンギュラリティ―(Singularity)とは辞書的には「技術的特異点」と訳されています。未来学者が提唱してきた概念です。言ってしまえば人工知能が人知を超える、その境目のことです。AI(人工知能)が自分自身を改良し、高度化した結果、人工知能の生み出す技術や知能が、人類のためではなく人工知能自身のための新しい文明を生み出してしまうかもしれな境目になることを、多くの科学者が心配しています。第4次産業革命の進展と共に、それが現実化していることを、わたしたちも少し感じ始めているかもしれません。
モノプソニー(Monopsony)とは「買い手独占」と訳される経済学の専門用語だそうです。買い手が市場を実質的に支配している市場構造を意味しています。売り手が市場を独占している場合、その独占企業は買い手が購入する時の価格の決定権を持つことができます。それと同じように、買い手側が商品やサービスの唯一の買い手となった場合、売り手が売ろうとする価格を買い手側が決定する力を持っているかも知れないという事です。これだけ聞けば、消費者にとって有利な感じがして問題を感じないかも知れません。
しかし労働市場では売り手とは労働力の提供側であり、買い手とは雇用する企業側という事になります。モノプソニーの労働市場では企業側が一方的に労賃の決定権を握るという事であり、それは労働者にとって労働生産性、つまり働いて稼ぐ給料が過小評価され、働く環境や福利厚生が尊重されないという事に結びついてしまう事になります。
コモンズの悲劇(The Tragedy of the Commons)は直訳すると「共有地の悲劇」という事です。社会学の専門用語として知られていますが、実は1960年代に最初に提唱したのはギャレット・ハーディンという米国の生物学者でした。
例えば村のみんなが好きなだけ家畜を放牧できる放牧場(コモンズ)があるとします。放牧場の牧草の生産力に見合うだけの家畜が放牧されているのなら問題は起こらないかもしれませんが、村人は自分の収入を増やそうとてんでに放牧する家畜を増やし、いずれは牧場の収容可能数を超えてしまいます。そうなると家畜は成長しませんから、期待していた収入は得られません。そこで気が付けばいいのですが、村人は利益を確保しようとさらに家畜を放牧してしまいます。その結果、放牧場は回復不可能なほどのダメージを受け、村は貧困化し崩壊に進んでしまうというのです。
では、放牧場を村人の数で分割して、それぞれの私有地にしてしまえば大丈夫かというとそうではありませんした。1970年代から国連機関がアフリカで行った一大プロジェクトでは、かえってアフリカの牧草地帯は疲弊してしまい、農民たちは流民化するしかありませんでした。さらに、アルゼンチンやウルグアイのパンパ(放牧地として使ってきた草原地帯)が砂漠化してしまったという事はわたしたちに改めて「コモンズの悲劇」の根の深さを警告しているのかも知れません。
グリーンリカバリー(Green Recovery)は、直訳すれば「緑の回復」という概念です。本年4月にドイツがCOP26の議長国・英国とともに主要国の閣僚級を招いてweb会議で開催した「ペータースベルク気候対話」での中心的論議となったことが知られています。新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延によって大きなダメージを受けた世界中の経済と社会を復興させるため「脱炭素と生態系と生物多様性を保全によって、災害や感染症に強靱な社会・経済を実現」して行こうという考え方がグリーンリカバリーであり、それはパリ協定のコンセプトであるSDGs(持続可能な開発目標)の考え方の延長上にあるとも言えます。
皆さんも一緒にこれらの言葉の意味するところを考えてみましょう。