私的安倍晋三論ー2

私的安倍晋三論(2)

「一地方議員から見た安倍晋三と彼の政治・政策-2」

 安倍晋三と彼の政権が、日本という国に拭いきれないモラルハザードを引き起こしてしまったことは前章で書いたが、では安倍政権は政策の面でどんな影響をこの国に残していったのか考えてみたい。

 まずは総論から始めよう。ただ、初めに断っておかなくてはならないが、全ての安倍政権の失策は独り安倍政権だけの、あるいは日本だけの責任とは言えない。格差社会の到来を産む直接的きっかけを作ったのは、1997年の小泉政権の「働き方改革」ならぬ「働かせ改革」にあったし、金融における量的規制緩和政策は米国のリーマンショック危機によって泥沼化したものである。さらに言えば、政治と政府の無責任体質の固定化は、第2次安倍内閣の下、2014年に「内閣人事局」が創設されてからだとされているが、政治による行政人事支配のための強権浸透圧力の始まりは、民主党政権発足直前の2009年、小沢一郎が脱官僚を掲げて霞が関人事を政治主導する方向に舵を切ったことが節目になっていると言える。

総論

①新自由主義という名のうわべだけの市場原理至上主義と自己責任論

 前々から日本国民は政治家について信用しなくなっていたし、期待もしていなかった。その政治家が霞が関人事を牛耳るようになって、行政もまたモラルハザードを起こし、それとともに機能不全に陥ってしまった。さらにその場しのぎの無責任体質は大企業にも伝染してしまい、長期的な見通しに立った戦略の構築や展開を怠るようになった。結果として日本経済の硬直化と停滞を招き、世界第2位の経済大国として国際社会に存在感を確保していたこの国が、今では先進国(OECD加盟国)中の下位にまで落ちぶれてしまった。その過程で勝ち組負け組と言われる格差社会を現出し、拡大させ、固定化してしまった。

②地方分権改革を崩壊させたこと

 明治維新以降、敗戦を経験してもなお日本は中央集権体制を維持してきた。1990年代から2010年頃まで、中央集権体制に対する疑問から、地方分権改革の必要性が政治課題の一つになっていたのだが、それを安倍政権は全否定してしまった。日本より人口の多い先進国は米国であるが、周知のごとく合衆国であり、地方分権を確立させている。人口8400万人のドイツもまたラントと呼ばれる16の地方自治体によって構成される連邦国家である。英国やフランスは県の相当する単位が基本になっており、日本の地方自治体形を似ている。しかし、日本国の人口は1億3千万人と英仏の2倍近い。しかも、南北に長い列島で構成された国土を考えると、何もかもを中央で決定するということに軋みが出来てきている。だからこそ、地方分権改革が叫ばれたのだ。

 しかし、安倍政権はそれまでの地方分権への流れを方向転換してしまった。国会もまた、安倍に率いていた絶対多数与党である自民党議員は、一票の平等性において違憲状態とされた選挙区の再編成に、自分たちの既得権を重視するばかりで、地方がなぜ人口を減らし、衰亡しているのかという本質論には踏み込もうとはしなかった。

 地方は疲弊する一方であるだけでなく、それによって医療体制などの基本的人権にかかわるハードソフト両面の地域インフラが崩壊してしまった。特に医療体制の崩壊は新型コロナ感染症パンデミックで露見したように、地方にとってはまさに存亡の危機的状態に甘んじることを余儀なくされている。

③政治と行政組織のモラルハザードを引き起こしたこと

 繰り返しになるが、モラルハザードは政治機構、行政機構内部の機能停止を生んでしまっただけではない。政権トップのゆがんだコンプレックスから来るルサンチマンによって、良識や常識をことさらに捻じ曲げ、自分を阿諛追従してくれるお友達の世界に閉じこもり、その中から宣伝コピーのような空虚なスローガンの列挙、連発して、国民を目くらましにかける政治に終始し続けた。

 日本銀行でさえ例外ではなかった。厳格に政治からの独立性を保障されてきたはずの日銀を政治の道具にしてしまい、この国の経済を金融市場至上主義という覚せい剤中毒患者にしてしまった。勤勉さに裏付けされた技術立国、工業立国であったはずの日本を、あっという間にマネーとストック(株式)が経済を席巻する国にしてしまった。結果として、国全体の活力を喪失させ、国際的な影響力を低下させ、国の真の安全保障を脅かし、この国の未来への可能性すら危うくしているのだ。

 これも繰り返しになるが、国民はこれまでも政治家を信用してこなかった。そのことは相次ぐ各級選挙のたびに投票率が大きく低下していることが、もっとも如実に物語っている。

④教育基本法改正案を強行採決で成立させたこと

 安倍晋三のポリシーに戦前回帰の傾向が潜んでいることはよく言われてきたが、それが政策面で実際に表に現れたのが、教育基本法の改正である。この改正によって本来基本法の宛名人(それぞれ法律を守ることを求められている対象。憲法や基本法の場合は国または国権)を国または国権から国民にすり替えてしまった。国の国民対する義務であるものを、国民が国に対して義務を負うという方向に切り替えようとする試みの、この改正が始まりであるといえよう。

 教育の基本精神は世界子どもの権利条約の前文にあるように、あくまで「子どもの健全な成長と未来を保障する」ことにあり、決して「国や産業界に都合の良い国民、労働者を確保する」ためではない。だからこそ、教育基本法の名宛人、つまり誰がこの法を遵守しなくてはならないかは「国」でなくてはならない。それを安倍の教育基本法改正では、改正された部分の全てにおいて、名宛人が国から国民にすり替えられている。それが何を意味し、どんな影響がこれからのわたしたちの身の上に関わってくるのか、すでに多くの専門家が語り始めているが、手遅れにならないうちにわたしたちは目を覚まさなくてはならないだろう。

各論

  • 経済政策

アベノミクスの3本の矢はつまるところ、「期限も出口もない金融緩和」「日銀による国債の無制限な買入れ」「公的年金基金を株式に投入することによる株価の維持」という3本である。彼は実質経済の成長ではなく、バブル経済の再現を目指していたのである。1980年代のバブル経済が異常であっただけでなく、それから今日に至るまでの年月で、我が国の国際競争力は喪失し、産業の空洞化を招いてしまった。彼の特異な目くらまし発言でトリクルダウンなどという言葉を連発したが、その結果として残ったのは、国の莫大な借金、大企業のこれもまた莫大な企業内留保資金、そして国民相互の経済格差である。その結果、この国は世界第2位の経済大国から、先進国の最下位にまで経済力を陥落させ、国民の、特に若い世代の未来への希望をむしり取ってしまった。

  • 国際関係・外交政策

 長期政権を維持するとそれだけで例えばG7などに出ると古参としてプレゼンスを強めることが出来る。誰でも一度も会ったことのない人よりも、一度でも言葉を交わした人に対しての方が心を開きやすい。しかし、それはあくまで顔を覚えられるということであって、相手から畏敬や尊敬の念を得られるかどうかは、また別の問題である。実はここでも、彼のコンプレックを背景とした、組みしやすい相手とのみ組むという国内政治でのやり方が悪い方に働いていたとわたしは考える。

 その一番の例がプーチンとの関係だ。「ウラジミール」「シンゾー」と親密ぶりを誇示しながら、北方領土をまるで馬の鼻先にぶら下げた人参のように使われて、日本の官民の資金をむしり取られ続けた。

 2018年9月10日に行われた日ロ首脳会談は、通算22回目となる安倍首相とプーチン大統領の会談であり、2人だけのテタテ(tête-à-tête)に加え、少人数会合、拡大会合と通常通りの組み合わせで両者の親密な関係を演出しつつ、これまで事務方が積み上げてきた、様々な経済協力プロジェクトの進捗を確認し、新たに5つのプロジェクトのロードマップに合意して、11-12月に日ロ首脳会談を開催することまで約束した。安倍政権の悲願であり、長年の懸案である北方領土問題返還交渉そのものはなんら進展はなく、まず経済協力を拡大して、その実績から領土を巡る交渉に入って平和条約の締結へと繋げるというそれまでの日本政府の方針を大きく変えることは出来なかった。

 安倍首相は2日後日ロの共催で行われた東方経済フォーラムの中の日ロ両首脳の公開討論の場で、プーチンに向かって北方領土を巡る問題が日ロ両国だけでなく極東アジア地域の障害になっていると訴え、「もう一度ここで、たくさんの聴衆を証人として、私たちの意思を確かめ合おうではありませんか。今やらないで、いつやるのか、我々がやらないで、他の誰がやるのか」と問いかけ「一緒に歩んでいきましょう」と提案をした。その時は彼が総裁選に出馬してその党内地固めの最中にいたことを考えると、安倍は外交で成果を上げようという彼一流の大風呂敷にも似た目論見があったと思わざるを得ない。

 プーチンはここでも安倍の足元に付け込んでいる。彼は「今、思いついた」と前置きした上で「あらゆる前提条件をつけず、年末までに平和条約を結ぼう」「争いのある問題はそのあとで、条約をふまえて解決しようじゃないか」と突然の提案を行った。しかも「ジョークではない」とわざわざ断りを入れている。安倍はそれに即妙に反応することが出来なかった。

 この会談で日本は結局、総額3000億円規模という史上最大規模の対ロシア経済協力を約束させられ、なんの信用保証(権益保障)も担保も得られないままに、政治主導の形で日本企業のロシア進出が加速することになり、今日に至っている。

 欧米からの経済制裁に苦しむロシアに対して、積極的に経済協力を先行させて領土問題で譲歩を引き出す環境を整備するのが狙いということであったが、国民の貴重な税金がここでもただむしり取られただけであった。しかもプーチンのウクライナへの侵攻によって、その3000億円のうち、すでにロシアに渡った分は何の見返りもないまま、全て頓挫してしまったことになる。

  • 安全保障政策

安倍晋三の安全保障とは憲法9条の縛りを解くこと、軍備を拡大することに尽きる。

 敵基地に届くミサイルの配備などと声高に言っていたが、それこそ彼の思考の浅薄さを物語る。敵基地に届くミサイルを配備すれば敵はそのミサイルが届かないところから打つことのできるミサイルを持つだけのことである。軍備による国民保護を考えるなら、敵がミサイルを打っても全て撃ち落すことができる防空システムを持つことである。中・長距離弾道ミサイルの配備などは米国の軍需産業を喜ばすだけでしかない。しかし、安全保障とはそんな単純な盾と矛の論議で語られるものではあるまい。

 さらに敵とはどこの国、誰を指すのか。安倍晋三とその後継者たちはなぜ日本国憲法の前文と憲法9条の精神をなし崩し的に改変してまで軍備増大を増大して、どんな戦争に国民を巻き込もうとしているのだろうか。

 そもそも安全保障は軍事力によってのみ確立するものではない。戦争が外交の一形態である以上、外交力、政治力が最も重要ではなかろうか。また、安全保障という以上、食糧安保、情報安保、独自の産業技術開発なども考えなくてはならないのに、安倍の頭には憲法9条改編以外何もなかったのではないか。

 他にも社会保障・福祉政策、医療・保健政策、資源エネルギー政策での失敗や行き詰まりがあった。そのことは既に安倍政権の評価について多くの専門家が語り始めている。中でも教育政策はこれから何十年もこの国に負の効果を与えかねない失策である。モリ・カケ問題などは「安倍お友達コネクション」によって政治と行政がどれほど捻じ曲げられたかという事件であり、教育行政に限らず安倍晋三の政治の実態の何たるかを物語っている。わたしたちははそのことの重要性に着目して、一にも早く信頼のおける政治家を探し出し、育てていかなくてはならない。

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私的安倍晋三論

私的安倍晋三論(Ⅰ)

「一地方議員から見た安倍晋三と彼の政治・政策-1」

 安倍晋三元首相の「国葬」を目前に控えた正にその時に、エリザベス女王の国葬が重厚、華麗にして、敬虔でしめやかに営まれた。各国の元首がお悔やみに駆け付け、日本からは天皇皇后両陛下が参列された。女王陛下の統治下の英国の歴史がどうであったか、ダイアナ妃の悲劇を持ち出すまでもなく、王室内部の人間模様がどうであったかについては、いづれ取りざたされていくのであろうが、敬虔な気持ちで死者の冥福を祈ることは、万人の変わらぬ心情であろう。まして7年にわたってわが国の首相を務めたにもかかわらず、理不尽な暴力によって命を奪われた死者に鞭打つようなことは出来ようはずもない。安倍晋三の命を奪った犯人が安倍晋三の権力構造を裏で支えていたカルト教団に、どれだけ辛い目にあわされ、家庭を崩壊されたことでその後いかなる人生を送ってきたにせよ、それに同情し、情状酌量してはなるまい。罪一等を免れるようなことがあってはならないことは論を待たないことだ。

 しかし、不慮の死をとげたからと言って、公人である安倍晋三という人と、彼の政治に対する評価までしないですますというわけにもいくまい。彼が不慮の死をとげたとたん、若者を中心に彼を英雄視する風潮さえ見られ、それが日本人特有の同調圧力によってネットに拡散している。先の敗戦について未だに正確な評価がないどころか、英雄譚ばかりが語られている始末である。それもまた「死者を辱めることなかれ」という日本人の信条が、過去を正確に清算することを回避し、ひたすら忘れてしまおうとする風潮を生み、その間隙にあの戦争の肯定論さえ浸透させようという輩さえ出ている。

 同時代に生きているわたしたちがきちんと自分なりの評価を書き残しておくことは、わたしたちの未来への義務ではないかと考える。そこで「一地方議員の目から見た安倍晋三なる政治家と彼の政治」について、わたしなりに書きたいと思う。

 安倍晋三ほど毀誉褒貶を二分した政治家も少ない。毀誉褒貶とは功罪に対する評価のことであり、誉と褒が功、毀と貶が罪についてということになろう。そのうち彼の誉と褒については、わたしは列挙するだけの資料を持ち合わせていない。

 それでも彼の功績として、まあ評価できる点を3つ挙げよう。

①長期政権であったこと。

 彼の死に際して多くの外国要人たちが一斉に弔意を示した。それだけ彼の存在感が国際社会に存在していたということであり、それは長期政権を維持した者だけが得ることのできる特権でもある。

 ただ、外国から見た彼の評価は一口で言うならば「金持ちの気前のいいボンボン」ということである。わたし自身、すでに高齢者の年齢に達していた彼をイメージする時、どうしても紺色の半ズボンをはき、白い開襟シャツを着たひ弱なお坊ちゃんという風にしか見えていなかった。

②「潰瘍性大腸炎」という難病指定の患者であったこと。

 このことを決しておちゃらけや皮肉で言っていることではない。彼は表向きこの持病のために一度ならず退陣に追い込まれている。しかし、彼が潰瘍性大腸炎を持病としていたお陰で、多くの治療法や治療薬(新薬)が可及的速やかに承認され、また保険適用となっていて、その恩恵は彼一人のものではなく、多くの一般人の患者に及んでいる。もちろん、これも見方によっては、縁故政治・忖度行政との誹りを免れない。それでもわたしは、多くの難病患者に少しでも手が差し伸べられたことにのみ注目すれば立派な貢献だったと考える。

③円満な夫婦関係

 もう一つ、彼には褒められるに値することがあるとするならば、それは妻である安倍昭恵氏との夫婦関係だ。ラジオのMC、居酒屋の女将をやり、異色のファーストレディという好意的な評価の一方で、脳天気、KYなどと呼ばわれもしていたアッキー夫人を、彼は夫として、国会での追求からもマスメディアからの攻撃に対しても、ことあるごとにかばい、守り続けた。そのことは政治家の結果責任としての事の良し悪しはともかくとして、夫婦関係の鑑といっていいのではないか。

 もちろん、この夫婦の社会的地位を考慮しなかったらの話ではある。2人は日本の総理大臣夫妻である。森友学園事件などの追及を受けた際の彼の国会での妻をかばうための答弁の決め台詞によって、ついには自殺者まで出してしまったことを弁護することは到底できることではない。

 安倍晋三自身が祖父岸信介に溺愛されていたことは、あの東条英機が孫を可愛がっていたこととともに有名である。家族愛や夫婦愛そのものは、当事者たちの社会的な地位と切り離してみれば、微笑ましいあるいは羨ましい姿であることに変りはあるまい。

 どんな極悪非道の人間でも、ふと道端で出会ったクモの命を救うこともあるだろうし、どんなに高邁純真な人間でも、自覚の有無にかかわらず時として人を裏切ることもある。そんな思いから安倍晋三を見た時。彼の褒められるべき功罪の功として、以上の三つを挙げることにした。

 さて、毀と貶、つまり罪について評価することは枚挙にいとまがない。その中でも、彼の罪いや大罪としてわたしが筆頭にあげるのは、行政府にモラルハザードをもたらしたことである。

 戦後レジュームの中での日本の復興と高度経済成長を支えた原動力の一つに、行政機構をつかさどる官僚たちの正直さ、国に対する誠実さがあった。「あった」と過去形で言わざるを得ない状況を作り出したのが、ほかならぬ安倍晋三なのだ。国会論戦での彼の答弁に対する否定的な立場から「ご飯論法」「きな粉餅論法」「ストローマン論法」という言葉がネット上で流行し、特に「ご飯論法」という熟語は2018年、国会で当時の加藤厚生労働大臣のわざと論点をずらす誠意のない答弁を、法政大学の上西充子教授がツイッターで「朝ごはん」の例を用いて批判したことをブロガーの紙屋高雪さんが「ご飯論法」と命名し、その年の「新語・流行語大賞」に選出されている。安倍首相ではなく加藤厚労大臣(いずれも当時)の答弁が直接の命名のきっかけではあったが、実は安倍晋三自身がこの論法を最も常套的に使っていたために「ご飯論法」との批判はむしろ安倍に集中した。

 国会答弁だけではない。公文書の改竄、統計データの書き換えなどが次々に露呈したのが、安倍が政権に復帰した第2次政権からである。今や政府の統計や公式見解は嘘の代名詞になってしまった。太平洋戦争でのミッドウエー海戦の戦果を発表した「大本営発表」と同じであると考えられるようになったのも、安倍政権の残した負の遺産である。

 その安倍政権によって露骨になった政治家の「ご飯論法」が、行政府のモラルハザードを引き起こし、官僚たちの無責任体質と無気力感を生み、さらに民間企業の経営トップたちのモラルハザードへと波及してしまったことが、安倍晋三の犯した最大の罪であると言わざるをえない。

 安倍晋三の無責任体質の及ぼしたもう一つの影響が、東アジアを中心とした国際関係を悪化させていると言わざるを得ないことである。第1次安倍内閣の発足当時、彼自身が「戦後レジューム」からの脱却を掲げていながら、世界経済が20世紀型システムから21世紀型へとパラダイム・チェンジする新しい経済循環のシステムを模索し始めていたにもかかわらず、日本はそれに乗り遅れてしまった。それは日本の政治の中枢に居座り続けていた自由民主党が戦後レジュームから脱却できていなかったことの当然の帰結だったのだ。

 その結果、日本は中国だけでなく日本よりはるかに人口の少ない韓国にも経済面で後れを取ることになってしまった。そのことに対する国民のいら立ちや政府への不満をかわすため、安倍晋三は戦争責任を曖昧にする歴史修正主義をとった。それまでの河野洋平談話(1993年)、村山談話(1995年)を否定し、慰安婦問題も植民地支配の弊害も政府の統計処理のように、消しゴムで消し去ろうとし、戦争責任すらも否定し、なかったことにしようと世論をあおった。その一環として、朝日新聞記者への執拗な言論弾圧も行った。

 近隣の国々が最も憎むのは、日本の過去のふるまいそのものよりも、彼が過去の日本のふるまい、わたしたちの先祖の犯した過ちをなかったことにしてしまおうとすることにある。

 わたしたちは自分たちの国の歴史をなかったことにしてはならないことは理解している。しかし、明治期から敗戦までの歴史については未だにわだかまりがあって、違う考えのような気がする。本来、どんなに恥ずかしく愚かな行為であっても、やってしまったことをなかったことにはしてはいけないし、できることではない。できることではないからと言って、わたしたち自身の近代史を正確に検証しようというのではなく、初めからなかったものにしてしまおうというのが,安倍晋三の本音である。そして、彼のその本音を忖度する勢力によって言論弾圧が引き起こされてきた。

 「民主主義への挑戦」「民主主義を破壊しようとする理不尽な行為」などというが、民主主義は常にポピュリズムに陥りやすいし、あまつさえそれが極右的勢力と結びつくことによって全体主義国家になるということは、ヒトラーの登場と権力掌握から破滅までの道筋が物が立っている。

 安倍晋三は行政府と官僚のモラルハザード、近隣諸国からの非難と日本人への信用失墜を引き起こした。その上さらに最も深刻で、決定的な罪を犯している。それは国民が政治を見放してしまったことである。近年の国政選挙での投票率を見ると、小泉内閣の郵政解散総選挙と民主党(当時)が政権をとることになったマニフェスト選挙の時以来、下降のしっぱなしである。しかもそれが地方自治体選挙にも波及している。

 「サイレントベイビー」という言葉がある。小児科医学的にはあいまいな部分もあるが、要は泣くことによってなんらかの不満や期待を訴えても、それに答えてもらえなかった赤ちゃんが、ついには泣かなくなってしまうということである。昭和時代には常に70%以上あった国政選挙の投票率が、平成時代に入ると下降し始め、最近では50%前後、選挙によってはそれを切るところまで低くなってしまった。投票行動という意思表示し続けていたにもかかわらず、いつまでたっても応えてくれないどころか、安倍政権に至っては嘘と分かることを平然を言ってのけ、自分たちに都合の悪いことには見向きもしないという政治が続いていたのだ。国民が政治を見限り、なにも期待しなくなってしまった、謂わば政治不信が国民をして総「サイレントベイビー」にしてしまった。

 で、果たしてそれでいいのだろうか。もちろん良いはずがない。そのことは誰もが分かっているのではないだろうか。では、わたしたちは何をしなくてはならないか。そのことは、もう少し安倍政治を見つめなおしてから、考えてみたい。(続く)

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歴史に特筆されることになった第26回参議院選挙

(3)これからの日本

 (承前)わたしは安倍晋三を襲った犯人の人物像や、現在取りざたされている宗教団体のことについて、特に深く触れようとは思わない。天人共に許すことのできない理不尽な暴挙によって、良くも悪くも一人の政治家が突然命を奪われるということなどあっていいはずがない。かといって、この忌まわしい事件が政治と宗教の癒着を許してきたことの当然の結末であったということにして、一件落着などということにもしたくはない。それでも、そんなことに目を眩まされて、政治家への評価や、政策への結果責任についてきちんと考察することを忘れてはならないと考えているからだ。

 逮捕された山上徹也は鑑定留置することが決まった。少なくとも犯行前に彼が書いた文章を見る限り、精神に異常をきたしている者には見えないのだが、なぜ鑑定留置するのか、検察か裁判官は国民に説明するべきであろう。しかし、ここでもおそらくは「個人情報」「人権保護」「公判前の捜査情報」等を理由に、わたしたち国民には何も見えてこない。そのうち、コロナとウクライナのニュースの波にさらされて、わたしたちの興味も薄れ、メディアの追っかけもやむと考えているのではないかと勘繰りたくなる。

 テレビなどではいつものように犯人の人物像や、宗教団体の異様な教義と集金方法をセンセーショナルに言い立てているが、それでかえって、ではジャーナリズムには何の責任もないのかということを考えてしまう。マスメディアが常に留意するべきは、第三者、それも善意の第三者的な言説をとりながら、実はこの国をあらぬ方向に誘導しようという目には見えない(見えてはいるがそうと認識できない)動きに加担してはいないかという自覚と自問であろう。

 明治3年(1870年)に日本最初の日本語の日刊新聞横浜毎日新聞が創刊されている。その2年後の明治5年には現在の毎日新聞の前身東京日日新聞が創刊されてた。ちなみに朝日新聞の創刊は明治12年だそうである。そのころの新聞は今で言えば社説とコラムで紙面を占めるオピニオン紙であった。その後も明治7年に始まり全国に波及し活発化した自由民権運動と共に、政府系、反政府系の違いはあっても政治的な意見や論文をインテリ層に向けて情報発信する媒体として、多くの新聞が創刊されている。

明治7年には江戸期のかわら版に相当する讀賣新聞が創刊されている。こちらはいわば今日のタプロイド版に近い小さな紙面だったという。そのため小新聞などを呼ばれていたが、紙面は時事ネタと庶民受けする風刺ネタが中心で、発行部数では数ある大新聞を凌駕していたそうだ。

 いずれにしても論説中心の構成だった新聞は、当然ながら創立当時は家内工業的な規模を脱していなかった。次第に企業としての体裁と規模を有するようになり、それと共に記事も論説から事実報道に代わっていく。事実報道と言っても、それが事実であるということのエビデンスに基づく考証が前提になるがそれが当時どのように行われたのか今となっては想像するしかない。また、新聞報道の内容が意図したものせよ、そうでないにせよ、それによって世論がどう誘導されるかということは別問題である。日露戦争後の講和への批判や太平洋戦争時の世論醸成に果たした新聞の役割を考えれば、現代もまたこれからどうなって行くのか背筋の凍るような危惧を感じるのはわたし一人ではあるまい。

 良くも悪くもオピニオンリーダーとしての機能を有しているマスメディアだからこそ、安倍晋三やその権力構造の構成員たち、シンパたちは執拗にメディアへの言論封殺を試みてきた。そして、その彼らの目的は既に一定程度以上に達せられているかもしれないのだ。

 とはいえ、安倍晋三は亡くなった。犯人の動機が何であったとしても、そのこと自体は既に防ごうにも防げない既に起ってしまったことになったのである。襲撃を防げ得なかった警備体制は十分に検証されるべきであるし、そもそもこのような突発的なテロ行為を発生させてきた日本社会のひずみや隙間についても考察しなくてはなるまい。しかし、これからの日本、近未来の日本考える時、安倍晋三の死がこの国に何をもたらすのか、あるいはもたらさないのかということを、激動ともいえる国際情勢の中にあって、まず考えなくてはならないのではないか。

これからの日本をどうするのかと言えば、まずは安全保障ということになるだろう。安全保障というとすぐに軍備だ憲法改正だと声を高める勢力がいる。しかし、国の安全は軍拡競争によってのみ保障されるものではない。食糧安全保障。経済安全保障、技術や情報の安全保障等々多岐にわたる事象すべてを綜合的に考えなくてはならないのが安全保障である。

 「平和ボケだ」「近隣諸国からの軍事的脅威が増大している」と言い募って「軍事費を拡大させなくてはならない」「憲法を改正して自衛隊を軍隊にしなくてはならない」と声高に何度も言われると、なんとなくそんな気がしてくるかもしれない。「安倍晋三は国を守るために戦って死んだ」と大音響で言われると、初めのうちこそ抵抗を感じても、だんだんと同調圧力に屈するのが、わたしたちの持って生まれた性でもある。だからこそ、今は刮目して、それでも足らなければ冷水で顔を洗ってでも、冷静かつ慎重に世界を見回す必要があると言いたい。

 そもそも、たとえ隣国が責めてくるかもしれないと不安なったからと言って、ではどんな武器を持てばいいのか、どんな兵器をそろえれば、兵員はどのくらい増やせばいいというのか。亡くなった安倍首相は核による再軍備さえ口にすることがあったが、核には核という考えが如何に短絡した、それこそ平和ボケした衝動なのかということは、ウクライナへのロシアへの侵略戦争によって証明されている。ウクライナは核兵器を持っていなかったから侵略されたのか。ロシアは核兵器を持っているから好き勝手なことが出来るのか。それは違うだろう。核兵器はたとえそれが戦術核であったとしても一挙に世界全体の終末を誘発する。謂わば人類全体を巻き込んでの自爆装置に他ならないのではないか。

仮想敵を作って、その敵を凌駕するだけの戦力を保持しようとすれば、その敵は危機感からこちらを凌駕する軍事力を持とうとするだろう。それは永遠のスパイラルになるだけである。安全保障とは戦力や軍事力の優位性にあるのではなく、他国に侮られない国際政治力、交渉力、そして経済力や情報収集力であり、敵を作らない、信頼される国になることである。それを実現できるのは、結局のところ政治であり、政治家である。並大抵の政治家では到底なしえることではない。いくら声高に国防だ安全保守だと叫んでも、もり・かけ・サクラのちり芥で自らの足元を汚していたのでは、安全保障どころか国内外の信頼を勝ち取ることなど望むべくもないのだ。

一方で、これだけは明白なことだが、民主主義の国において政治家を選び、育てるのは選挙を通しての、我々国民の自覚である。今回の参議院選挙は大方の予想通りの結果であった。その意味では元首相の不慮の死も何ら影響を与えなかったのではあるが、少なくとも彼の望んでいた方向へ、この国が舵を切り始めているのではないという危惧の残る選挙であったことは間違いない。未来の歴史学者たちから、この選挙と元首相襲撃事件をどの様に評価され、歴史の一頁を飾ることになるのか、わたしたちには確かめる術はないのだが、これからこの国が辿る道の如何によって決まることになるだろう。(この項、終わり)

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歴史に特筆されることになった第26回参議院選挙

(2)国葬について

(承前)安倍晋三元首相が凶弾に倒れて2週間後、岸田首相は国葬を挙行することを閣議決定した。何より岸田政権にとって権力の維持のために必要なのである。あるからこそ、自党内の一部が声高に国葬、国葬と言い始める前に、自らの意志であることを示すために閣議にかけ決定したのだろう。

 しかし、安倍晋三元首相を国葬に付すことの問題は大きいと言わざるを得ない。その問題とは①法的根拠の有無についての説明②国葬決定までのプロセスの不透明さ③国葬に見合う衆目の一致する功績があったかどうか④初めから国民全員の賛意は求めないという発言⑤天皇陛下の扱い等々である。

法的根拠の有無については、わたしは法律家でも法学者でもないが、それでも大いに疑問を持たざるを得ない。日本の国葬についてのルールは国葬令(勅令)として大正15年(1926年)10月21日に制定され、敗戦後の1947年12月31日、日本国憲法施行の際に失効している。戦後1967年の吉田茂の国葬の際、当時の水田三喜男大蔵大臣が国葬に予備費を支出したことに対し、翌1968年5月の衆院決算委員会で、「国葬儀につきましては、御承知のように法令の根拠はございません。(略)私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています。(略)将来としてはそういうことが望ましいと考えています」と答弁している。つまり この時、水田大臣は「国葬儀については法令の根拠はない」「作ることが望ましい」と明確に答えている。しかしながら、その後60年以上も経過した今日に足るまで、国葬の法的根拠と挙行のための基準を作ったという話も、作ろうという論議もなかった。

1967年当時の国葬の決定者である佐藤栄作元首相の死去の際、国葬にすべきではという意見が起こったそうだ。しかし、この時は内閣法制局が「法的根拠がない」として待ったをかけている。今回、安倍元首相の国葬について、内閣法制局は岸田首相の決定に異論をはさんでいないことと対照的だ。

1967年当時の国会は自由民主党の安定過半数(486議席中277議席・1967年1月総選挙)に支えられて、佐藤栄作が長期政権を維持していた時だ。佐藤栄作が亡くなった1975年当時も1972年に行われた総選挙の結果、衆議院の議席数491議席に対して自民党は271議席を有していたものの、田中角栄首相のロッキード問題などで支持率が低迷し始めた時だ。現に三木首相に代わった第34回総選挙では総議席数511に対して249議席と過半数を割っている。2022年の現在、国会の勢力図は圧倒的に与党優位にある。

本来、内閣法制局は法の番人であり、その矜持を持っているべきである。誰のための番人かと言えば、それは国民のためであることは論を待たない。しかしながら、与野党の勢力が与党優位である場合と拮抗している場合とで、その肝心の番人が居眠りしていたり、はっきりと意見を言ったりするというのでは話にならない。もっとも、国会議員は誰が選んでいるかと言えば、我々国民なのだから、その当然の帰趨だと嘯かれれば何をか言いわんやということではあるが。

大体が国葬について考えようにも、法的根拠がない以上できようもない。戦前の明治憲法下における国葬令に基づいて論議することも時代錯誤も甚だしいということになろう。ただ、これだけは言えるのは、閣議決定しただけで果たして国の事業都言えるのかということである。内閣には執行権があるが、国家予算を伴う事務事業の全てが国会の承認がいるはずだろう。今の政権与党の数からすれば、国会審議をしてどんなごり押しも通るはずなのに、それすらせずに「国葬」ということにしてしまった。それが何を意味するのか、考えれば考えるほど空恐ろしい。

 国葬決定までのプロセスの不透明さについては、もともと法的根拠がないのであるから、あとは時の為政者の決断と後押しする勢力の圧力次第ということだろう。戦後の国葬の前例となる吉田茂の場合、10月20日に死去して、国葬は同じ月の31日に行われている。やるやらないの最終決断は佐藤栄作の日記によると22日だったようなので、事務事業としてのプロセスはなかったも同然だった。佐藤栄作は側近の幾人かに意向を確認していると書き留めているが、その通りだったとしても佐藤栄作が独断で決めたことに相違はあるまい。ただ、病死した吉田の場合、あらかじめ容態の進行について認識を共有する中で、国葬という儀式が浮上したことも否めないだろう。

 今回も色々取りざたされてはいるが、いろいろあったとしても岸田首相自身が決断したことに変わりはあるまい。閣議決定までに2週間を要しているが、それが長いか短いかはともかく、岸田首相の党内での位置関係と力の度合いを物語っているのかもしれないし、自民党内部が一枚岩ではないことを検証する際のエビデンスにもなるだろう。また、吉田茂の国葬の時は外国から特使の派遣はあったが、元首クラスの誰彼が来たという記事が見当たらない。少なくとも吉田茂の国葬を決定した佐藤栄作には、元首相の死を利用して弔問外交の成果を期待するというさもしい動機はなかったことになる。

 そもそも、葬儀を大々的にやろうというのは、送られる側ではなく、やる側、特に権力の継承者側の勢力誇示のためである。古くは織田信長の葬儀を取り仕切った羽柴秀吉の例もそうだし、近くは吉田茂の国葬を取り仕切った佐藤栄作もそうだった。岸田首相の場合、外国の元首クラスの要人との会見までもセットしなくては、その権力誇示すらおぼつかないというのだろうか。

 さらに言うなら、仮に安倍晋三という人物が今でなく、もっと先に彼の持病が悪化して亡くなっていたとしたら、彼は果たして国葬に付されていたであろうか。彼の遭難死が将来特筆される令和史のトピックであることは間違いはないだろう。しかしそれは政治家としての彼自身に対する評価、彼の政治実績に対する評価、そして彼を国葬に付すると決断した岸田首相の判断への評価の結果ではなく、ただ単に選挙遊説中に凶弾に倒れたというエキセントリックな事件として、歴史に残るだけではないだろうか。

 国葬に見合うだけの政治的実績をどう評価したのということについては、これから9月27日の当日に向けて、賛否双方の陣営から、あと付で出てくるだろうが、今のところ「8年8カ月の長期政権を担ったこと」「国内外から幅広い弔意が寄せられていること」という、いかにもとってつけたような理由付けだけが語られている。国際的な評価が高いというならノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作でさえ国葬にはなっていない。「東日本大震災からの復興」の功績も挙げられているが、こちらに至っては功罪、毀誉褒貶相半ばするどころか、批判されるべきことの方が多いのではないか。

 「初めから国民全員の賛意は求めない」という発言を聞いた時、わたしは耳を疑った。一見、「そりゃぁそうだろう」と頷きたくなるような言葉だが、事は国葬である。民主主義によって成り立っている国であれば、国民の総意によって葬送される人物のみが国葬に値するのではないか。もちろん、価値観の多様化している現代社会において、全員が賛意を示すというのも空恐ろしい話ではあるが、少なくとも時の権力者が口にしていい言葉ではない。「説明を尽くして理解を求めていく」と付け加えても許されることではない。つまり「国民が何と言おうと、わたしがやると言ったらやるんだ」と言っていることに代わらないのだ。

⑤ その国民の総意の一つの証左として、天皇陛下のご臨席がある。平和憲法によって天皇は国民統合の象徴ということになっている。天皇がご臨席されるかどうかは、つまり国民の総意がそこにあるかどうかということである。天皇がご臨席になるためには、国事行為としてそれなりのプロセスを踏んだものにならなくてはならないが、今回はどうなるのか。法的根拠が何もなく、時の内閣の閣議決定だけで、国会を開くこともなく予備費を使って行われる場所に、我々国民統合の象徴である天皇陛下はご臨席できようもあるまい。

 現に吉田茂の国葬の場合も、昭和天皇はお使いを派遣しただけでご臨席になっていない。当時の皇太子夫妻(現上皇陛下夫妻)はご出席になっているが、憲法上、天皇と天皇のお使い、皇太子では全く意味が違う。昭和天皇は太平洋戦争への深い悔悟のお気持ちから、憲法と法を守ることを非常に厳密に優先されていた。そのこともあって、昭和天皇は吉田茂の葬儀にご臨席ならなかったし、ついでに言うならばA級戦犯が合祀されて以降、それまで欠かさなかった靖国神社参拝に、ついにお亡くなりになるまで一度も行幸されなかった。(続く)

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歴史に特筆されることになった第26回参議院選挙

(1)事件は民主主義に対する挑戦だったのか。

 あまりにも強烈な事件であり、この手の事件は常にそうだが表に見える直接的な動機だけでないものや、場合によっては指嗾者の存在を疑わなくてはならないし、テロの実行者の動機や目的とはまったく無関係に、社会的な影響や結末があるかも知れない。発生して未だ時がたたない段階で何か言うのは、いろいろな意味で危なっかしい。しかし、逆に一凡人の直感的な思いを書き残しておくことも意味があることかもしれないと思い直して、パソコンに向かっている。

 事件発生までのこの国の社会的なひずみや病巣、事件発生直後のわたしたちの反応と政治的な動き、日本の近未来についての影響、謂わば安倍事件の「昨日・今日・明日」について、発生から2週間という今の段階のわたしの視点をまとめてみたい。

与党側の戦術が功を奏したのと、野党側のだらしなさのお陰で、さしたる争点もなく低調な選挙戦になるはずが、終盤にきて突然、政治史というよりは社会史として日本の歴史に残る選挙となった。選挙結果は大方の予想通りとは云え この国の近未来に暗雲の立ちのぼるのを見て懼れるのはわたしひとりだろうか。

 今日の日本を象徴するような政治家が突然の暴力によってその生命を奪われた。そのこと自体は理不尽で絶対に許されざる行為の結果ではあるが、ではこの事件が政治的な出来事だろうかと言えば、そうとは捉えにくいというのが衆目の一致するところであろう。むしろ、近年次々に起こった事件、大阪池田の小学校襲撃事件、東京秋葉原での無差別殺人をはじめ、神奈川の施設での障がい者大量殺人、京都でのアニメ会社放火事件、大阪の心療内科クリニック放火事件と続いた連鎖の果ての事件だとわたしは捉えている。これらの事件は全て単独犯の厭世的な衝動によるものだった。その背景に共通して存在する現代日本社会のひずみや病巣が伺い知れる事件だとわたしは感じている。

 事件翌日の新聞各社は口をそろえて「民主主義の破壊を許さない」と書き立てたが、少なくとも凶行に及んだ犯人は「民主主義を破壊する意図などない」と言う意味の言葉を書き残している。「安倍元首相に対する直接的な恨みすらない。宗教団体に関する恨みを晴らす相手として選んだだけだ」とさえ言っている。

 メディアは一体、誰から、あるいは何から民主主義を守るというのだろうか。この素朴な疑問には、今のところまだどこの新聞社からも答えはもたらされていない。良くも悪くも日本の政治権力の中枢にいる人物が、選挙活動として行っていた街頭演説中に襲撃され遭難死したのであるから、言論の封殺だと言い立てるのは分からないでもないが、犯人は安倍氏の言説や政策に怒りを感じて、それを封殺するために凶行に及んだわけではない。付け狙ってもっとも襲撃しやすい機会を得たために実行したに過ぎない。

 それでもわたしは今回の事件は民主主義の危機であると捉えるべきだと考えている。参議院選挙の結果は大方の事前予測通り、政権与党の圧勝に終わった。少なくとも安倍元首相のもっとも願った結果であろう。しかし、この選挙結果を彼のその先の野望である日本の軍事大国化と軍国主義の道に進み始める一歩にしてはならない。わたしがそう思うのは何より、テロリズムという手段は常に、その動機や直接的に目標にしたものとは全く次元の違う結果を生み出してきたからである。大正末期から昭和初年にかけて、ここ国に吹き荒れたテロリズムの先に何があったかを考えてしまうのである。血盟団事件から2.26事件までの一連のテロリズムを、それぞれの指嗾者の思惑と実行犯の動機や信念そのものと、当時、あのテロリズムの連鎖を生み出してしまった時代背景を見比べると、今日の日本や世界の社会情勢に共通するものがあるのではないかと、わたしはうすら寒いものを感じるのだ。

 森友・加計・さくら事件は誰にまつわるスキャンダルだったのか。特に森友学園への国有地払い下げに関しては財務省理財局による決裁文書改ざん問題が浮上した挙句、職員が自死しているという事実に対しても、自公の国会での圧倒的な議席数にあぐらをかいた安倍政権が真相を解明することはついになかった。

さらに言えば安倍晋三政権がメディアに対して言論封殺を図ってきたことは周知の事実である。1991年8月に「元慰安婦の証言」という記事を報じた朝日新聞大阪社会部の記者に対して、記事が捏造であるという執拗なバッシングキャンペーンが始まったのは、安倍晋三が政権に復帰した後の2014年からであるが、森友問題が浮上したのは2016年、加計学園問題は2017年、「桜を見る会」への政治資金規正法違反の疑いに関して、安倍晋三後援会の政治資金収支報告書を訂正したのが2020年で、その度にバッシングのボルテージは上がっている。

実は初めて元慰安婦の証言記事が掲載された1991年当時、元慰安婦の女性のインタビューを記事にしたのは、朝日新聞だけでもバッシングの対象となった植村隆記者だけでもなかった。それなのに記事掲載から10年以上もたってから、朝日新聞1社、記者一人だけをターゲットにしたのは何故なのか。中には少なくとも2016年までは朝日の記事を事実として、雑誌などで主張してきた櫻井よしこのように、2016年にバッシングが始まると同時に、180度論旨を転換させて、植村隆記者の記事や彼が取材した元慰安婦たちの証言を捏造と主張するようになった者もいる。

ひとつにはメディア全体への言論封殺のための恫喝であったことは明白であり、そのためのスケープゴート選びに適ったのが、たまたま植村隆氏だったということである。時の権力者が言論封殺しようとするのは、常に大きく根深い疑惑や知られては不都合な事実から、大衆の目を逸らすためではなかったか。

繰り返しになる。事件が発生した翌日の新聞各社が「民主主義」や「言論」について、異口同音に叫んでいたが、それを云うなら、民主主義の大前提である、情報公開、説明責任について権力者が犯してきた問題を、例え亡くなった直後であっても、いや直後だからこそ改めてきちんとした評価、少なくとも評価するための考察をするべきだと主張するべきではなかったか。亡くなった権力者は民主主義の大前提を冒涜してはいなかったかという、歴史に照らしての考察があるべきである。

 その考察の工程を何ら踏むことなく、岸田首相は秋に安倍晋三元首相の国葬を挙行すると国の内外に公表したのだから。(続く)

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今年も夏の交通安全運動が始まります。

 今年も7月15日(来週の金曜日)から「おおいた夏の事故ゼロ運動」が始まります。野津原中学校の生徒会長竹山弦伸君は6年前、弟を交通事故で亡くしています。その悲しい思い出を元に、交通安全を訴える作文を書いてくれました。どうか一人でも多くの方に読んで頂き、こんな悲しい兄弟、ご両親がこれ以上増えないよう祈りたいものです。

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いでぐち良一後援会「良友会」会報

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大分市議会令和4年第1回定例会 議会報告

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ネブリナ山の不思議の城第9話(最終回)結婚式はさようならの日

 春の雨が降る静かな朝ですね。いまも、ウクライナでは悪魔の所業で阿鼻叫喚が続いているのですが、わたしたちの目に見える身の回りは日々平安です。「ネブリナ山の不思議の城」最終回です。印刷所の都合で挿絵画家が交代しましたので、絵の雰囲気が変わりました。

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ネブリナ山の不思議の城第8話「サンドロの決意」

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