歴史の中の詩、詩の中の歴史

 わたしたちは今に生き、過去に学び、未来に希望をつないでいる。詩人もまた、その日常の中であるいは心象風景を写実し、あるいは情念を懐深く醸し上げて詩にしている。その意味で我々の詩は我々の生きている時代の中から抜け出すことはできない。

 また、詩人がいかに懐古的であれ、または未来志向型であれ、現に生きている時代に影響されずに済むということはない。その意味で我々の書き、発表する詩はその時代そのものを包含していることになる。

記憶せよ、十二月八日

記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史改まる

アングロサクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは我等ジャパン、

眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治めしたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

東亜を東亜にかへせというのみ。

彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を砕かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

老若男女、みな兵なり。

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

世界の歴史を両断する。

十二月八日を記憶せよ。

 この詩を書いた詩人はまた十二月八日の日記に日米開戦を知らせる「宣戦の詔勅」を聞いて受けた感動を『聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終わると、みな目がさめたようにして急に歩き始めた。…頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。…ハワイ真珠湾攻撃の戦火が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、息をはずませたアナウンサーの声によって響き渡ると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した』 「十二月八日の記」と書いた。

 詩も日記も高村光太郎のものである。1941年12月の真珠湾攻撃とその直後の宣戦布告の報に接して書かれたものである。彼は翌1942年5月に「大政翼賛会」によって設立された「日本文学報国会」の「詩部会」の会長となり、太平洋戦争中、戦意高揚のための詩を驚くほど精力的に多数発表し続けた。もちろん、戦意を鼓舞する詩を発表したのは彼一人ではない。詩部会の副会長西城八十、理事佐藤春夫はもとより、北原白秋、草野新平、三好達治、室生犀星をはじめ、おおよそ我々が知る近代詩の先達たちの殆ど全員が、名を連ね、温度差こそあれ大政翼賛会の意図に沿った詩を発表している。さらには、大政翼賛会宣伝部が1942年に発行した「詩歌翼賛運動」第二輯には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」さえ掲載されているが、宮沢は1933年に死去しているから、もちろん賢治のあずかり知らぬものである。

 高村光太郎は戦後、岩手県花巻市郊外に粗末な小屋を建てて、そこで自らを流謫の刑に処したと言われている。しかしながら、彼は1945年8月15日時点の思いを詩にしている。その詩は国と共に家も地位も名誉も失った人とは思えないほど意気軒昂で、正しく日本文学報国会詩部会会長の面目を保っている。

一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

鳥屋崎神社社務所の畳に両手をつきて

天井はるかに流れ来る

玉音の低きとどろきに五体をうたる

五体わななきてとどめあえず

玉音ひびき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく

宸局に向かってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのづから強からんとす

真と美と至らざるなき我らが未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

 同じく8月19日に旧い詩仲間で、同い年の友人水野葉舟に宛てた葉書にも「八月十日ひるの花巻町空襲で宮沢氏邸全焼。小生又々罹災。目下小生だけ元中学校長宅に避難、絶景一望の一室に起居してゐますが、そのうち太田村という山寄の地方に丸太小屋を建てるつもり。追追そこに日本最高文化の部落を建設します。十年計画でやります。昭和の鷹ヶ峯という抱負です。戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。」としたためている。

 ところが翌年の1946年になると、心境は大きく変わる。同年に発表された「報告」という作品群はのちに「暗愚小伝」と改名されているが、その中に先立たれた最愛の亡妻智恵子への「 炉辺 報告(智恵子に)」という一篇がある。

炉辺

              報告(智恵子に)

日本はすっかり変わりました。

あなたの身ぶるいする程いやがっていた

あの傍若無人のがさつな階級が

とにかく存在しないことになりました。

すっかり変わったといっても

それは他力による変革で、

(日本の再教育と人はいひます)

内からの爆発であなたのやうに、

あんないきいきした新しい世界を

命にかけてしんから望んだ

さういふ自力で得たのでないことが

あなたの前では恥しい。

あなたこそまことの自由を求めました。

求められない鉄の囲の中にゐて

あなたがあんなに求めたものは、

結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、

あなたの頭をこはしました

あなたの苦しみを今こそ思ふ。

日本の形は変りましたが、

あの苦しみを持たないわれわれの変革を

あなたに報告するにはつらいことです。

また、同じ「暗愚小伝」の中にある「山林」では

  山林

… 前略 …

おのれの暗愚をいやというほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても感受しよう。

… 後略 …

と書いた。彼の建てた丸太小屋が、日本最高文化の部落の中心から、自らを幽閉する独房へと変貌した時期であったといえるだろう。

 高村は同年に次のような詩も書いている。

わが詩を読みて人死に就けり

爆弾はわたしの内の前後左右に落ちた。

電線に女の太腿がぶらさがった。

死はいつでもそこにあった。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になって私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷に書き送った

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。                      

                                     不定稿

 彼はそれから7年間独居自炊の生活を送り、既に罹患を自覚していた病を重篤化させた。1952年に有名な十和田湖畔の「乙女の像」を製作するために東京に移ったものの、1956年、亡き妻智恵子と同じ肺結核で亡くなっている。7年間の寒村での逼塞を考えれば、緩慢なる自裁であったと言えるかもしれない。

 高村のように慚愧の念から自らを罰したといえる詩人は少ない。大半が口を拭って知らぬ顔を決め込み、出版社も全集などの編者も、戦争中の文学報国会に発表された作品を、消しゴムで消すように無かったものにしてしまった。もちろん、昭和30年代にはそれを批判する動きもあるにはあったのだが、結局、詩人だけでなく「汚れていないものが果たして、その頃の日本の文学者の中にいるのか」ということになり、そんな論議はいつのまにか、霞の彼方に消えてしまったらしい。

 わたしも高村を責めようというのではない。もちろん、高村と同時代の詩人たちに対しても糾弾しようとは思わない。むしろ、哀しみの目で彼らの肩を抱いて「辛かったなぁ」と声をかけたい。そのつもりで当時の詩人たちの作品に接している。70年以上もたった今日、戦争を知らぬ我々に当時の詩人を責めることなどできるはずもないのだから。

 思えば近代詩発祥の時から、日本は常に戦争の時代にあった。明治大正を経て、第二次世界大戦、そして敗戦から戦後復興期を経て今日に至るまで。戦争では幾十万、幾百万の老若男女の命が失われている。その命を失った人々,死者の声も詩のモチーフになりえたはずでる。

 しかし、我々が今目に触れることのできる詩からは、死者やその人間を死に至らしめた加害者の声は聞こえてこない。それはそれでその時代時代に、詩人たちが自らが確かに生きた証として詩を書き、且つ発表してきたものだという証左であろう。日清・日露、第一次大戦、軍部の暴走によって始まった昭和初年の大陸侵略、詩人たちは皆、その中に生きていたのだということを、今更ながら思う。

 わたしはあの戦争の時代を憎む。当時の政治家や軍人の戦争責任を糾弾し、厚顔無恥にも戦後口を拭って生きた彼らを憎む。だが、そこに生き、詩を書き続けた詩人たちを、戦意高揚の詩を書いたからと言って憎むことはできない。詩の中にある歴史を恨み、その時代に生まれた詩を、憐れみと共に弔うのみである。

 歴史とは所詮過去の事実の積み重ねであり、その事実を選択し、積み重ねてきたのは我々である。歴史観というものも、事実を評価する時代の世相によって変わる。歴史も決して真実ではない。歴史は人間によって形作られ、人間によって振り返られ語られるものでしかないのだ。であればこそ、歴史は、我々にとっての生きた歴史は、詩によってこそ語られるべきであると、わたしは確信している。

 人間は弱い。まして我々日本人の大多数は、自分の生きているコミュニティーから村八分になることを恐れつつ生きてきた。それでも、現代の日本に生きるわたしたちは、純粋に自己責任において、自己の良心に従って、自由に詩を書くことを許されている。

 その幸運をしみじみと味わいながら、高村光太郎の孤独に想いを馳せ、同時に、この国の未来に対する漠然とした危惧と、微かな憤りを感じる日々である。

                                   心象221号

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詩集「八月の青い空」熱い氷河期

熱い氷河期

地球に熱い雪が降る

熱い紙幣の雪が降り注ぐ

都市を埋め尽くし

平野を埋め尽くし

山々を覆い隠して降り積もる

魔女狩りだ 魔女狩りだと

悪魔は叫び声をあげながら

なおも

紙幣の雪を降らせる

都市を埋め尽くし

平野を埋め尽くし

その都市にも平野にも

山々にも海にさえも

悪魔は自分の呪われた名前を刻む

人々は

空から舞い降りてくる

紙幣の雪に浮かれ舞い踊る

人々は足を取られ

身動きを奪われ

それでもうれしそうに

笑いながら紙幣に埋もれて

息も出来なくなっていく

やがて札束の氷河が流れ出し

都市に押し寄せ

家を押しつぶし

地球を紙幣で覆いつくすだろう

次の間氷期

溶け出した札束の氷塊の中

化石となった人々が

それでも笑い顔のまま出土するのだろうか

                        2020年1月 心象222号

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MINAMATA

実子ちゃん

ハッとするほど美しく生きている

18歳の女性

誰かに恋心を感じることはないだろう

実子ちゃん

実子ちゃん

愛らしくて美しい人の

有意義な人生が

産業発展の廃棄物によって奪われる

わたしはこれまで多くの写真を撮ってきたが

この世に生きる人間で

実子ちゃんほど

私の心をかき乱した人はいない

実子ちゃんを撮ろうとするのは

あなたの素早く変わる心模様に触れることだ

私は大きな間違いをしているのではと

おそれを感じる

私には分かる

私が実子ちゃんを撮った写真は

全部失敗作だと

実子ちゃん

私は君を愛している

実子ちゃん

愛してる

 この文章は詩ではない。写真家ウイリアム・ユージン・スミスの独白を日本語に直したものだ。独白は彼の妻であり、写真家としての相棒でもあるアイリーン・スミスが録音した。NHK教育テレビの特別番組「ユージン・スミスMINAMATA」の一シーンだった。彼はこの録音の後、号泣したそうだ。

 W・ユージン・スミス(William Eugene Smith)は1918年12月30日に米国カンザス州に生まれたアメリカの写真家である。第二次世界大戦中はサイパン、硫黄島などで従軍写真家として活動している。1945年5月、沖縄戦で日本軍の砲弾の爆風により重傷を負い、生涯その後遺症に悩まされることになったという。1977年に脳溢血で倒れ、一時期回復したが翌年の10月に新たな発作を起こして死去した。59歳だった。

1960年から日本で写真家として活動を始め、1971年からは1974年に帰国するまで、水俣に住んで水俣病をテーマとして写真を撮り続けた。彼は取材の際に患者やその家族と強い紐帯ともいえる信頼関係を築くことを大切にしたそうだ。「実子ちゃん」は水俣病患者であり、彼女のポートレイトを千枚以上も撮りながら、ユージンは結局一枚しか公にしていない。

1972年1月、千葉県市原市にあるチッソ子会社の五井工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。その時、ユージンも脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った。しかし彼はこの事件について「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と、かえってそれまでの自分の葛藤や苦悩を吐露している。

 詩人でもない報道写真家の話を唐突に始めたのには訳がある。ユージン・スミスは彼の遺作となった写真集「MINAMATA」の中で、次のように書いている。

ーー写真はせいぜい小さな声にすぎない。しかし、ときたま、ほんのときたま1枚の写真が我々の意識を呼び覚ますことができる。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。私は写真を信じている。写真は時としてものを言うのだ。それが私、そしてアイリーンが水俣で写真をとる理由であるーー

 わたしはこの文章の「一枚の写真」を「一篇の詩」に置き換えてみた。水俣病の社会的な、そして文明論としての不条理を、水俣の生活者の目で撮り続け、それを世界に発信し、そして水俣のためにその命を縮めた写真家の心構えと感受性に、わたしはわたしたち詩人と同じ琴線を感じるのである。

 自分がとった「実子ちゃん」の膨大な写真の中から、ユージン自身が一枚だけ選んだ写真が、写真集「MINAMATA」に載っている。その写真をここに掲載するわけにはいかないが、図書館に行けば日本語版の「みなまた」を見ることができるはずだ。そこにある、少し振り向き加減に何かを見つめる「実子ちゃん」のポートレイトからは、なんと物言わぬ、いや「言えぬ」そして「癒えぬ」彼女の万感の思いが伝わってくるのだ。

 水俣でのユージン・スミスは誰とでもおしゃべりをし、酒を酌み交わし、明るい人柄だったそうである。しかし、彼がレンズを通して被写体を見、現像した膨大な彼の作品群の重みを想う時、写真家としてではなく、ひとりの詩人として、そしてなによりひとりの人間としての、彼の覚悟を「実子ちゃん」のポートレイトに感じてしまう。

 写真と詩は、ジャンルとしては全く違うのかもしれない。しかし、わたしは自分の浅薄さや無能さ、そして根気のなさは棚に上げて、ユージンの詩心に嫉妬している。

 水俣の海は今、何事もなかったように静かに照り輝いている。1960年代から70年代にかけて、どれだけ多くのジャーナリストがこの海を訪れ、公害の恐ろしさ、有機水銀の害の凄まじさ、企業論理の無情さを世界にアッピールしたことだろう。そして、意外なことに多くの詩人もあの時、水俣の人々に隣人として寄り添っていた。

 その中には「苦海浄土 わが水俣病」で有名な石牟礼道子さんもいた。彼女は同作品で第1回大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされたが辞退している。そのことにも、ユージンの流した涙に通じる荘厳さを、わたしは感じている。

 詩人であろうとなかろうと、わたしたちは人間としての営みの中におり、時として不条理や社会悪を目の当たりにする。その時に、詩人として何を表し、何を残そうとするのかが、詩を書く者の永遠のテーマのような気がしている。

 パイレーツ・オブ・カリビアンで有名なジョニー・デップがプロデュース、監督、主演して現在撮影中の「MINAMATA」という実話映画が、今年、完成し封切になる予定だそうだ。

                                   心象222号

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詩集「八月の青い空」 小さな村(Ⅱ)

小さな村(Ⅱ)

まだ暗いうちから

春告げ鳥が

春が来た春が来たと騒がしい

しらじら明けの広い谷を見下ろすと

教会の広場の

黄色い花を満開に咲かせた

大きな木が闇に浮き上がって見えている

村で一番早起きのパン屋の煙突から

煙が上がると

それを合図に男たちが

乳缶を括り付けた馬にまたがって

それぞれの牧場に急ぐ

牧場の水飲み場には

乳を張らした牝牛たちがひしめき

男たちは腰に縛り付けてある

一本足の椅子を頼りに

牝牛の乳をまさぐり絞る

教会の鐘が鳴り響くころには

どの家からも

淹れたてのカフェーの香りが立ち始めるが

男たちは乳缶を広場に置いたあとも

家には向かわない

パン屋の店先で

甘い甘いカフェーを啜りながら

朝のひと時のおしゃべりにふける

 「昨日

  うちで生まれた牛は

  親に似ず茶色だったぜ

  お前のところの牡牛が浮気したんだぜ」

 「お前の娘

  ずいぶんと別嬪になったじゃないか

  もう嫁にやってもいいなあ」

話はいつも他愛無い

広場に牛乳会社のトラックが来て

運転者が乳缶を積み込みながら

空の乳缶を下す

やがて

愛想笑いもないまま

走り去ってしまったトラックを見送って

誰かの連れ合いが

朝飯が出来たと呼ぶ声がして

男たちは肩をすぼめ

また

いつものように手を振って

家に帰っていく

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表現の自由と不自由(Ⅱ)

表現の自由と不自由(Ⅱ)

 香港で若者たちが自由を求めて戦っている。中でも日本語を流ちょうに話すため、我々にも親しみ深い周庭さんは1996年生まれの24歳だ。小学6年生の頃から日本のポップカルチャーとアニメを愛好し、日本語を独学で習得したそうだ。香港名はアグネスで、同名の香港出身の歌手がいるが、彼女と同じ名前で呼ばれることを潔しとしていないとも言われている。本人はオタクだそうだ。日本の若者たちと同じ「サブカル」が大好きな普通の青年であり、彼女のSNSでの日本語による発信も、別に政治やイデオロギーに染まっているとは思えない、正に典型的な女子大生である。

 その周庭さんが今、彼女の表現してきたことを、これからも表現できる自由を保障するよう求めたことによって、中国政府の弾圧に怯え、生命の危険さえ感じている。それでも彼女は若い仲間たちと共に、香港の自由を求める声を上げ続けているのだが。

1949年の中華人民共和国の建国以降、同国の国内では経済政策の失敗や内乱、迫害が相次ぎ、1950年代の大躍進政策の失敗による餓死者数千万人、1960年代から1970年代にかけての文化大革命でも、武力衝突や迫害などでの数千万人の死者が出たと言われている。その惨禍から逃れるため1955年から1980年代にかけて約100万人の中国人が、当時イギリス領だった香港に逃げ込み、その人々を香港では「逃港者」と呼んでいた。現在、香港で民主化運動をやっている若者たちは、その逃港者の子孫ということになる。その歴史を思う時、香港の民主化運動は、数千万人、もしかすると一億人にも達していたかもしれない累々たる犠牲者への、レクイエムではないかと感じるのはわたしひとりだけだろうか。

 先年亡くなったノーベル文学賞作家・詩人の劉暁波氏もまた、反体制派の政治運動家ではなかった。彼の詩集「牢屋の鼠」を読んでも、ノーベル賞受賞の際に寄せられ、代読された「私には敵はいない」というメッセージにしても、反政府、反体制運動家という印象は湧いてこない。それでも劉氏は彼が表現し続けた「文学作品」が原因となって、獄につながれ死期を早めることになった。

 逆の希望的変化として、テニスの大阪なおみが、警官によって命を奪われた黒人の犠牲者の名前をマスクに書いて試合を勝ち抜き優勝したことがある。少なくともスポーツ界では何かが変わろうとしている。昔々、メキシコオリンピックの時優勝した黒人選手が片手を握って高く挙げるポーズをとったことで、メダルも、その後の出場権も剥奪されている。その時代からすると、少なくともスポーツ界でのプロテストに対する姿勢は変わりつつあるのだろう。

 表現することに少なくとも政治的な弾圧を受けることを心配しなくて済む国に住まう我々は、表現することのリスクに対する感受性は乏しい。しかし、実はネット社会の到来とともに、政治的ではない社会的な危険性が生じ、増大し始めている。

 危険という言葉を英語に訳すとdangerとriskである。デインジャーは単に「安心できない状態」を表す言葉でしかないが、リスクという言葉は、日常生活に対して何らかの影響を与える可能性がある不確実な要素という意味があり、高い低いなどと、その要素を定量的に表現することが出来る。ビジネスの世界でいう「リスク・マネージメント」では、リスクは必ず「マイナス」影響を与える不確実な要素ということになっており、不確実と言いながら確実にマイナスとなる度合いとしているようだ。

 では「不条理」という言葉はどうだろうか。辞書によると「道理に反すること。筋道が通らないこと」であり、「人生に意義を見出す望みがない状態、絶望的な状況・限界状況」を指す言葉でもある。「物事の道理に従って、人間が行うべき正しい状況」ではないということであり、不条理が支配する世界では、リスクでさえ定量的に評価することなどできなくなる。100年間と限って統治していた英国から中国に返還されたとたん、それまでの100年間、東洋の真珠とまで言われた香港が、あっという間に不条理の支配する地となってしまい、そこでは自由に声を上げることさえ命を奪われかねないリスクを覚悟しなくてはならなくなっている。

 新型コロナウイルス・パンデミックが、世界を震撼させているが、人類はこれまでも何度もパンデミックを経験してきたし、そのたびに「不条理」の状況を経験し乗り越えてきた。十字軍遠征時代のペスト、大航海時代の新大陸で起こった天然痘の流行、第一次世界大戦中の新型インフルエンザ(スペイン風邪)があり、今世紀に入ってからは、中国の経済成長と中国を核としたグローバリズムによって引き起こされたSAARZとCOPID19という新型コロナパンデミックが、世界をパンデミックという不条理に陥れてしまった。そして、その中で香港の「逃港者」の子孫である若者たちが、不条理な状況の中で何か物言い、表現することさえ生命そのもののリスクを覚悟しなければならなくなっているのだ。

 ネットによる無責任な情報炎上によって、いわれのない中傷にあった若い女子プロレスラーの死を思うと、また、SNS上で安易に「リツイート」や「いいね」を押してしまった行為に、損害賠償請求の訴訟を掛けられる事案が多発していることを思うと、日本でも別の意味で表現することのリスクが高まっているのではないかと心配になるが、それでも少なくとも政治的に抹殺されるという実感はまだない。

 ところが最近、小中高校の教科書から石川啄木が抹殺されようとしている事実を知った。反戦詩を書く人々にいわれのない中傷情報を浴びせる輩も現れているという。香港の周庭さんのおかれている不条理を対岸の火事と放置しておくと、我々が詩として表現することさえも、いつの間にかリスクまみれにならないとも限らないと、わたしは危惧している。

                                  心象224号

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表現の自由と不自由(Ⅰ)

表現の自由と不自由

 コロナ騒ぎで忘れていたが、愛知県知事と名古屋市長の間で訴訟にまで至っている争いがある。昨年愛知県で開かれた「表現の不自由展・その後」をめぐる争いでが、その顛末は色々と考えさせられる。同展は「情の時代」をテーマに昨年まで開催された「あいちトリエンナーレ2019」の100以上ある企画展の一つだった。開催三日で中止に追い込まれ、その後、メディアやネットの批判を浴びたことで、トリエンナーレ閉幕間際に再開されている。

 2012年に中止に追い込まれた「従軍慰安婦」をテーマにした安世鴻の写真展があった。その後それが形を変えて開催されてきた「表現の不自由展」の続篇として、件の企画展は計画されたそうだ。

 この企画展のテーマは「慰安婦問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設でタブーとされがちなテーマの作品が、当時いかにして排除されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示する」というものであった。

 美術批評家の黒瀬陽平はこの企画展の開催前に「公立美術館では、ほとんど前例がない美術展だが、全てを表現の自由でくくるのは危険な面もある。規制された作品を集めただけでは、スキャンダリズムと変わらない。公金を投じた事業である以上、市民の疑問やクレームに答える義務が発生する。作者や主催者が美術としての論理や価値をしっかり示すことができるのであれば、成功したと言えるだろう」と危惧していたが、まさにそれが的中したことになる。

 では、わたしたちは「表現の不自由」そのものに対して、どんな感受性を持っているのだろうか。少なくとも自分の書く詩の作品がある日突然、社会からの非難の的になったり、さらには権力によって弾圧を受けたりすることを想像することはあるだろうか。

 「だから自分は政治には関わらない」「だから自分は社会的な作品は好きではない」と思っている詩人も多いことは容易に想像がつく。しかし、確信犯的に反権力、反政府の立場からの作品を発表する者の方がむしろ、それなりの理論武装やネットワークによるシンパシーの確保など、自己を守る手立てはしているだろう。

 「自分は政治にも反権力勢力にも何の関りも持っていない。発表する詩も社会的な普遍性があるものではない。だから、自分は権力からも一部のネットクレーマーたちからも目を付けられることはない」と、わたしを含めて多くの詩人はそう思っている。だが、本当にそれで安心していていいのだろうか。

 シンギュラリティという言葉が語られるようになった。人工知能が人知を超えることを言う言葉であり、そのターニングポイントが2045年だとする学者もいる。正しく手塚治虫の「火の鳥」に登場するスーパーコンピュウターに支配されている時代、そのコンピュウターが変調をきたして、世界を破滅に導くということが現実になりつつあるのかもしれない。

 そんな時詩人の「素朴な感受性に基づく直観力」こそが武器になりうる。しかし、権力者の方がいち早く、その「素朴な感受性に基づく」こそ自分たちを脅かすものだと判断するかもしれない。「裸の王様」は素直に自分が裸だったことを認めたけれど、現実の権力者たちは、声を挙げた子どもの存在を抹殺しかねないということを、詩を書く者もまた、肝に銘じておくべきと、わたしは考えている。

                                   心象223号

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詩集「八月の青い空」小さな村(Ⅰ)

小さな村(Ⅰ)

村じゅうに

ツバメの巣がいくつあったか知っていた

三軒向こうの友人のうちでネコが子を産んだら

すぐにその知らせが来た

もちろん

すぐに生まれた仔猫に会いに行ったもんだ

村中の住人の顔は全部知っていた

よそ者は我が家だけだが

誰もそんなことはおかまいなしだった

朝日が裏山から登ると

わたしは家を出て仕事場に向かう

海に沈む夕日を浴びながら

また自分の家に戻る

もちろんたまには途中で一杯やるさ

仕事場に向かう道すがら

隠居した爺さんの家の前を通る

爺さんは小手をかざして朝の挨拶を交わす

帰りに爺さんの家の前を通ると

爺さんはやっぱり小手をかざして挨拶を交わす

ちがうのは爺さんの座っている椅子の位置

陽が移った分だけ日陰に移ったのだ

家ではまず犬たちが迎えてくれ

子どもたちが迎えてくれる

連れ合いはエプロンで手を拭きながら

少し遅れて出てくる

そうやって一日が過ぎ

そうやってわたしの楽しい日々が過ぎていった

あの時の隠居爺さんの歳を少しばかり超えた今

わたしの小さな村は

遥かな時を超えていってしまった

心象223号(2020.7.1)より

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5.ジュラシックパーク博物館「福井県立恐竜博物館・勝山市」

 福井市での一泊は、旅の疲れが出たのか、それとも福井の美味い肴の誘惑にも負けず「黒龍」と言う地酒1合だけで我慢したせいかぐっすりと眠れました。本当は長年訪ねたくて仕方のなかった恐竜博物館に行けることがうれしくて、遠足の前夜の小学生のように眠れないんではないかと思っていたのですが。

福井駅前でわたしたちを迎えてくれる恐竜たちは6600万年前、この地を闊歩していました。

 JRの福井駅前の広場に恐竜がいることは有名です。今から向かう勝山市で新種の恐竜の非常に状態の良い化石が3種類も発見されたのですが、それを記念して恐竜博物館が建設されました。3種の恐竜たちも復元されて北陸新幹線の新駅建設中の福井駅前で、大きな体を動かしたり、時々は叫び声を上げたりしています。松平忠直卿の縁で大分市と関係の深い福井市ですから、わたしも何度もこの地を訪れていますが、さすがに30キロ以上も離れたところにある恐竜博物館はこれまで行っていませんでした。駅前のこちらは何度も訪れるたびに見慣れた恐竜たちに見送られながら出発です。

 ゆっくり走っても40分ほどで着きました。夏休み中ですから子どもたちを含めて大変な混雑です。しかし、中に入ってその展示物の豊富さ、レベルの高さ、リアルさに周りの喧騒など気にならなくなりました。この博物館を含む一帯は恐竜公園となっていて、その一角から化石が大量に、それもとても良い状態で発見されたというわけです。我らがフクイラプトル、フクイサウルス、フクイチタンの3種の恐竜たちもここで発見されています。

フクイサウルスの全身骨格
フクイラプトルの復元図

    東尋坊は約1,200 ~ 1,300万年前の新生代第三紀の火山活動によって形成された景観でしたが、こちらの恐竜たちはさらにぐっと遡って中世代の白亜紀、つまり1億4千5百万年前から6千6百万年前にここで暮らしていたのです。ところで大ヒットしたジュラシックパークという映画では、チラノザウルスやブロントザウルスといったおなじみの恐竜たちが登場していましたが、実はジュラ紀は2億年前から白亜紀の始まるまでの時期で、わたしたちになじみのある恐竜たちはまだ登場していなかったんです。そのジュラ紀の恐竜の化石も福井で発見されておりフクイベナトールと名付けられています。フクイベナトールは体長2.5メートルほど、体重も25キロくらいの比較的小型の恐竜だったようです。白亜紀に生息していた恐竜たちはそれに比べて随分と大きく、それぞれ体重数百キロから数トンもありました。

    わたしはどうせ日本列島なんて地球の皺の上の儚い大地でしかないと卑下してきたんですが、そうではなかったことがつい最近になってわかり始めたというわけです。福井県だけでなく北海道のむかわ町でも昨年になって、7千万年前に生息していた草食恐竜の全身の化石が発見されてムカワリュウ(学名はカムイサウルス)と名付けられています。白亜紀の日本列島はローラシア大陸の東の海岸地帯にあたっていたそうです。当時の日本列島の位置していた場所は、恐竜たちの繁栄に適した温暖で湿潤な環境だったことが分かっています。数千万年という気の遠くなるような時を隔てているとはいえ、このわたしたちの暮らす大地を恐竜たちが闊歩していた思うだけでロマンを感じ楽しくなります。

中生代の恐竜の中ではわたしの一番好きなのがこのトリケラトプスです。子どもたちはやはり地らのザウルスが好きなようですが。あまりにリアルだし、チラノは大きいので小さな子どもたちは怖がっていました。ここの復元モデルは本物のように迫力ある動きをします。

    ところがその6千6百万年前、ジュラ紀と新生代の境目に地球ではとんでもない悲劇が起こっています。突然、地球上にいたすべての生物種の約7割、現存していた生物たちの98%までが絶滅したとされています。もちろん恐竜たちは全て死に絶え、ヘビやトカゲ、カメといった小型の爬虫類だけが細々と現代に生き残ってきました。その悲劇の原因は諸説あったのですが、今では直径約10〜15キロメートルの小惑星が地球に衝突したからというのが最も有力な説になっています。メキシコのユカタン半島で発見されたチクシュルーブ・クレーターと呼ばれる場所がその隕石の落下の跡だそうです。小惑星の衝突とその衝撃波によって引き起こされた地球全体を嘗め尽くした爆発的な火災、さらに衝突の衝撃で巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで気温を低下させ、地球規模の急激な気候変動を引き起こし、それが大量絶滅につながったというのです。

トリケラトプスの化石(

    夏のひと時、子どもたちの歓声とともににこやかに見学している多くの家族連れの姿を見ながら、この化石達が遭遇した6千6百万年前の地獄絵図を想像して、わたしは不覚にも寒気を感じてしまいました。

トリケラトプスと言えば現代ならばサイでしょうか。大きな角はありますが、どちらも草食です。
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想い出の歴史紀行ー4

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想い出の歴史紀行(一乗谷から会津若松まで)-3

3.哀しみのヒーローたち「長岡市」

 8月15日は戦争について深く考える日です。旅日記を少し先にめくって長岡市で、河井継之助と山本五十六というふたりの哀しみのヒーローたちのことを考えます。

河井継之助

コロナ禍の中でも、今年も8月15日がやってきました。そこで、わたしの旅日記を少し端折って、先に長岡市に向かうことにします。

 長岡市は「米百俵の精神」で有名ですが、二度も戦火の焼け野原になった不幸な歴史を持つまちでもあります。焼け野原の原因を作ったのはふたりの悲劇のヒーローです。ひとりは越後長岡藩の家老職河井敬之助であり、彼が開戦を決意して引き起こした北越戦争の前半戦の戦場が長岡城下だったため、市街は焼き払われてしまったのです。もうひとりは山本五十六、彼の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争の末期、1945年8月1日にテニアン島から飛来した爆撃機(B29)125機によって千トン近くの焼夷弾攻撃を受け、市街地の約8割を焼失しています。

 河井継之助については司馬遼太郎の「峠」 が有名ですが、それ以外にもたくさんの評伝 や小説が出ています。それほどに有名な人で あり、明治維新の際に徳川家への忠義に殉じ るために武士の意地を通して散った「ラスト サムライ」のモデルとなったほど人気が高い 人でもあります。

山本五十六(昭和17年頃)

 山本五十六は誰もが知っている真珠湾攻 撃の立案者であり、連合艦隊司令長官だった 人です。旧長岡藩士の家に生まれ、大人にな ってから旧藩主の命によって旧家老職の山本 家を再興して山本姓となっています。河井も 生まれは中堅どころの武士の家だったのが、 藩主に用いられて家老職になっていますから ふたりにはそんな共通点もあるようです。

 河井は戊辰戦争という内戦を、山本は太平 洋戦争という世界戦争の開戦を決意し、ヒーローとして名を残すものの、故郷を(山本の 場合は祖国を)焦土にし、本人たちも戦いの中に死んでいます。  ふたりには多くの縁があります。河井は長岡藩士の中では中くらいの家格の出でありな がら、その才能を藩主にかわれて家老職にまで上り詰めています。その河井を支援したのが家老職山本帯刀という人でした。維新後、その山本家を再興するためにそれまで高野姓だった五十六が山本姓を名乗るようになっています。

  山本が日独伊三国同盟にも日米開戦にも強く反対していたことは有名です。実は河井も京都政権と奥羽諸藩との仲介役を買って出て、戦わずにことを収めようとしたと言われています。ふたりとも戦う事にはむしろ反対だったし、戦いを避けるための努力をしていたことになります。それでも河井は武士であり、山本も武士の流れをくむ軍人でした。河井にとっては藩、山本にとっては国ということにはなりますが、いずれにせよ戦うことを命じられれば戦わざるを得ない立場であったと同時に、正義とか恩義とか言うものに殉じて武人としての名を残すという謂わば武士の美学の様なものに突き動かされ、最終的には「窮鼠猫を噛む」あるいは「蟷螂の斧」的な絶望的な抵抗の戦争を決意するに至っています。わたしは河井も山本も好きだし、その先見の明を尊敬もしています。しかしながら、結局は何をどう言いつくろっても、無謀な戦争を開始し多くの無辜の民を塗炭の苦しみに陥れた挙句に、死に追いやり故郷を灰燼に帰させてしまった罪のそしりは免れません。

  現在長岡市には河井継之助記念館、山本五十六記念館があります。双方の記念館はどちらも 長岡市が開設したもので、それぞれの主人公の生家跡地に建てられているとはいえ、その間は200メートルほどしか離れていません。余所者はわたしに限らず、観光資源として考えるなら、ふたつの記念館を一つにした方が来館者は増えるのではないかと考えるところですが、そこには一緒にして欲しくないという長岡市民の深い情念があることが、今回の訪問で少しだけわかった気がしています。  実は長岡市民の河井継之助に対する思いと、山本五 十六に対する思いが大きく違っているのです。河井は 地元での人気は毀誉褒貶相半ばするという感じで、あ の司馬遼太郎さんでさえ、「峠」の執筆のために現地 を取材訪れた際、長岡の人々の心の襞に触れ戸惑った という事を、どこかで書いておられます。北越戦争中 に領内で起った一揆を鎮圧し、多くの領民を処罰して ることも不人気の一因でしょうが、やはり何といって も住む家や商売のための店を焼き払われた城下の人々 のその後の塗炭の苦しみを考えれば頷ける気もします。

 一方、山本五十六の方は戦争史の専門家などでは個 人的な魅力は別として、純粋に軍人として、あるいは 海軍次官も経験している山本の政治家としての最終決断について、やはり評価の分かれるところなのですが、長岡では山本の人気は非常に高いと言えます。河井が武士の意地で潰した故郷に「米百俵の精神」でできた学校に学び、そこから巣立って連合艦隊司令長官にまでなった山本五十六はやはり郷土の英雄なのでしょうか。

 真珠湾攻撃は山本の「短期決戦で講話に持ち込む」という思惑とは全く別の結果を生みました。日本側は日露戦争の連合艦隊の大勝利と真珠湾攻撃の一応の成功を重ね合わせて、国民の主戦論を沸騰させ、米国では「この恨み晴らすさでおくものか」と言う報復論が世論を突き動かし、対日戦争に踏み切らせただけでなく、日本人や日系人移民に対する差別や排撃、さらには強制収用にまで突き進めてしまいました。その後の日本の敗戦までの戦いの経過はわたしたちの知るところですが。山本自身が自戒のために執務室に掲げていた「百戦百勝不如一忍(百回戦って百回勝っても耐え忍ぶことには及ばない)」という言葉は、河井継之助が残した書の「一忍可以支百勇 一静可以制百動(一忍以って百勇を支うべく 一静以って百動を制すべし)」とともに、戦争が体験から歴史へと変貌していく今こそ、もう一度かみしめる必要があると、わたしは考えています。  ではこれから福井まで戻って、1千万年単位の地質時代にタイムトラベルし、その後、合掌造りの里や熱水隧道の舞台となった峡谷をめぐってから、もう一度長岡に戻って、ふたりについてゆっくりと考えてみたいと思います。

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