井手口良一創作童話集「おとうさんおかあさんおはなしよんで」第1集まえがき・あとがき

 わたしの初めての童話集を出してもらった時の、まえがきとあとがきです。わたしが童話を書き始めたきっかけを判ってもらえると思います。もう、この本からも16年以上が経ちました。これからも書き続けるつもりです。今は長編の「ネブリナ山の不思議の城」を書いています。

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井手口良一創作童話集「おとうさんおかあさんおはなしよんで」第2集より

ゴンべは強い

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詩集「八月の青い空」或る予感

或る予感

 空はどこまでも青く晴れ渡っている
 校庭一杯に黄色い花の絨毯が広がっている
 が 
 校舎に子らの声はない
 風さえも静まりかえって音を消している

 鋼鉄の肌を青黒く光らせながら
 蒲公英の黄色い絨緞の真ん中に
 彫塑像のように戦車が鎮座している

 「軍国主義者は小学校を狙う」

 蒲公英たちは
 ケラケラと笑いながら
 代わるがわる
 興味津々の
 綿毛を飛ばして
 戦車に群がるが
 戦車はただ沈黙している

 綿毛は鋼鉄の肌を滑り落ち
 子らの歓声のように
 無限軌道に降りつもる

 突如として始業の鐘が鳴り
 戦車は砲塔を回した
 校舎の塔に掛かる時計に照準を定めたまま
 また沈黙した

 「軍隊はいつか必ず 自国民に銃口を向ける」

 子らの声よ戻るな
 そのまま戦車が沈黙しつづけて
 時が過ぎ
 無限軌道(キャタピラー)が立体花壇になり
 鋼鉄の塊が黄色い花たちに埋もれて
 青黒い肌が茜色になるまで
 校舎に子らの声は戻るな

 それまではただ
 蒲公英たちが
 興味津々の綿毛を
 飛ばし続けていてくれればいい
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平和の詩2020 沖縄全戦没者追悼式

あなたがあの時

                   高良朱香音(沖縄県立首里高等学校3年)

「懐中電灯を消してください」

一つ、また一つ光が消えていく

真っ黒になったその場所は

まだ昼間だというのに

あまりにも暗い

少し湿った空気を感じながら

私はあの時を想像する

あなたがまだ一人では歩けなかったあの時

あなたの兄は人を殺すことを習った

あなたの姉は学校へ行けなくなった

あなたが走れるようになったあの時

あなたが駆け回るはずだった野原は

真っ赤っか 友だちなんて誰もいない

あなたが青春を奪われたあの時

あなたはもうボロボロ

家族をいない 食べ物もない

ただ真っ暗なこの壕の中で

あなたが見た光は、幻となって消えた

「はい、ではつけていいですよ」

一つ、また一つ光が増えていく

照らされたその場所は

もう真っ暗ではないというのに

あまりにも暗い

体中にじんわりとかく汗を感じながら

私はあの時を想像する

あなたが声を上げて泣かなかったあの時

あなたの母はあなたを殺さずに済んだ

あなたは生き延びた

あなたが少女に白旗を持たせたあの時

彼女は真っすぐに旗を掲げた

少女は助かった

ありがとう

あなたがあの時

あの人を助けてくれたおかげで

私は今 ここにいる

あなたがあの時

前に見続けてくれたおかげで

この島は今 ここにある

あなたがあの時

勇気を振り絞って語ってくれたおかげで

私たちは知った

永遠に解かれることのない

戦争の呪いを

決して失われてはいけない

平和の尊さを

ありがとう

「頭 気を付けてね」

外に光が私を包む

真っ暗闇のあの中で

あなたが見つめた希望の光

私は消さない 消させない

梅雨晴れの午後の光を感じながら

私は平和な世界を想像する

あなたがあの時

私を見つめた真っすぐな視線

未来に向けた穏やかな横顔を

私は忘れない

平和を求める仲間として

(原文のまま、沖縄平和祈念資料館)

 今年もまた6月23日が来た。不謹慎のそしりを受けるかもしれないが、わたしは毎年この日が来るのを楽しみにしている。75年前のこの日、太平洋戦争の最終盤、沖縄本島での組織的な戦闘が終結した。沖縄県ではこの日を全県民挙げて「慰霊の日」と定めている。わたしがこの日を楽しみにしているのは、この日、小・中・高校生の代表によって「平和の詩」が朗読されるからである。今年は新型コロナウイルス感染症の影響で、もしかしたら朗読はないかもしれないと案じていたが、縮小された慰霊祭ではあったが例年通り「平和の詩」の朗読を聞くことが出来たのだ。

 沖縄県平和祈念資料館主催の31回目となる「児童・生徒の平和メッセージコンテスト・詩部門」が今年も募集され、高校生の部で最優秀賞を受賞した沖縄県立朱里高校3年の高良朱香音さんが、この冒頭の詩を読んでくれた。毎年、感心させられることだが、彼女もまたいつもよりは少なかった参列者の顔を見回しながら、一度も原稿に目を落とすことなく、一度も噛むこともなく読み上げた。そして、それをネット中継で聞いていた、加齢と

ともに涙腺の緩んできたわたしの心を十分に揺さぶり泣かせてくれた。

彼女の物語性のある詩には何人もの「あなた」が登場する。戦争によってそれまでそこにあった日常を奪われた「あなた」、紙一重のところで命を全うできた「あなた」、その視野の中に映っていた命を全うできなかった大勢の人々を代弁するために語り部となった「あなた」、それぞれのあなたに丁寧に「ありがとう」と感謝の言葉を捧げ、最後に未来に向かってともに平和な世界を築こうとする「あなた」が登場することで、彼女自身の平和な世界を築こうとする決意を表明した。

沖縄の梅雨晴れの空は明るい、その明るい空の下で75年前、20万余の戦没者ひとり一人にあった生活があり、凄惨な地獄絵が繰り広げられた。75年後の今、その沖縄の歴史を踏みにじるように、市街地の上空を爆音を挙げて米軍機が飛び交い、辺野古の海が埋め立てられている。しかも、実は多くの日本人がその沖縄の悲しみに目をつぶったままである。

世界中のどこかで75年前の沖縄で繰り広げられた地獄絵が、今でも繰り広げられ、生まれたばかりの赤ん坊が死に、多くの子どもたちが何の罪もなく死んでいっている。そのことにも多くの日本人は知らぬ顔を決め込んで生きている。

沖縄の語り部たちの話を聞き、仲間と共に不戦の社会、平和な世界を築こうと決意する若い子どもたちが大勢育っていることを目にし、「沖縄慰霊の日」の度に安堵している自分がいることを、聊かのうしろめたさと共に感じている。

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市政報告

 9月議会の報告です。既に多くの方にはお届けしておりますが、ブログ上でも報告いたしたいと思います。本当はもっと読みやすい紙面にしたいのですが、工夫のアイデアとパソコン操作の技量がまだまだなので、ご不自由掛けますがご海容ください。

                                   井手口良一拝

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詩集「八月の青い空」空蝉

空蝉

ぱっくりと割れた背中のまんま

抜け殻たちが

赤レンガのステーションから

間歇泉のように噴出してくる

アルマーニであろうと

ベルサーチであろうと

ぱっくりと開いた背中の隙間は隠せない

いや、隠す心さえ、消えうせた抜け殻が

煙霧を通して差し込む朝日の中

胎内はとっくに虚と化した巨木が

墓碑のように林立する中

こつこつと足並みをそろえて行進してくる

僕はといえば

慌ててショーウインドウに背中を

映しながら、立ち尽くす

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童話集おとうさんおかあさんお話よんで

パパとママはコロナバスターズ

「ハナちゃん、ごめんなさいね。パパとももう長いことお話できていないのに、ママもおうちに帰れなくて、本当にごめんなさい」

 おばあちゃんのスマホの中のママは、いつもの真っ白な服の上から、青い大きなエプロンをしています。ハナちゃんはママともう何日も会っていません。代わりにおじいちゃんとおばあちゃんがおうちに来てくれていました。スマホの中のママの顔を見て声を聞いたら、いつも泣きそうになります。でも、がまんしています。ハナちゃんが泣いたら、ママは心配になるし、おじいちゃんとおばあちゃんもがっかりするかもしれません。

「ママぁ、頑張ってね。ハナちゃんはお利口にしているよ。大丈夫だよ」

 ハナちゃんは元気そうにそう言いました。ママが安心してお仕事に頑張れるようにと考えたのです。

 でも本当はハナちゃんの毎日はつらいことばかりでした。

「お母さんがね、ハナちゃんと遊んじゃだめだって」

「お前のママはコロナだろう。うつるかもしれないから、そばに来るんじゃない」

「ハナちゃんのパパはいないんだよぉ。どこか遠くの国に行って、帰ってこないんだって」

 保育園の友だちはみんな、ハナちゃんを怖そうに見るだけで、だれも一緒に遊んでくれません。お迎えに来たおばあちゃんの話を聞いたおじいちゃんは

「そんなかわいそうなことがあるか。今から行って文句を言ってやる。ハナの両親は、みんなの命を救うために戦っているというのに、どうしてハナがのけ者にされるんだ」

怒ってそう言いました。

「だめですよ。おじいちゃん、そんなことをしたら、ハナがもっとつらくなります。ハナだってがまんしているんですから、一緒に我慢しましょう」

おばあちゃんはそう言ってくれました。

「ハナ、保育園なんか行くことはない。おじいちゃんとおばあちゃんがいる。おうちで遊んでいればいいんだ」

ハナちゃんが可愛くてしょうがないおじいちゃんは、ハナちゃんのことが心配で、どうしたらいいかわかりませんでした。

 春が来て、ツバメが高く低く飛ぶようになりました。でもやっぱりハナちゃんはひとりぼっちで遊んでいました。

 そんなある日、ひな先生がみんなに紙芝居を読んでくれました。世界中の人々の命を、コロナ魔王から守るために戦っているコロナバスターズのお話です。

「ハナちゃんのパパとママは、みんなの命を守るために戦ってくれているコロナバスターズです。ヒーローなんですよ」

ひな先生はそう言ってくれました。

 そうです。ハナちゃんのパパとママはお医者さんでした。パパは遠くの戦争中の国で、その国のかわいそうな子どもたちをコロナから救うために戦っていました。ママは大きな病院でコロナにかかった人の命を救うために頑張っています。

 二人ともコロナの病気にかかるかもしれないので、何より大切なハナちゃんを守るため、家に帰らないでお仕事をしていたのです。

 友だちはみんな顔を見合わせていました。そして、少し離れたところに座っていたハナちゃんの周りに集まって

「ごめんね、ハナちゃん。ハナちゃんはヒーローの子どもだったんだ」

「また、一緒に遊ぼうね」

 口々にそういって、ハナちゃんの手を取ってくれました。その話を聞いたおばあちゃんは、うれしくて涙を流しましたが、ハナちゃんは泣きませんでした。

 秋になり、ツバメが南の国に帰る支度をはじめました。その日、長い間連絡のなかったパパからハナちゃんに手紙が来ました。

「ながいあいだ、ハナをひとりぼっちにしてごめんね。ようやく、このくにのびょうきがおさまったので、ちかいうちにかえれます。おみやげをたくさんもってかえります」

手紙にはそう書いてありました。ハナちゃんはパパが元気で帰ってきてくれたら、お土産なんかいりません。パパの手紙を、ベッドの横のパパとママの写真の前に置きました。

 うれしいことは次々にやってきます。その日、ハナちゃんはおばあちゃんの車で久しぶりにママの働く病院に行きました。病院の駐車場で車から降りたハナちゃんの背中を、おばあちゃんがやさしく押しました。少し離れたところに、ママが立っていました。ママもやっとお休みをもらえるようになって、ちゃあんと検査をしてコロナにかかっていないことを確認してから、病院の外に出ることができたのです。コロナの担当のお医者さんが新しく来てくれたそうなのです。

 ハナちゃんははじめはゆっくりと歩き始めました。なんだか夢を見ているような気がしたのです。でもすぐに走りだしました。そして、ママの腕に中に飛び込みました。

 言いたいことはいっぱいありました。でも、ハナちゃんは、何も言うことができませんでした。そうです。ハナちゃんは初めて、思いっきり声を上げて泣いたのです。

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エッセー集「佐藤徠さんのこと」

佐藤徠さんのこと()

  大分という土地は詩的には荒蕪の地と言われている。それでもその荒蕪の地にかつて、しっかりと根を下ろしていた大樹があった。佐藤徠というのがその大樹の名前である。わたしはつい最近までそのことを知らなかった。徠さんのご子息佐藤省象さんが刊行された徠さんの短歌集、詩集、散文集についても、その存在を知ってからまだ数年しかたっていない。省象さんたちの詩文集「む」27号・28号(最新号)に徠さんについてのエッセーが連載されているが、詩を書く者のひとりとして、わたしはわたしなりに郷土の大先輩の存在について書き残しておきたい。

 大分県にゆかりの詩歌人として最も有名な柳原白蓮は明治18年(1885年)に東京で生まれている。大分県出身の詩人としては丸山薫が明治32年(1899年)に大分市の荷揚町で生まれているが、生まれたというだけで、中央政府の官僚だった父親の転勤で翌年、長崎に移り、その後一度も大分では暮らしていない。

 滝口武士さんは明治37年(1904年)に国東で生まれ、大分師範で学んでいる。満州で教鞭をとっている時に詩作品を多く発表しているが、大分の地で疾風怒涛の青春期を過ごしている。戦後は郷里に戻り、教鞭をとりながら詩を書き、多くの後進を育てていることは周知のとおりである。

 わたしたちの心象の創立者である首藤三郎さんは大正12年(1923年)に生まれである。ちなみに昭和初年から戦後にかけて大分市の芸術の砦となったキムラヤの画廊が翌大正13年、おなじく喫茶部が14年に開店している。

 佐藤徠さんは明治42年に日出町は大神に生まれる。その年、津軽に津島修治(のちの太宰治)が生まれている。詩人では「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」で有名なまどみちおが同い年である。滝口武士さんは明治37年生まれであるが、この5つの年の差のふたりに親交があったことはないようだ。

 徠さんは戦争で2度出征した時を除いて終生、日出の地に生きた。有島武郎の「生まれ出ずる悩み」に出てくる、画家としての才能に恵まれながら漁夫として生きることを選んだ「君」にはニシンの脂の匂いが染みているが、大分の片田舎の地にあって、文学に目覚めながら農夫として生きた「佐藤徠」という大樹は土の匂いを纏っている。 徠さん自身はその土の匂いを拭い捨てたかったのかも知れないのだが。

 まずは佐藤徠さんの作品である。彼の没後、息子さんたちの発意で昭和60年(1985年)に遺稿集が3冊出ている。歌集「埋れ火」エッセー集「桐の木のある畑」、そして詩集「酒瓶を抱えて眠ろう」である。その中の「皈郷の詩」がわたしは好きである。この作品には書かれた時期は書かれていないが、徠さんは昭和5年1月に応召し、翌年末に除隊し帰郷している。兵役以外に故郷を離れたことのない徠さんだから、帰郷の感慨を詩にするとしたら、この時の心象風景であったろうと勝手に想像している。

「皈郷の詩」

1.H・町風物

古い町に宵の光りが流れ

弛い勾配の坂路を下りてゆけば

ひっそりと店先に古道具が眠り

赤いメリンスの端布が吊り下がってゐる

人はぼそぼそと語り乍ら

陰うつな闇を逃れてゆく

濁った川の向ふに灯がともり

菜の花の匂いが麻薬のように流れてくる

古ぼけた田舎の町に

遠く夜霧がかかったとても

もう幌馬車は皈っては来ない

あゝ お濠の石がけふも一つ落ちた

どこかに鳳仙花の実がはぢけるやうな

かすかな情緒が漂ふて

遠く遠く追憶の夢に

うら悲しくも眠ってゐる町

(1とナンバーを振ってあるが1しか掲載されていない)

 農業の現場の悲哀はとにかく「照って心配、降って心配、吹いて心配、何もなければ、こんなはずはない今に何か起こると心配」することである。徠さんの悲しみはさらに深かった。人には二つのタイプがある。例えば生まれ育った家から山が見えるとすると、その山の四季の移ろいを見る事に満足するタイプと、その山の向こうには何があるのかと想像を膨らますタイプである。佐藤徠さんは後者であった。後者でありながら山を越えて、その向こうの広い地平線を見ることは許されなかった。彼の悲しみは芸術的には荒蕪の地に縛り付けられたところにある。

 徠さんは小学校の時、一二を争うほど成績が良かった。が、卒業後、中学へは進まず高等小学校2年を経て、14歳で家業の農業に就いた。佐藤徠さんは当時の農村部においては最も常識的な親によって、農家の惣領として都会的な匂いのするものは勿論、中・高等教育を受けることさえ許してもらえなかった。江戸期を通じて出来上がった農村部の生活信条からすれば、都会的なものは全て平穏な日常を突き崩す害敵であるとして排除される。その都会的なものの中には当然ながら高等教育も入っていたのだ。

  当時の専業農家の長男に生まれれば、学校の成績がどうであれ、また家に経済力があるかどうかに関わらず、進学させてもらえないことが多かった。親が公務員や会社員など、あるいは教員や商人であれば、成績さえ良ければ進学したであろうが、専業農家の子弟に学問はいらないというのが、当時の親の愛情であった。

  そう、愛情なのである。明治維新とともに、日本の社会環境はそれまでのゆるやかなものから、ヒステリックとさえ言えるような情報と競争心の氾濫に襲われた。しかし、それは少なくとも昭和初年頃までは都会の話、都会の給料取りの生活環境の話でしかなく、日本の大部分を占めていた田舎の、それも農家にはその氾濫はまだまだ押し寄せてきてはいなかった。当時の、そこそこに豊かな農家の主にとって、生物的な、あるいは本能的な危険回避感覚から、そのような氾濫に自分を投ずる勇気は持ち合わせていなかったし、まして自分の子ら、特に跡取りである長男には自分さえ恐れる文明なるものには近づけたくないと思っていた。そのことの是非について、現代に生きる我々に論じることはできない。今日のヒステリックな受験競争や過重労働を強いられた挙句のうつ病や自死というニュースに触れれば、あながち徠さんのご両親の判断を誹ることはできない。

 作られた時期の分かる作品として、次に昭和7年(1932年)の「満州に行く兵士を送る」を読んで欲しい。ご自身も経験のある戦場に向かう同郷の後輩を送る詩である。

満州に行く兵士を送る

しんしんと音もなく霜のふる

あかつきは深くして山の端に月はかへった

大空に星は凍てつき

木立の影は黒く大きく物を云はない

広場の隅にもえ揚がる焚火の焔は

とり囲む人の面を瞬間闇に明滅させ

火の粉は高く夜空へとびちる

満州の守備につくわれわれは最大の努力を払ふ覚悟です

もえ揚がった焚火のあかりにS の顔が紅くうつろう

荒涼たる平原

冬枯れの黍畑

匪賊の跋扈

そこへ防寒衣に身を固め

祖国のために 同胞のために

銃剣をとって警備に当たる自分の姿を想像する時

われらの責まことに重大といはなければなりません

Sの言葉に嘘はない

感激の高潮に人はいつはりを吐くものではない

焚火は落ちた 明星はやがて明けゆく空にしばたき

猥摯の壺からどろどろと

疲れた憂鬱の縄をはへてゆくから

埃のたまった机の上を撫でまわすのもやめて

僕は椿の落ちるのを数へよう

彼の悲しみはもう一つあった。彼の疾風怒涛の青春期に、この文字芸術の荒蕪の地大分県で、唯一芸術の光を点していた「キムラヤ」からさえ遠く離れた場所に住んでいたことである。「キムラヤ」は当時の大分にとってムーラン・ルージュであり梁山泊でもあった。昭和初年から営業を始め、戦争で焼け野原になっていた大分市中心地に戦後早いうちから店を開けていた「キムラヤ」は、造形芸術家、音楽芸術家だけでなく、詩人を含めた多くの文字芸術家のたまり場でもあったそうだ。 そこで日常的に繰り広げられた悲喜こもごもの出会いは、大分市内に暮らすか、当時の交通機関に乗って1時間かせいぜい2時間で往復できる青年たちの特権であったろう。「キムラヤ」は戦前から戦後の復興期にかけて、大分の文化人のサロンであった。高度成長期に入ってからは、ネオ・ダダの芸術家集団や多くの画家たち詩歌人たちがここから、或いは郷土の先駆者として後進のために道を拓き、或いは広く世界に羽ばたいていった。昭和26年生まれのわたしには想像することしかできないが、確かにそこは漆黒の宵闇に燦然と浮かんでいたムーランルージュであったろう。長谷目源太さんも戦後の「キムラヤ」の雰囲気を良く知っていて、折に触れ話してくれる。

 徠さんは忙しい農作業の合間を見計らい、両親の厳しい眼差しを掻いくぐって、自宅から日出駅まで6キロの道を歩き、そこから列車で約1時間かけて大分に出て「キムラヤ」の空気を吸いに出かけていたという。家に帰りつくのは夜も遅く真っ暗な夜道を辿ってのことだったし、次の日はまた暗いうちから起きて野良仕事に励まなくてはならなかったはずである。

 徠さんのキムラヤ通いは戦前に始まっている。短歌の作品を携えていったそうだが、彼にとって「キムラヤ」のひと時がどんなにきらびやかなものだったか、現代の我々には想像すらできない。

 もう一つ、晩年となる昭和53年(1978年)の詩「母死に給ふ」も読んでほしい。

母死に給ふ

如月の光の中に

髪しろがねの青さにも似て

母死にたまふ

夏たけてすすき揺るる日に

おみなえし沢に供えて

静かなる夜に魂まつりする

燈籠の灯り流れて

いみじくも命を思う

霜月の空すみわたり

ひたすらに物思う日々

吾子人となり

うるわしき乙女と結ばる

いと永き道程を思えば

足跡をかへり見すれば

いづこゆか

熱きもの湧き

一と条の泪流るる

雨降らば家にこもりて

書を読まむ 詩を思はむ

かく在りて何を求めむ

かく在りて何を究めむ

真とは形なき空しきものか

今宵また

ひとりめざめて

かそけくも足音をきく

絶え間なく流るる時の

最後にエッセー集のあとがきにある詩である。病床の大学ノートにあった「交病録」の46番目の話なのであるが、佐藤徠さんはこれを書いて約1月後に逝去されている。未完成の絶筆として、ご家族は敢えて遺稿集から外した上で、あとがきに書き添えている。

日本ーー

地面をきれいにはらって

よこに一本大きな線を引く

その線の上にお餅をのせた様な平べったいまるをかいて、

こんどはその上に、僕が大きな旗をもって立ち

右手を高く上げてばんざーーいをしている。

僕は日本ーーなんだ

(病床の大学ノート「交病録」より)

 徠さんの人生は決して暗くもなく、単調なものでもなかった。むしろ、多くの笑顔に囲まれ、人生の路傍を飾る多くの花々に彩られていた。そして、明治生まれの漢として、天寿を全うしたと言ってもいいだろう。

 歌集「埋れ火」の巻末に、徠さんのご子息佐藤省象氏が書いている。徠さんが・・・若い頃「俺は百姓で終わりたくない」との潜在意識があったが、六十歳を過ぎてようやく「俺は百姓の子に生まれ、百姓として一生を終えることに悔いはない」との境地に辿りついた・・・と。

 大分県は詩の荒蕪の地である。多くの先人がそう言い、わたしもそれを直に聞き、感じてきた。しかし、その荒蕪の地にしっかりと生きて鍬を打ち込んで詩的な人生を送った大樹があったということが、わたしの時として倦む心を高揚してくれている。

                               心象218号

参考文献

「む」二十七号・二十八号(2018年)

詩集「酒瓶を抱えて眠ろう」(1985年)

歌集「埋れ火」 (1985年)

随筆集「桐のある畑」(1985年)

キムラヤ創業50周年記念誌「燃える半世紀」(1976年)

キムラヤ創業70周年記念誌「文化と愛の軌跡」(1995年)

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詩集「八月の青い空」葡萄牙紀行

葡萄牙紀行

最果て(2014年7月ロカ岬)

地が果て海が始まる

その岬に立つ

始まりの海は

わたしを見つけて

しきりにかきくどく

遥かにかすむ水平線のかなたまで広がりながら

海はしきりに泣きさわいでいる

天空の群青色の玻璃すらも

涙で溶かした哀しみを漂わせて

かきくどく

あの水平線のすぐ向うで

世界が終わっていた頃

どれだけの男たちが

奈落に消えたことだろう

わたしは海を

天空を

しっかと抱きながらも

持てあまして

ただ立ちつくす

かきくどかれても困るのだ

わたしはわたしで今

この大きな

あまりにも大きな海と天空のはざまに

立っているだけで精一杯なのだから

青春記(1584年8月リスボン港)

歓声が上がる

急いで甲板に上がる

やがて

静かな川面にその姿を映す

白い貴婦人が見えた

長いベールの裾を水際に浸している

近づけば

その黒き瞳の一つひとつから

大筒が覗いている

この地では砦さえもが

かくも美しいのか

あれはなんだろう

背景に白い山塊が見える

雪山か

それほどに大きな建物

それが神の御教えを学ぶための学舎

二年半の生死をかけた旅を続けて

辿りついた泰西の地の証

ああ

この朱き甍の重なり

丘の上におわすは

デウスの御城であろうか

なんと多くの船の連なりであろうか

一隻あれば一国を制すほどの船が

ここでは数えることさえ出来ぬほど連なっている

しっかりせよマンショ

胸を張れ

このデウスの御膝にあることを感謝して

このデウスのたなごころに身を委ねて

ああ

この風のなんと香しいことか

ああ

この光の何と神々しいことか

これから何があろうと

誰に引合されようと

わたしは

わたしたちは

遥けき東の太陽の生まれる国からの使いである

遥愁(再び2014年7月アルファーマ)

黄昏のけだるさをポケットに入れて

佇むわたしの脇をすり抜けて

小さなアルメイダが

遊び仲間と歓声を上げながら

駆けて行った

その後を追いかけるようにして

すり減った石畳の上を

女たちのため息が流れていく

午後八時を過ぎても

コンキンスタドール達が残していった

ターキッシュ・ブルーの空は健在である

アーチをくぐったその先には

薄闇がそこここに

うずくまっているというのに

上を見上げれば

取り付く島もないほど

きっぱりと晴れ渡った空が

細く細く切り刻まれながら

存在感を主張している

少年期のアルメイダが駆け上がった

丘の上の大聖堂が

諸手を広げて

わたしを迎えてくれた

見おろせば

幾多のアルメイダ達の住む町の

パーシモン色の甍が

沈んだばかりの太陽を恋しがって

泣いている

                             心象200号

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歴史の中の詩、詩の中の歴史

 わたしたちは今に生き、過去に学び、未来に希望をつないでいる。詩人もまた、その日常の中であるいは心象風景を写実し、あるいは情念を懐深く醸し上げて詩にしている。その意味で我々の詩は我々の生きている時代の中から抜け出すことはできない。

 また、詩人がいかに懐古的であれ、または未来志向型であれ、現に生きている時代に影響されずに済むということはない。その意味で我々の書き、発表する詩はその時代そのものを包含していることになる。

記憶せよ、十二月八日

記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史改まる

アングロサクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは我等ジャパン、

眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治めしたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

東亜を東亜にかへせというのみ。

彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を砕かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

老若男女、みな兵なり。

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

世界の歴史を両断する。

十二月八日を記憶せよ。

 この詩を書いた詩人はまた十二月八日の日記に日米開戦を知らせる「宣戦の詔勅」を聞いて受けた感動を『聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終わると、みな目がさめたようにして急に歩き始めた。…頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。…ハワイ真珠湾攻撃の戦火が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、息をはずませたアナウンサーの声によって響き渡ると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した』 「十二月八日の記」と書いた。

 詩も日記も高村光太郎のものである。1941年12月の真珠湾攻撃とその直後の宣戦布告の報に接して書かれたものである。彼は翌1942年5月に「大政翼賛会」によって設立された「日本文学報国会」の「詩部会」の会長となり、太平洋戦争中、戦意高揚のための詩を驚くほど精力的に多数発表し続けた。もちろん、戦意を鼓舞する詩を発表したのは彼一人ではない。詩部会の副会長西城八十、理事佐藤春夫はもとより、北原白秋、草野新平、三好達治、室生犀星をはじめ、おおよそ我々が知る近代詩の先達たちの殆ど全員が、名を連ね、温度差こそあれ大政翼賛会の意図に沿った詩を発表している。さらには、大政翼賛会宣伝部が1942年に発行した「詩歌翼賛運動」第二輯には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」さえ掲載されているが、宮沢は1933年に死去しているから、もちろん賢治のあずかり知らぬものである。

 高村光太郎は戦後、岩手県花巻市郊外に粗末な小屋を建てて、そこで自らを流謫の刑に処したと言われている。しかしながら、彼は1945年8月15日時点の思いを詩にしている。その詩は国と共に家も地位も名誉も失った人とは思えないほど意気軒昂で、正しく日本文学報国会詩部会会長の面目を保っている。

一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

鳥屋崎神社社務所の畳に両手をつきて

天井はるかに流れ来る

玉音の低きとどろきに五体をうたる

五体わななきてとどめあえず

玉音ひびき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく

宸局に向かってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのづから強からんとす

真と美と至らざるなき我らが未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

 同じく8月19日に旧い詩仲間で、同い年の友人水野葉舟に宛てた葉書にも「八月十日ひるの花巻町空襲で宮沢氏邸全焼。小生又々罹災。目下小生だけ元中学校長宅に避難、絶景一望の一室に起居してゐますが、そのうち太田村という山寄の地方に丸太小屋を建てるつもり。追追そこに日本最高文化の部落を建設します。十年計画でやります。昭和の鷹ヶ峯という抱負です。戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。」としたためている。

 ところが翌年の1946年になると、心境は大きく変わる。同年に発表された「報告」という作品群はのちに「暗愚小伝」と改名されているが、その中に先立たれた最愛の亡妻智恵子への「 炉辺 報告(智恵子に)」という一篇がある。

炉辺

              報告(智恵子に)

日本はすっかり変わりました。

あなたの身ぶるいする程いやがっていた

あの傍若無人のがさつな階級が

とにかく存在しないことになりました。

すっかり変わったといっても

それは他力による変革で、

(日本の再教育と人はいひます)

内からの爆発であなたのやうに、

あんないきいきした新しい世界を

命にかけてしんから望んだ

さういふ自力で得たのでないことが

あなたの前では恥しい。

あなたこそまことの自由を求めました。

求められない鉄の囲の中にゐて

あなたがあんなに求めたものは、

結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、

あなたの頭をこはしました

あなたの苦しみを今こそ思ふ。

日本の形は変りましたが、

あの苦しみを持たないわれわれの変革を

あなたに報告するにはつらいことです。

また、同じ「暗愚小伝」の中にある「山林」では

  山林

… 前略 …

おのれの暗愚をいやというほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても感受しよう。

… 後略 …

と書いた。彼の建てた丸太小屋が、日本最高文化の部落の中心から、自らを幽閉する独房へと変貌した時期であったといえるだろう。

 高村は同年に次のような詩も書いている。

わが詩を読みて人死に就けり

爆弾はわたしの内の前後左右に落ちた。

電線に女の太腿がぶらさがった。

死はいつでもそこにあった。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になって私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷に書き送った

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。                      

                                     不定稿

 彼はそれから7年間独居自炊の生活を送り、既に罹患を自覚していた病を重篤化させた。1952年に有名な十和田湖畔の「乙女の像」を製作するために東京に移ったものの、1956年、亡き妻智恵子と同じ肺結核で亡くなっている。7年間の寒村での逼塞を考えれば、緩慢なる自裁であったと言えるかもしれない。

 高村のように慚愧の念から自らを罰したといえる詩人は少ない。大半が口を拭って知らぬ顔を決め込み、出版社も全集などの編者も、戦争中の文学報国会に発表された作品を、消しゴムで消すように無かったものにしてしまった。もちろん、昭和30年代にはそれを批判する動きもあるにはあったのだが、結局、詩人だけでなく「汚れていないものが果たして、その頃の日本の文学者の中にいるのか」ということになり、そんな論議はいつのまにか、霞の彼方に消えてしまったらしい。

 わたしも高村を責めようというのではない。もちろん、高村と同時代の詩人たちに対しても糾弾しようとは思わない。むしろ、哀しみの目で彼らの肩を抱いて「辛かったなぁ」と声をかけたい。そのつもりで当時の詩人たちの作品に接している。70年以上もたった今日、戦争を知らぬ我々に当時の詩人を責めることなどできるはずもないのだから。

 思えば近代詩発祥の時から、日本は常に戦争の時代にあった。明治大正を経て、第二次世界大戦、そして敗戦から戦後復興期を経て今日に至るまで。戦争では幾十万、幾百万の老若男女の命が失われている。その命を失った人々,死者の声も詩のモチーフになりえたはずでる。

 しかし、我々が今目に触れることのできる詩からは、死者やその人間を死に至らしめた加害者の声は聞こえてこない。それはそれでその時代時代に、詩人たちが自らが確かに生きた証として詩を書き、且つ発表してきたものだという証左であろう。日清・日露、第一次大戦、軍部の暴走によって始まった昭和初年の大陸侵略、詩人たちは皆、その中に生きていたのだということを、今更ながら思う。

 わたしはあの戦争の時代を憎む。当時の政治家や軍人の戦争責任を糾弾し、厚顔無恥にも戦後口を拭って生きた彼らを憎む。だが、そこに生き、詩を書き続けた詩人たちを、戦意高揚の詩を書いたからと言って憎むことはできない。詩の中にある歴史を恨み、その時代に生まれた詩を、憐れみと共に弔うのみである。

 歴史とは所詮過去の事実の積み重ねであり、その事実を選択し、積み重ねてきたのは我々である。歴史観というものも、事実を評価する時代の世相によって変わる。歴史も決して真実ではない。歴史は人間によって形作られ、人間によって振り返られ語られるものでしかないのだ。であればこそ、歴史は、我々にとっての生きた歴史は、詩によってこそ語られるべきであると、わたしは確信している。

 人間は弱い。まして我々日本人の大多数は、自分の生きているコミュニティーから村八分になることを恐れつつ生きてきた。それでも、現代の日本に生きるわたしたちは、純粋に自己責任において、自己の良心に従って、自由に詩を書くことを許されている。

 その幸運をしみじみと味わいながら、高村光太郎の孤独に想いを馳せ、同時に、この国の未来に対する漠然とした危惧と、微かな憤りを感じる日々である。

                                   心象221号

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